第五話 『コロッセウムに待つお姫様 2/5』




 黒髪の男がいた。


 背が高く大柄なこと以外、特に変哲もない若い剣士だった。


 何度耳にしても聞きなれない、大嫌いな観客の狂騒を背に、ニケは二本の曲刀を抜いた。


 愛刀だけは彼女を裏切るまいと吸いつくように馴染み、ぴったりの重さが心地よく手に収まった。


 小さく詠唱し、肉体を強化する。


 血管が浮かび上がり、筋肉が逆巻くような異様な感覚。ニケが我流で覚えたこの強化魔法は、常人なら悲鳴を上げて転げまわるほどの痛みを伴うが、もう彼女は顔色一つ変えない。


 体調は万全……。前戦の怪我もない。負ける要素はない。


 勝つ。


 黒髪の剣士が何かを言った。


 口が動いたのは分かったが、歓声にかき消されて聞こえなかった。


 ニケはどうすればいいのか分からず、うまく反応できなかった。


 やがて男が口を閉じた。


 諦めたように、腰の剣を抜いた。


『スペシャルマーッチ! コロシアム最強、無敗の女! 我らが【両翼】のニケ、対! 正体不明の剣士!

 さあ賭けろ賭けろ野郎ども、ニケ1.01倍、哀れな侵入者の倍率は青天井だぞ! 賭けるやつはいないのかーっ!』


 拡声魔法が、灯りで照らされたコロシアムの中に響き、がなり立てる。


 男が構え、一歩踏み出した。


 それが開始の合図だった。


 ニケが全力で踏み込んだ。姿が消えるほどの速度で、相手に肉薄した。


 一太刀目は受けられた。衝撃で大地が震える。


 もう片手の二太刀目は、躱された。虚空を切った刃が、一瞬の真空を生み出し、地面を裂いた。


 ニケは踊るように回転しながら、さらなる連撃を放つ。コンビネーションに足払いも絡めた。それも上手に受け流され、狙いすました下段からの斬撃も、柄で止められた。


 剣と剣の間をすり抜けた相手の突きが、鋭くニケの喉元に迫った。


 避ける。


 ニケは一旦距離を取り、相手を窺った。


 ──……このひと、強い……。


『おおおおーっ!? 瞬殺かと思いきや、ニケの猛攻を受け止めたぞ! こいつぁ、ただ者ではなーい!

 侵入者へのベットが増える! さあ閉め切りだ、ニケが1.2倍まで上昇だーっ!』


「ふーっ……!」


 今の立ち合いで分かった……確かに、相手は強い。


 おそらく長年の研鑽に、多くの実践の修羅場をくぐっている。派手さこそないが、この闘技場で戦ってきた相手の中でも、特筆すべき実力を持っていると分かる。


 でも、それだけだ。


 私なら──この相手には、勝てる。


 ニケは静かに体を揺らしはじめた。本気を出す時の癖だった。


 確信と共に、再びニケは踏み込もうとして。


 右足を襲った強烈な『殺気』が、それを留めた。ニケはとっさに足を引いた。


 遠距離から、男の振るった剣の『軌跡が飛ん』だように見えた。右足の皮一枚を裂いて、血が滲んだ。


 ──なに、今の……!?


 ニケが理解する前に、男がさらに剣を振る。


 無数の殺気が、ニケの全身に降ってくる。


 全てを紙一重で躱す。鎧の肩部分と籠手が吹き飛び、頬を刃がかすめた。


 ニケは刃を逃れて跳んだ。砂ぼこりを立てて着地し、相手を見た。


 その男の持つ剣の先端が、歪んで消えていた。


 男の口が動いた。


「これを躱すか」。──口の動きで、そう言っているのが分かった。


『なんだなんだなんだぁーッ!! 侵入者の謎の攻撃だー! 新手の魔術か、ニケの防具が吹き飛んだぞ!』


 危なかった。殺気に気づかなければやられていたと、ニケの背中に冷汗が流れた。


 謎の術の使い手だ。


 ニケも見たことがない。剣先を、離れた場所に出現させる魔法なんて。


 だけど、正体を見た……。


 相手が何をしたのかさえ分かれば。


 私なら。


 男はちっ、と舌打ちした。嫌そうな、やりにくそうな顔をしていた。


 攻撃が来る。


 ニケは走り出した。虚空から来るいくつもの殺気の線を避け、潜り抜ける。


 側宙しながら相手の懐に飛び込めば、そこはもうニケの曲刀の射程内だった。


 振りかぶり、金属が激しく打ち合った。


 霞むほどの速さで、ニケの両手の曲刀が走った。金属の火花が、空中で無数に散った。


 ニケはすでに見切った、勝ったと思った──遠距離から剣撃を飛ばしてくるのなら、こちらの攻撃が届く距離を保って、一方的に仕掛け続けて一つも隙を与えなければいい。


 敵が防御に専念している間は、剣を飛ばすも何もない。


 そして、そうすることは可能だ。


 単純な剣の実力なら私のほうが上、とニケは理解していた。それは事実だった。


 密着するほどの距離で、鍔迫り合った。


 瞬間、男が刃をずらした。反射的にニケは体を反らせていた。


 ……ニケの目の前に、空中に浮いた刃があった。


 男の持つ剣の先が、またも歪んで消えていた。刃は、ニケの顔のあった真横の空間から現れ、鋭く突き出していた。


 ──こんなこともできるの。


 そうね、有効な一撃だと思う。ふつうの剣の戦いなら油断して、これはないと思いそうな。


「……恐ろしいな。初見でこれを見破られるのは、なかなか無い。それにどこへ打っても躱される……特殊な感覚器官を備えてるのではなく、これは殺気を読んでいるタイプだな」


