第五話 『コロッセウムに待つお姫様 3/5』




 ──樹壱は、闘技場に立っていた。


 インベントリから呪符のスクロールを出す。


 腹からナイフを抜き、呪文を発動させて傷を塞ぐ。血が止まる。


 回復魔法を使えなくても、同じ効果の呪符は使える。


【両翼】のニケは両膝を斬られ、土の地面に倒れていた。もはや戦うことはできないだろう。


 周囲は騒然としていた。


 罵声とブーイングが飛び交い、怒号が建物を揺らしていた。


『反則、反則だーっ!! 剣と自らの魔法以外は禁止されている、没収試合だ! 警備員!』


 武装した鎧姿の男が二人、こちらへ走ってくる。


 樹壱は斬撃を飛ばし、即座に切り伏せた。


 さらに数枚の呪符をインベントリから取り出すと、一筆入れて、遠くにあるいくつかの出入口周辺へ放った。


 爆発した。


 石の出入口が崩れて塞がれ、闘技場に進入できない状況を作り上げる。


「これで、邪魔者は誰も入って来れない」


 樹壱は観客を眺めた。


 観客席にいるどもは、全て体を透けさせて、浮いていた。


 亡霊レイスの観客だった──


 今、樹壱が倒した警備員も同じだ。


 この場にいる者は樹壱を除き、全てが死者だった。


 樹壱と死者達の間には、それを隔てる透明な力場があり、暴徒がこちらへ投げつける石を弾いていた。


「亡霊の観客を守るために張られた障壁は、逆に言えば闘技場への立ち入りも不可能になる。出入口を破壊すれば、ここは手出しできない安全圏になるというわけだ」


 そうして振り返った。


 ニケという名の、生前は美しい金髪をしていた少女は、今は白い幽体の体を苦しげによじっていた。


「う、うあっ……!」


「……血を流しているように君には感じられているのだろう。だが、実は全て、錯覚なんだ」


 本来のレイスに筋腱や血液はない。怪我を負っても、切り離されなければ手足も動かなくなることはなく、致命打でなければ滅ぶこともない。


 しかし彼女は生前の感覚を引きずっていた。おそらく魔法の効果で、主観的には生前と変わっていないのだろう。


 ニケには、自分が亡霊になっている自覚がない。


 それはおそらく、『気づかせない』ために……。


 樹壱はニケに近づいた。ニケは、よろよろと上半身を起こして樹壱を見た。


「ずるい。呪符なんて。勝ったのは私のはずなのに」


「すまない。君を騙してしまった──だが、俺も君が暗器のナイフを隠していたと思わなかったし、お互い様で許して欲しい」


「お、おねがい。私に勝たないで、勝っちゃだめ。負けられないの」


「……」


「な、なんでもします。なんでもやります。おねがいしますっ……!!」


 ニケは体を丸め、額づいて言った。


 それが無意味な懇願だと分かっていても、彼女はそうせざるを得ないのだ。


 小さな体だった。あれほどの強さを誇る剣士だとは、思えないほどに。


 少女はきっと何度も目の前で見てきたであろう、敗者に待つ運命を思って、怯えて震えていた。


 いや。きっとそれは、自分の命だけではない。


 自分が死んだ後で齎されるであろう別の運命にこそ、怯えていると言うべきか……。


 忘れていても。まだ信じて。


 樹壱は言った、なるべく優しい声で──


「それは、どうして?」


「帰る場所がなくなっちゃうから。私の帰る場所が」


「それはどこ?」


「どこって。……あれっ……?」


 ニケが顔を上げた。考えもしなかった、という顔をしていた。


 樹壱は剣を仕舞い、腰を下ろした。


 彼女の頬に、手を伸ばして触れた。


「もっと思い出して。帰りたかった場所が、君にはあった。負けてはいけない理由が、命を懸けて守りたかったものが」


「……私は……」


「──アルコ。ミーナ」


 ニケの目が開かれた。


 ああっ、ああ、と頭に触れて呻いた。


「どうして。私。あの子たちのこと。だから私は戦っていたのに、耐えていたのになんで……!」


「もう大丈夫だ。君はたった一人でよく頑張った。偉かった」


 樹壱はニケを労わり、抱きしめた。


 彼女は呆然と、空中を見て涙を流していた。


 インベントリからスクロールを出し、ニケに両足に巻いた。幽体を修復する魔術が、彼女の足の痛みを消した。


 ニケの背中をぽんぽんと叩いて、樹壱は立ち上がった。


「ちょっとだけ待っていてくれ……。今から、を引きずり出してくるから」


 闘技場の中の、ある場所へ樹壱は進んだ。


 特に目立つ観覧席の下。


 剣を掲げた、女神の彫像があった。


 怒鳴り声が聞こえてくる。解説者だった。


『おい、おい待て行くな止まれぇ! お前何をする気だ! そこは!』


「黙れ、屑ども。お前達は、15歳の少女に殺し合いを強制させて、賭博の対象にした。死んだ後までも……。

 許しがたい行為だ。その場所を俺に隠せると思っていたのだろうが、無駄だ」


 樹壱はインベントリから爆発呪符を引き出し、像の上に降らせた。


