第四話 『緑の忠義の騎士、バシュルロ 4/5』




「え……」


 王妃の目が、開かれた。


 無数の蔦に覆われて眠っていた彼女が、身を起こす。王妃の前には、彼女にとって見知らぬ男がいた。


 男には戦いの跡が残り、頭から血を流していた。手を伸ばして王妃を引っ張り上げた。


「あんたが、サーラーシュ王妃だな?」


「……は、はい。そうですが」


「手を。ここは足元が悪い」


 差し出された手に王妃は躊躇したが、足元を見れば植物の太い根のようなものが地面を這っていて、男の言う通りだった。仕方なく彼女は手を借りて、降り立った。


 あらゆるところに植物の根が伝う、暗い部屋だった。


 王妃が、自分が今までいた場所を振り返ると、その枯れた植物のベッドはまるで、抜け殻の蛹のようだった。出口の断面は鋭利で、剣で斬り開かれていた。


「名乗り遅れた。俺はアンバーという。サーラーシュ=ワッツナーグ・イルベルト殿下」


 アンバー──樹壱が、胸に手を当てて頭を下げた。


 身なりは無骨な傭兵で、簡素な略礼ではあるものの、所作は洗練された貴族の礼儀を守った礼であり、それはサーラーシュ王妃を少しばかり安心させた。


 少なくとも、単なる野党の作法ではない。


「あんたはここに囚われていたんだ。長い間だ」


「何が起こったのです? この場所は?」


 王妃が周囲を見回す。


 全てが変わり果てていたが、ここは自分の以前の居室であったことに気づく。


 巨大な薔薇が横たわっていた。窓のあった壁はすでになく、外に向けて無数の根が這いだす虚空の近くに、古びて傷だらけの薔薇は、ついに力尽きて倒れていた。


「まさか」


 サーラーシュ王妃が駆け寄った。


 薔薇の体は大きかった。頭だけで、彼女の体の何倍も大きい。


 薔薇の頭には、無残によれよれの花弁が一枚残るばかりで、そこには汚れた革のワッペンがぶら下がっていた。


 恐る恐る、王妃は薔薇の怪物に手を伸ばす。


「バシュルロ? あなたなの?」


 ワッペンに、『老いた』男が映った。


「──すみません。王妃っ……!」


 それは慙愧に堪えぬ顔で、静かに涙を流していた。


「ああ、バシュルロ。やっぱりあなたなのね。どうして……?」


「……それは」


 バシュルロと呼ばれた薔薇は俯き、それきり黙りこくってしまった。


 樹壱が二人に近づき、言った。


 部屋にあった姿見の鏡が、マントに埃を拭われて、手から提げられていた。


「何が起きたか説明する前に。あんたのポケットの中に、あるものが入っているはずだ。それを渡して欲しい」


「ポケット、ですか?」


 王妃が自分の服を探ると、古いブローチがあった。見覚えのあるものだ。


 装飾の中央には強く禍々しい魔力を放つ、白い小石がつけられていた。


「持っているべきじゃない。俺に預けて欲しい──これ以上、手荒なことはしたくない」


 紳士的な態度だが、断固とした声だった。王妃は倒れたバシュルロとブローチを見比べ、おずおずと手渡した。


 よし、と樹壱が頷く。


「結構だ。では説明しよう。これを見るんだ」


 樹壱が王妃に向けて、ひび割れた鏡をかざした。


 そこに映っていたのは──


「えっ。私は」


 白く透き通る、王妃の姿があった。


 体も髪も、服も白く、彼女の背後の壁まで透けて見えていた。


 王妃は自分の頬に触れ、呆然とした。


「サーラーシュ王妃。あんたはもう、死んでいる。今から100年前のことだ」


「……」


「近隣と合わせて三国を飲み込むほどの、大量の魔物のスタンピートがあった。覚えているか」


 ああ、と王妃の体が震えた。


 王妃はもう自分を思い出していた。


「──そう。そうでした。北の二国が魔物の群れに呑まれたと聞いて、私は、あの日。国と民を守るために出たトールを見送って。それで」