 男は感嘆して言った。


「俺も本気を出そう。尋常では、手加減できる相手ではない」


 そして前に踏み出してくる。


 体術?


 ニケが思ったと同時に、視界が回転した。


 だがニケは体を操り、地面に叩きつけられる前に回避した。男の股の間をくぐり、空中で回転しながら降り立つ。


 背中を向けたニケへ背後からの殺気、おそらく相手の振り返りざまの一太刀を、体を折ってさらに避ける。


 身を屈めた状態でお尻を向けたまま、敵に向かって跳んだ。


 宙で体を捻って放った反撃の一撃が、弾かれて撃ち鳴る。


 再び、ニケは畳みかける。


 男の剣の速度が、一気に増した。


 実力を隠していた。さっきより、ずっと速い──


 だが、ニケの反応速度は間に合っていた。


 ニケは正面で打ち合いつつ、時に体ごと回転し、側面や背後の視界外から突然現れる攻撃を、二つの剣で殺気を読んで受け続けた。


 夜の照明の下で、火花がいくつも瞬く。


 自分の周りを、きらきら、きれいに飾るように。


 散る汗と、光と、興奮した空気。


 照らされて生まれた影が重なって、艶めかしく舞う。


 撃ち合う重い金属音が、激しい音楽のようで。


 ──自分の口端が、知らぬうちに上がっていたことに、ニケは気づいた。


 ……楽しい。


 私、まるで踊ってるみたい。


 大勢の前で、私が。こんな奴隷の私が。


 ロゴスロンドの一流の踊り手のように。


 人々に姿を焼き付けて。歓声の中で、誰にも目を離させないかのように。


 相手はニケが繰り出す剣を全て、綺麗に受けてくれる──自分もまた、彼の技の全てを、正確に受け止め続ける。


 予め決まった踊りの手順を、二人で完璧に演じるかのようで。


 ああ。


 すごい、このひと。


 なんだか肌がぞわぞわ、ぴりぴりして、体が燃えてるみたいに火照る。


 ニケは、生まれて初めてだった。心の奥底から突き上げる、熱に浮かされたこの何かを、そんな感情があったのだと初めて感じていた。


 大嫌いなはずの戦いを、楽しいと思うなんて。思ってしまうなんて。


 頭の上から降ってくる刃のギリギリを見切り、自分の曲刀が、男の首を捉える──


 ぞっとした感覚が背筋に流れ、ニケは体を捻った。


 自分の剣先が消えた瞬間が見えた。自分の放った殺気が、自分の腹をかすめたのが分かった。


 致命の一撃が、男の術で反転して、自分を襲っていたのが分かった。


 ニケは踊り子のように片足で立ち、もう片足を宙に伸ばしたポーズで避けて、固まっていた。


 多くのどよめきと驚愕の声が、コロシアムを揺らしていた。


 ニケは上気した様子で、目の前の男へ言った。


「はあ、はあ。こんなの初めて。とっても危ないことしてるのに。あのね、ごめんなさい私、今とても楽しいの」


「まだやれるのか。俺は少し踊り疲れてきたよ。お嬢さん」


 汗を浮かべる黒髪の剣士が、笑った。


 近くでよく見ると、白髪が混じっていて、本当はニケよりずっと歳上のひとなのかも知れなかった。


 不思議な気分だった。今まで会った男の人は、お父さん以外、みんな怖いひとばっかりだったのに。


 どうしてだろう。


 斬り合いをしているのに、当たれば死んじゃうのに。


 このひととは、怖くない……。


『おいおいおいマジかよ。ニケとここまでやり合えるやつが、過去にいたかぁ?』


 解説が動揺していた。ニケがこれまで戦った一騎打ちでは、これほど伯仲した一戦は、かつてなかったからだった。


『侵入者はどうやら自分の剣を、自在に空間から出現させているようだ。過去最大の強敵だぞ!