 爆破で像は粉々に吹き飛び、下に隠されていた魔法陣が、露わになった。


 その黒く光る魔法陣は大きく、複雑に回路が書き込まれており、動力源には、白い欠片が設置されていた。


『女神の欠片』だった。


「ふむ……。陣のここは亡霊の作成、こっちは障壁魔法。作られたレイスを消滅させないため、魂を拘束して保護する結界術に、あちらはに関する回路だな。

 破壊された霊を修復する魔法、他は照明や拡声、演出関係か。複雑な魔法陣だが、よく整頓されていて、このまま動力を切っても妙な挙動はしなさそうだ」


 複数の呪文が、いくつも織り込まれた魔法陣だった。


 これを作った者は優秀だったのだろう。非常に高等な構造をしていた。


 特に、人工的な亡霊レイスを大量に作成し、コロシアムそのものを宿る依り代にして成功しているのは、驚くべきことだ。


 樹壱さえも、いまだかつて見たことのない未知の術式。


 高い技術に反して、その目的は下劣だったが……。


「人間を人工的にレイスへ変え、死の運命を克服し、無限に続く退廃の夜を過ごす。

 永遠の賭博か。腐敗した金満国家の亡者どもには、ふさわしい逃避だな。よくもこんな手段を考えたものだ……」


 ここにいる亡霊達が、『何をしていた』のか。


 樹壱は、過去再生と黒水晶を使った事前調査で、知っていた。


 ──100年前。


 隣国フラーメニアと共に、魔物のスタンピートで、このロゴスロンドは滅亡した。


 その直前、貴族と富裕者の選ばれた者達だけはここへ逃げ込み、魔法で自分達をレイスに変えて、永遠の命を得た。


 そうして無限の時間の慰みに、剣闘士らを使って、戦いの興行を続けたのだ。


 100年間。


「この魔法陣から動力源を引き抜けば、終わらない夜が終わる」


『やめろぉ! 頼む頼むよ待ってくれ、な、な、な? それを抜いたらみんな死んじまうんだ、みーんなだ! 俺も観客もニケも他の剣闘士も、みぃんな消えちまうから!』


「本当かな? やってみよう──」


 樹壱は魔法陣に手を突っ込み、女神の欠片を取り除いた。


 欠片から、バチバチと小さな稲妻が走り、魔法は動力を喪失した。


 魔法効果が消滅する。


 コロシアムの上空にあった紫色の空から、パリンと割れる音がした。場を覆っていた、不自然な力場が壊れる。


 自然の力に従って、死者が天に召し出されようと、暗い夜空へ吸い込まれはじめた。亡霊どもの悲鳴が上がった。


 同時に──地面が、大きく震える。


 コロシアム全体を揺るがすほどの轟音と振動と共に、魂が吸い上げられる力も止まった。恐怖の声を上げていた亡霊の観客が、地面に落下して無様に叩きつけられた。


 ──樹壱の魔法陣が、発動していた。


 事前にコロシアム外周に設置していた魔法陣群は、この場を造っていた魔法が消滅すると、自動的に発動するよう樹壱はセットしていた。


 コロシアムの天井には、新しく空を覆った緑色の結界があった。


『なんだなんだよなんだってんだ、こりゃあ一体なんなんだ!? た、助かったのか?』


 混乱した解説者がひっくり返った声でわめいていた。


 樹壱は言った。


「その不愉快な喋り方を、いい加減やめろ。これだけで済むと思ったのか」


『は……?』


 樹壱の書いた魔法陣は、件の黒い魔法陣と、同等の効果を持っていた。


 死者の魂を地上に留める魔法。


 このために、樹壱は時間をかけたのだ。


 これからする事のために。


「こんなものでは済ませない。俺が、お前達を今から裁く……」


 樹壱の瞳が、観客席の全てを睨めつけていた。


「──お前達は哀れな少女を100年もの間、余興として消費し、なぶりものにした。何度も何度も繰り返し──対戦相手である、他の剣闘士達にもだ。

 だが、なぜ、そんなものが成立したのか? 過酷な立場に置かれた者らは死なないレイスなのに反乱も、サボタージュも長年起こさなかったのか?

 答えは、

 おそらく、その方が面白いから、という理由も。こちらの方が重要なのかも知れんが」


 100年間、人材が尽きず、毎夜続けられた殺し合いの興行の秘密。


 ニケの言動や、魔法陣に織り込まれた魔法からも察せられる。


 剣闘士らが戦いを拒否できなかったのは、知らなかったからだ。


 記憶を、意識を弄られていたから。


 そして極限状態に置かれた人々の姿を、死を前に恐怖して命を乞う人間の姿を、この観客達は愉しんでいたのだ。


 滅亡前のコロシアムと、同じように……。


 死なないコロシアムなど退屈だと、退廃を極めた彼らはきっと言うのだろう。


「悪魔的な所業だ。自らは安全な場所で賭けに興じ、多数であることで罪悪感を分散し、歪んだ罪を100年も重ね続けてきた、人間の屑ども」


 静かだが断固とした、冷却した怒りだった。


 冷徹で。機械的で。


 罪深き者どもへ絶対に報いを与える、という……黒い死神の宣告。


「罰を受けることもなく、綺麗に消えて終わりになれると、本当に思ったのか?