「う、う。うう……!」


 バシュルロという薔薇が、蔦を振ってうねらせた。樹壱には意図が分からなかったが、王妃はその動きが後悔を示す感情表現だと知っていた。


「バシュルロ」


「許してください王妃。あの時俺は、何も出来なかった……。ただ無力だった」


 震えてむせび泣くバシュルロの大きな頭に、王妃の手が労わるように触れた。


「……続けてくれ」樹壱が言った。王妃が頷いた。


「討伐の軍が壊滅したと聞かされたあと、すぐに魔物たちが城下に大挙してきました。夫の安否も分からず、避難の準備さえ間に合わず、私はラットゥ王子のそばにいて。近くにはバシュルロとメイドも。でも」


「……」


「城門が破られて。館に怪物たちが来ました。逃げ場もなく、ラットゥを隠したと同時に、ドアから敵が。

 私を守ろうとしたバシュルロが目の前で倒れて。大きな牛の頭の怪物の爪が、私の胸を、貫いた」


 サーラーシュ王妃が立ち上がり、もう壁のない壁際に近づいた。ぼろぼろの床を見つめた。


「ここです。ここで私は、死にました──」


 そして王妃は、自分の腹を撫でた。


 細い腹部には、もう在りし日の妊娠の膨らみは無かった。


 幸福の証だったもの……。


でした。とっさに、お腹を庇ったんです。ですが」


 王妃が涙をこぼし、顔を覆った。


「名前も、呼んであげられなかった。ごめんなさい。ごめんなさいっ……!!」


 子を守れなかった母親の慟哭が響いた。


 だが、横たわるバシュルロが、か細い声で言った。


「違うんだ。王妃。違う」


「……バシュルロ? 違うとは、なにが」


 バシュルロが黙した。ここに樹壱がいるからかも知れない。


 横目で見ていた樹壱が、赤の他人には排他的な薔薇に溜め息をつき、言葉を引き継いだ。


「サーラーシュ王妃。俺には過去を見る魔術のような力がある。あんたが死んだ後、何があったのか知った」


「! おい、やめろ」




「王妃あんたは──お腹の子供を、出産した」




「──え?」


「女の子だった。あんたの心臓が止まった後、魔物は立ち去り、そこの薔薇と4歳の王子が赤子を取り上げた」


 呆然とする王妃に、樹壱は続ける。


「危機的な状況だったようだが、子供の健康に問題はなかったらしい。そして」


「──もういい、黙れっ!!」


 バシュルロが怒声を発した。諦めたように言った。


「分かったよ。もう俺の負けだ……。あんたは黙っててくれ。ここからは、俺が言うよ」


 樹壱は一歩後ろに引いた。王妃に顛末を伝えるならば、彼の方が相応しかった。


 震える王妃が、バシュルロに近づいていく。


「ば、バシュルロ? あの子はどうなったの。生まれていたのですか? ラットゥが取り上げたって」


「そうです。俺とラットゥがやった。貴女の体は破水していて、死体から」


「……そんな……!」


「でも、生きてた。生きてたんだよ……! あの子は元気に泣いていた……!」


 バシュルロは泣いていた。


 その時の赤子の重さを確かめるように、蔦が動いた。


「男の子ならリュリック、女の子ならアミーシアって言ってましたね。王様と貴女が二人で決めて。だからアミーシアと名付けました。あの子をおくるみにして、ラットゥに抱かせたんだ。

 あの後、部隊の一部がここに戻ってきて、なんとか魔物を追い払った。すぐに南に向けて避難することになって。だけど、俺は」


 自分の植物の体を、バシュルロは見る。


「ラットゥと、生まれたばかりのアミーシアを兵に任せて。俺はここに置いていかれることを、自分で選びました」


「……どうして!? あなた、逃げなかったのですか?」


「逃げるには、お荷物だったからです。俺は足が遅いし、長距離も移動できない。あの頃は鉢もずっと重くなってたし、死にかけの魔法生物なんかより怪我人を運ぶので、馬車がいっぱいだったんですよ」