 ……ちょっと待て、今……特別観覧席からのオーダーだ。

 ニケ、そいつを殺せ。魂を捕えて仲間に引き込め。オーナー達は、新しい看板役者を欲している!』


 上気していたニケの笑顔が、その声で消えた。


 彼女は静かに姿勢を戻し、悲しげに目の前の剣士を見つめた。


「……」


「ふむ。どういう事だろうな?」


「分からない。でも、命令には従わなきゃ。私が嫌でも」


「ずっとそうやって来たのさ、ここは。立ち寄った哀れな旅人を殺して、気に入った者は新しい剣闘士に仕立て上げる。客を満足させ、終わらない永遠の宴を続けるために」


「どういうこと? ええと、おじさま?」


「今は気にしなくていい。五月蝿い外野のことも……。さあ続きをしよう、全て踊り終えたら、君が忘れていることを教えてあげよう」


 剣士が、彼が優しく微笑んだ。でも、どこか哀しそうに。


 そんな男性の笑顔は、ニケは遠い記憶の中の父親以外に、見たことはなかった。


 ニケに向けられてきたのは、嘲り侮蔑する顔か、恐怖で引きつる顔か、怒りに染まった顔だけだったから。


 二人が同時に動いた。再び、剣が交差した。


 刃を激しく交えつつ、ニケは戦いの思考を巡らす──


 自分の攻撃が届く前に消えて自分に返ってくるなら、彼を倒すことは、永遠に叶わない。


 なら、彼が剣先を『飛ばし』ている最中に、攻撃すれば?


 いえ、だめ。


 勘が言っている。彼はそれも確実に対応できる。


 むしろ、きっと私がそう考えるんだと、彼は罠を張って待ってる。


 攻撃を躱しつつ放った致命の一撃が戻ってくれば、次はもう躱せなくなる、かも。ううん、きっと次はない。


 なら。


 ──不意打ち。


 彼も知らない、予想外の一撃しかない。


 横薙ぎの一閃が、しゃがまれて躱された。と思ったら、彼は地面の底へ沈んで落ちるようにして消えていた。離れたところに、突然現れていた。


 いけない、近づかなきゃ。ニケはもう一度距離を詰めるために、跳んで。


 空中で気づいた。


 ──上っ!


 掲げた曲刀が光を散らした。バランスが崩れ、つんのめって倒れかかった。


 さらに虚空から、追撃の刃がいくつも来る。右手の剣で受けて、苦し紛れに左手の剣を投げて放った。弾かれた。


 弾かれるのは分かってた──


 鎧に隠していた、投げナイフ。


 猛烈な攻撃に潰され、前に倒れながら自分の最高速度で、二度目の投擲をした。


 先に投げて弾かれ、空から落ちてきた曲刀と、自分の体勢を影にして。


 0.1秒の交錯。


 彼の目が、見開かれた。


 ニケの、目視すら難しい超高速の不意打ちのナイフが。


 彼のみぞおちに、ついに突き立った。


 ──やった。


 彼が、片膝をついた。


 最後に来た虚空からの一撃を、右手に残った曲刀で転がりながら受け流し、ニケは彼の前に来た。


 剣をぶつけ合うと同時に絡め取って、奪い──刃の切っ先を、彼の首に突きつけた。


「はあっ、はあっ……!!」


 呼吸が荒かった。


 熱気と汗が全身から、吹き出していた。精一杯だった。


 彼はごほっ、と血を咳きこんで、自分を見上げていた。


「私の勝ち、ですよね。この剣が届かなくても、おなかのその傷じゃ、長くもたないと思います。回復魔法が使えるなんて言わないで……?」


「いいや。俺は魔法が使えない」


 ニケは息を吐いた。


 勝った。今日も勝ち残った。


 ……望むものなんて、もうないのに。


 男が言った。


「大陸にも名が響いた、北方三国最強と言われた剣士か。見事なものだな」


「……でも、あなたがその気なら、戦いにならなかった気もします。私の攻撃全部、ふしぎな魔法? で届かないようにしちゃえばよかったんじゃ?

 それに遠くへ行けるなら、ここから逃げちゃえば」


「途中から変な欲は出たか。以前から話に聞いていた、【両翼】の剣士の剣技を感じてみたくなった。君はまったく、すごかったよ」


 彼が自分を知っていたことが、ニケはなぜだか少し嬉しかった。自分の強さを知られても、喜ばしく感じたことなど、一度もなかったのに。


 コロシアムは、どちらかの死をもって終わる。


 殺せ、殺せと、狂える群衆が叫ぶ。


 振り上げた右手の曲刀は、いつになく重く感じた。


「ごめんなさい。私は生きなきゃいけないの。その傷じゃきっと助からないし、苦しませないから、受けてください。ごめんなさい……!」


「そうだな……。それを避けるつもりもないな。だが」


「?」


「──だがきっと謝るのは、俺の方だ」


 視界の端で、彼の手が素早く動いた。それは刃の殺気ではなく、だからニケは反応が遅れた。


 目の前に一枚の紙が落ちてきた。


 ──閃光と轟音が、ニケの意識を襲った。


「ああっ!」


 目くらましだった。ショックで瞬間的に、ニケの体はたたらを踏み、固まった。


 そして空中から突然現れた、男の二本目の剣が、ニケの両足の関節を、的確に斬った。


 ニケの体が、地面に崩れ落ちた。



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