 俺の張った魔法陣はお前達に、死者の自害も、致命的な損傷によって魂が消滅することも禁ずる。

 楽な終わり方などさせない──罪の清算が済んでいない罪人どもを、一人たりとも逃しはしない」


 ひっ、と声が上がった。


 この期に及んでは、自死という勝手な退廷さえ認めない。死から逃げ続けた奴らに、相応しい報いが訪れるまでは。


 だが、その時までもう少し時間はある……。


 樹壱はニケのいる場所まで戻ってきた。


「おじさま……」


「思い出しただろうか。君の心を縛っていた、記憶と精神操作の魔術はもうない」


 ニケの両目から、大粒の涙が零れた。


「私。もう死んでいて。戦う理由なんて、もうなかったの。何も残ってなかったのに」


 少女は樹壱の胸に飛び込み、しがみついて泣いた。


「うえええん!! 何も、なにもなかったっ……! アルコぉ、ミーナぁっ!!」


 とうに帰る場所を失っていた少女が、慟哭した。


 彼女が守りたかったはずのものは。


 遠く過ぎ去った時間の中に、消えていたのだ……。


「あ、あの日。魔物たちがきたの。戦えって命令されて、でも斬っても斬ってもどうにもならない数で。

 みんな倒れて、波に飲まれていって。私は一人ぼっちになって。疲れてきて。

 だ、だれも、守って、くれなくてっ」


「一人でずっとつらかったろう。ずっと怖かっただろう」


「怖かったっ……! 怖かった、怖かったよお!!」


 剣の天才でも、彼女の精神は闘争の天才ではなく、心は15歳の少女と変わらなかった。


 ニケ=マーガレッタは、12歳までは市民階級で、普通の少女として育てられた。


 当たり前の感性を持った女の子として。


 郊外で花屋を営む両親が事故で死に、騙されて奴隷に落ち、望んでいなかった才能に目覚めたのは、その後だった。


「振り返ったの……。アルコとミーナがいた、あの奴隷小屋が魔物の群れに。私の帰る場所が、ずっと遠くて。

 走って、痛くて、コロシアムまで来て。でも届かなくて。

 お姉ちゃんなのにあの子たちを守ってあげられなくてっ……! 二人のそばに帰りたくて、帰らなくちゃって、わた、わたしっ。ああああ……!!」


 それ以上は言葉にならなかった。


 きっと死の恐怖の中で、絶望的な孤独の中で、彼女は自らに鞭を打ち、さらに努力したのだ。


 家族の待つ家に帰るために。


 ただ家に帰りたくて。


 ──そんな少女を、死後も弄び、踏みにじった奴らの罪は重い……。


「もういいんだ。自分を責めてはいけない。君を怖がらせる者も、もう君に手出しできない。……だが、そろそろここは少し騒がしくなるな」


「ひぐっ、ぐずっ。……?」


「ああ──始まった」


 観客席の方から、騒動の音が聞こえてきた。


 亡霊達が追われて逃げまどい、浮いたまま将棋倒しになっていた。


 武器を携えた大柄な男や屈強な女達が、暴れ出していた。


 怒りの声を上げるのは、控室から乱入してきた剣闘士のレイス達だ。


 彼らは、黒い魔法陣の精神制御から解き放たれ、次々と無力で下衆な観客を血祭りに上げていた。


『──ぎゃああああーーーーっ!!』


 解説者だった男の体が、熟練の技で六分割されたところだった。


 樹壱の魔法陣に縛られた魂は乱闘で死ぬことさえできず、今まで見て愉しむだけだった刃の餌食となり、バラバラになっても生きたまま苦痛にのたうち回っていた。


「ひゃぁ、ひえ……!」


「因果応報だ。連中にはちょうどいい末路だろう。……君は好まないかも知れないが、もしやりたければ参加してもいい。その権利は十分にある」


 樹壱の言葉に、ニケはぶんぶんと首を振った。


 粗暴な剣闘士達が上げる、復讐の宴の高笑いにも、怯えたように樹壱のマントの中に隠れてしまった。コロシアム最強が。


 あそこで暴れている剣闘士全員を相手にしても、勝てるほどの実力者のはずなのだが。


「なら放っておこう。後はあいつらで勝手にやるだろう」


「は、はい」


「観客席と闘技場を阻んでいた障壁も、消えてしまったが。俺が連中を近づかせない。君はもう、何も見なくていい。近くにいなさい」


「はい。……おじさま……!」


「さて──」


 樹壱は、コロシアムの観客席の一角を見つめた。


 富裕貴族達がいる、特別観覧席だった。



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