 王妃が絶句した。バシュルロは自嘲する、しかしすぐ忸怩たる思いに変わる。


「ああ、でも、ラットゥ達がずっと心配で。俺、『株分け』をしたんです」


「株分け?」


「俺の根の一部を取って、小さな鉢に植え付けたんですよ……。ほんの小さな鉢です。それをラットゥに持たせて、スペアの表情表現の魔道具をつけて。

 分体の俺は、弱くて何もできないけど、せめてそいつが二人を見守ってやれるように──」


「バシュルロ、あなた。そんなことまで出来たの……?」


「俺は、薔薇ですよ?」


 ぼろぼろになった革のワッペンの中で、老人になった男が笑った。


 それから深く息を吐く。薔薇は天井を見上げていた。


「避難を見送ったその後は、俺はこの館の中で身を隠しました。あの頃の俺じゃ、魔物の次の襲来に敵わなかったし、殺されるだけだと思って。

 力を蓄えようと思ったんです。栄養を吸い上げてもっと生長すれば、いつかあいつらをここから追い返せるかも、それから後を追おうって」


 歳を経て巨大化した薔薇は、今なら魔物の群れも物ともしないだろう。この巨体ならどれだけ来ても、叩き返すことができたはずだ。


 だが、その時の彼は植物としてまだ幼く、今となっては、全てが手遅れだった。


 過去を聞かされた王妃は、複雑な顔をしていた。


 ひとまずは子が生き延びていたことで一抹の安堵をしつつも、残酷な運命に打ちのめされてもいた。


 死を受け入れることは辛いことだ。


 無念、心残りはいくらでもある。困惑や恐怖もあるだろう。


 やがて王妃は言った。


「そうだったのですか……。あの頃はあなたも、少年の顔をしていたのに。こんなにおじいさんになって」


「王妃」


「ですがそれでは、私は? どうしてこの姿に? 様子を見るに、私はあなたによってここに幽閉されていたのですか。100年も?」


「……。それは」


 バシュルロが口ごもった。言いたくないという様子だった。


「なぜですか? 今なら分かります、あの夢は何ですか。あなたが魔法で見せていたのでしょう」


「王妃。俺は貴女のためを思って」


「嘘で塗り固めた、仮初めの幸せなんて……! あれは過去の日を都合よく切り貼りして、ずっと繰り返していただけ。あなたを友達だと信じていたのに!!」


 王妃の涙ながらの怒りに、大きな薔薇は怯えて、体を縮こまらせた。


 今の彼女は、誰よりも信頼していた親友の裏切りに対して、傷ついて怒っていた。


 なぜ自分を信じて本当のことを伝えなかった、どうして言ってくれなかったのと、彼女の瞳が語っていた。


「言いなさい! 私を騙して!」


 横で見ていた樹壱が、助け船を出した。


「まあ、サーラーシュ王妃。幽閉が仕方なかったのは、おそらく事実だろう。これだ」


 樹壱は手にあるブローチを見せた。女神の欠片がはめ込まれた、歪な魔力を放つブローチ。


「夢、というのは知らないが。死んだ時に、あんたがこれを持っていたなら、ひとまず封印的な措置をするのは間違っていない。今のあんたは亡霊──いわゆる、レイスという奴だ」


 生前に強い魔力を持っていた者に限るが、死者が亡霊レイスとして蘇ることが、ごく稀にある。


 亡霊レイスは怪異……魔物、怪物とされる一種だ。


 死者の中でも、例外的な存在である。発生する割合は、強い魔力持ちの一万人に一人いれば多い。


 とにかく問題はその時、亡霊の王妃が女神の欠片を所持していたことだった。


「直接石を手で触らず、ブローチにしてポケットに入れていたため運よく、力の発動はしなかったようだがな」


「その石ですか? 異様な力があるのは知っています。危険を感じて、封印しようと思っていたものですが」


「正しい対応だ。これは死んだ人間の願望を、歪んだ形で叶えるという力を持つ」


「願望を?」


「特に何かを失った死者には、強烈に働く。この場合ならおそらく、失ったものを取り戻そうと周囲を巻き込んで、誰も望まない結果をもたらす」


 亡霊レイスの状態であれば、欠片は死者と同じく力を発揮する可能性がある。


 何が起きるか完全な予測は難しいが、より酷いことになったのは、樹壱の見るところ間違いないだろう。


「そのバシュルロという薔薇は、魔法理論にもずいぶん詳しいようだ。まさか攻撃魔法まで撃ってくるとは思わなかった……。マントが半分焦げた。しかし、だとすれば」


「他には、やりようがなかったんだ」


 震える声が聞こえてきた。薔薇は苦悩していた。


「しばらくして……亡霊レイスになった王妃を、館の中で見つけた。貴女は錯乱していた──へこんでしまったお腹と、ラットゥと、王様の姿を探してました。どこに行ったのですかって言って暴れて、壁まで引っぺがして」


「わ、私がそんなふうに?」


「亡霊化した際の、典型的症状だな。しばらく記憶と意識が混濁し、生前大切にしていたものを求めて彷徨う」


 樹壱が補足する。


 バシュルロは言った。


「俺を見つけて少し安心したけど、またすぐに暴れ出して。その時、変な魔力の膨らみを感じたんだ。最初は小さかったけど、どんどん強くなっていって。

 このままじゃ危ないと思って眠らせることにしたんです。でも、うなされてる声ばかり聞こえてきて」


 触手が伸び、老朽化した本棚から、一冊の羊皮紙の本が取り出された。


 魔法理論について書かれた一冊だ。


「俺、王妃と一緒に魔法を研究していたから。必死になって読み返しました。夢を操る魔法──それを見せたら、落ち着いてくれたんです……」


「それで、あなたは私を」


「だけど、だけど……! 術を解けばいいのか、分からなかった!!」


 枯れかけの触手が苦しげにうねる。バシュルロの心を表すように。


「みんなが南に避難した日、あの時は、本当に酷かった。ラットゥとアミーシアは生き残れたのか、ちゃんと逃げられたのか。見たこともない数の魔物が、そこら中を埋め尽くしていて。

 絶望的なんじゃないか、って考えがよぎった。みんな逃げきれずに、俺たちを置いて死んでしまったんじゃないかって。

 俺、ある時体を上に向かって限界まで伸ばして、峠道の向こうを見たんです。遠くにぼろぼろの馬車の列の、残骸が……あった。形に見覚えも。もしかしたら、あの馬車の列は。

 貴女の目を覚まして、それを伝えるのが……怖かった……!」


「……!」


「それなら、全部隠して。せっかく生まれてこれたアミーシアのことも……。真実を知らせて苦しみを増やすだけなら、せめて、優しい夢の中で幸せにいれれば」


「バシュルロ……まさかあなたは、100年もここで苦しんでいたのですか? 私を守って一人ぼっちで、ずっと?」


「王妃、俺は分からないんです。もう何も。あの後、二人がどうなったのか。俺はやっぱり付いていって、一緒に死んでやるべきだったのでしょうか?

 でも、亡霊レイスになってしまった貴女を置いて逝けない……。生きるのに絶望してた俺を救ってくれた恩人を、命を拾ってくれた人を置いては。あ、うあああ」


 震え、慟哭するバシュルロを、王妃が抱きしめた。


「が、頑張りました。あなたはすごく頑張ったんです、バシュルロ。……友達を疑って、ごめんなさい……!

 私のために、必死に隠そうとしていたんですね。私があの子達を失ったと知って、傷つかないために。あなたはやっぱり、私の本当の親友です」


「すみません、王妃。すみません」


 ただ許しを請う忠義の薔薇と、100年の眠りにいた王妃は、抱き合って泣いた。


 樹壱は席を外して、外に出た。


 誤解は解けたようだ。ならば、古い再会を邪魔したくはなかった。






 ────────────────






 三十分後、樹壱は部屋に戻ってきた。


 泣き腫らした二人は、少しだけ落ち着いたようだった。深い喪失の哀しみにいたのは変わらなかったが。


 樹壱は部屋の隅に置かれていた、古い植木鉢を見た。


 バシュルロの根は部屋中に広がってはいたが、そこが『最初の場所』だということは分かった。


「さて。バシュルロと言ったな」


 ワッペンの中の男が、樹壱を見て言った。


「あんたには、全部壊されちまったな。気に食わないよそもの。……本当に人間なのか? 消えたり現れたり剣を飛ばしたりして」


「どうかな。それよりも、お前も分かっているはずだ──お前はもう長くない。間もなく死に至る」


 バシュルロが黙った。王妃が驚き、彼を見上げた。


「寿命だ。既に枯れかけている」


「ああ、そうだよ──もうどこも枯れてボロボロだ。最後に残っていた力も、誰かさんにやられて使い果たしちまった」


 いじけたように彼は言った。


「嘘でしょう? せっかくあなたと会えたのに。そんな」


「すみません、王妃。薔薇にしては長生きだと思うんですが」


「嫌です! 私を置いていかないと、言ったばかりじゃないですか」


 どうにもならない時の流れにバシュルロが俯く。


 だが樹壱は首を振って、王妃に言った。


「いや。あんたもだ王妃。亡霊レイスも本来、長く存在できるものではない。

 肉体という魔力生成する器官を持たない亡霊は、持っている魔力を使い果たすと同時に停止し、いずれ保護を失った魂が、自然消滅してしまう運命にある。

 このままなら、もって半年」


「えっ……」「……」


 驚く王妃に、顔を逸らすバシュルロ。


 薔薇の彼は知っていたようだった。100年の間に、レイスの詳細は調べ終えていたのだろう。


「あんたが寝ていた、あの蔦のベッド。魔力が通されていた。その薔薇はあんたが消えないよう、ずっとあんたに自分の魔力を注いでいたはず」


 亡霊化は、けして寿命の楔から解き放たれるような、便利なものではない。


 存在し続けるためには、外部からの魔力供給を必ず必要とする。


 加えて、体の正常な感覚器官を失ったことで、生き永らえても数年もすれば、ほとんどが狂気に堕ちる。


 王妃が狂わずに済んだのも、正常な思考を取り戻せたのも、ずっと眠って夢の中にいたからだろう。


 長くは保たない。


「結局、死はほぼ常に、誰にも取り返しがつかないものだ。命を戻すことは出来ず、むき出しの魂が保護する殻もなしに存在し続けられるわけがない」


「そんな……では、私たちは……」


「──しかし今回は、『』になりそうだ」


 樹壱はインベントリから、スクロール状の長い呪符を取り出した。


 それをバシュルロのいた古い植木鉢に巻きつけた。


「な、なんだ今の。どこからどうやって出した?」


「わ、私も魔力は感じませんでしたが。魔道具の効果? ですが」


「やはり魔法に造詣があるようだが、俺の能力は少し特殊だ。詳しく説明する気もないが。今からそいつの魂を、肉体から分離させる」


 樹壱はペンを取る。一筆入れて、スクロールの魔法を完成させる。


「この魔法は知っているかも知れんな。『幽体離脱』の呪符だ。だが構造は俺が書き足していて、少々違う」


 魔法が発動する。


 巨大なバシュルロの体が力を失い、いくつもの蔦が地面に落ちた。


「バシュルロ!?」


「安心してくれ、サーラーシュ王妃。すぐに『出てくる』」


 バシュルロの以前の住処、古い植木鉢から。


 白く透き通った薔薇が、顔を出した。


 それは小さな薔薇だった。頭には赤い花、首から小さなワッペンをぶら下げており、根を動かしてふわふわと浮いていた。


「……は? な、な、なんだこりゃ」


 薔薇の幽霊が喋った。サーラーシュ王妃の手の中に収まってしまった。


「これは、バシュルロの魂? なんだか、小さくて可愛いですね……」


「想定通りだ。やはり大陸中央で造られた、件の魔法生物だったな。実験記録では成形された小型の魂を封入したとあったが、こうした人工の魔法生物は、体が成長しても、魂のサイズが変わることはない」


「あなた、私が商人から買った時と同じくらいですね? よしよししましょうか?」


 王妃がバシュルロの花弁を優しくなでる。バシュルロが「ちょっと王妃!」と照れたように叫んだ。


「この『幽体離脱』は、肉体との距離制限なく、魂を移動させることが出来る。さすがにこの死にかけの巨体を運ぶわけには、いかんからな」


「勝手なことしやがって。さっきから何をする気なんだ? それに実験記録って、そんなもの調べたのか?」


「お前も知っての通り、俺がここに来たのは『二度目』だ。過去を色々見て、気になることがあってな。少し出掛けた」


 王妃は夢の中の出来事を思い出す。あれは現実とは違うが、いくつか現実を反映していたように思う。


 夢では、黒い男──おそらく目の前の傭兵──彼が迫ってきたところで扉が閉まり、起きたら朝だった。


 二回来たというのは、その反映だったのかも知れない。


「実験記録についてもそうだが、俺の記憶と相違がないか、確かめておきたかった」


「何の記憶だよ……」


さ」


 樹壱が、にっ、と笑った。バシュルロを持った王妃に手を伸ばす。


「さあ出掛けよう──今の俺は、とても『気分がいい』。こんな気持ちは久々だ」


「えっ。これから外に出るのですか?」


「気分がいいって何がだよ、あんたは、目が全然笑えてないんだが。というか俺の体はどうするんだよ!?」


「どうせ死にかけているし、もう要らんだろう。ここに捨てていけ」


「はぁ!?」


 小さなバシュルロが怒って蔦を暴れさせた。


 だが王妃の手が、ぎゅっとバシュルロを抱いた。


「ですがあなたもあのままでは、寿命で死んでしまいます。もしかすれば……」


「お、王妃。そうですけど、レイスになっても結局は」


「かの方は何か考えがあるように思えます。害意があるなら、既に私達は斬られているでしょう。確かに、どうせ。これからの手立てもありませんし、ここは従いましょう」


 王妃の一声で、渋々バシュルロも承諾した。


 二人は樹壱に促され、滅びた居館を後にする。


 一階の玄関から外へ出ると、激戦の跡の残る庭先。


 樹壱はここから遥か遠くに見える、峠の方を指さして言った。


「まず、あそこに『出る』。サーラーシュ王妃、手をしっかり握って」


「はぁ」


 ともかく言われた通りに王妃は手を強く繋ぎ、樹壱はそのまま歩き出す。


 数歩歩いたところで──


 視界が、一変した。


「「!?」」


 辺りを見れば、既に峠道にいた。振り返ると、ついさっきまでいた居館が遠くにあった。


「俺の術は、こういうことが出来る。急ぐ時には使いでが良い」


 樹壱のインベントリ窓は視界内にさえあれば、どこまでも遠距離に展開することができた。


 門のように使えばくぐるだけで、一瞬でワープすることが可能だ。


 インベントリ窓が見えない他の人間からは、突然景色が変わったように感じる。


「次はあちらの山だ。山頂付近に出る。そのまま南の方角へ」


「すごい……。ですが、私達はどこまで行くのですか?」


「説明するより、見せた方が早い」


 また数歩歩くことで、山の山頂へ。もう滅びた城下は見えなくなっていた。


 樹壱と王妃達は、そうして次々にインベントリ窓を通り、ひたすら山々を越えて南へと向かっていく。


 二桁の回数を数える頃には──見知らぬ山の上にいて、眼下には、大きな街が見えていた。


 生きている街だ。


 目を凝らせば、そこには活気ある人々の暮らしがあった。


 大勢の人々が太い通りを歩き、雑多な人種の姿があった。


「ここは……」


 王妃が驚きの呟きを漏らした。手の中のバシュルロも目を丸くしていた。目はないが。


「到着した。ここは、『ヴィッツ連邦共和国』という名の国」


 樹壱が、やはりぎこちなく笑って。言った。


「100年前。北にある三国が滅んだ後、そこから逃れてきた避難民達によって、建国された新しい国だ──」



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