第二話 『死者の復讐 上』
風が吹く。
どこか不穏な風が。
太陽の下で、林檎の未熟な果実がゆらゆら揺れる。その様はまるで、吊るされた人間のように。
樹壱がその村を訪れたのは、隣国へ向かう道中だった。
街道の傍らに立ち、樹壱は地図を広げ、その上に黒水晶のついたチェーンを垂らし、遠見をしていた。
近くの町で噂話を聞いていた。
国境付近の森に、恐ろしい怪物がいる……とのことだ。
白く輝く、獅子に似た生き物──炎を纏い、森に入り込んだ不用意な者を襲って食らうという。
樹壱は遠見で、その姿を確認していた。黒水晶には彼だけが見える、断片的な影が映っていた。
少なくとも、ただの噂話ではないようだった。
樹壱の経験上、普通ではない生命──それが生命と呼べるかは分からないが──には確実ではないが、体内に『女神の欠片』を有している事が多い。
ならばそれを斃し、欠片を見つけて回収する。
しかし、件の森へはまだ距離があった。
「歩くと数日はかかるか。野営も問題はないが……」
地図と現在地点を見比べ、樹壱は呟いた。急ぐ旅というわけではない。
不老不死である樹壱にとって、時間はあまり気にすべき事でもない。
ふと目をやると、街道より横道があった。
その細い横道の先は、深い森に向かって続いている。
「ふむ」
道があるのは、その先に住む人間がいるということだ……獣は道を作らない。
今晩はそこで宿を借り、明朝出発することにしてもいい。運がよければ補給品も手に入るかもしれない。
そう考え、樹壱は横道へ踏み入れた。
高台へ続く森の道は、盛夏の後らしく、強く茂っていた。
木々は高く、梢の間の空には、夏の終わりの太陽が浮いていた。
道は徐々に苔むしてきていた。振り返れば、来た道は緑に隠されて見えなかった。
森を抜けると視界が開け、かわ葺き屋根の山小屋。
それから少し先に、村があった。遠目から、寂れた田舎の村落と分かった。
だが──樹壱は一見してすぐに──妙な違和感を覚えた。
それは理性的に説明できるものでもあり、また勘のようなものでもあった。
ゆっくりと村の入口に近づき、内部を眺める。
まず、出歩いている人の姿が無かった。時刻はまもなく夕刻に近づいているが、農具を担いだ農民も、遊びまわる子供の姿もなく、閑散とした道に砂埃の風が寂しく立つ。
軒下に干された洗濯物もなく、炊事の煙も登っていない。
村は不自然に静まり返っている。
そして、何か。
数え切れぬ場数を踏んできた樹壱は、その村に何かを感じた。
嗅覚と言うべきか。もしくは説明できない、第六感か。
「……」
とにかく、すぐに攻撃してくるわけではないようで、樹壱は村の中へ歩みを進めた。
屋内に潜んでいる。視線……中から樹壱を見つめている、しかし明確な敵意ではない。まだ確実な判断はつかないが。
この世界の農村は概して閉鎖的で、追い剥ぎの村というものもある。迷い込んだ旅人を殺し、金品を奪うという村だ。
だが樹壱の予感では、それではないと感じていた。
村の中心には、古びた井戸があった。
樹壱は井戸の傍から、人影のない不気味な村内を見回す──同時に井戸の中も確認する。
特に異常も見つからなかった。灰暗く水を湛えた井戸の底は、静かに揺らめいているだけだ。
考えすぎか──普通なら、そう考えもするが。
いまだ人影は見えない。無断で軒先を借りるわけにもいかなかった。
待ってみるか。樹壱は腕を組み、井戸の屋根を支える柱にもたれかかった。
しばし、上空を旋回する鳥の声を聴いていると、樹壱の正面に建つ家の扉がぎぎ、と軋み音を立てて開いた。
足を引きずった老人が出てくる。
樹壱の前までやって来て、遠慮がちに挨拶をした。
「こんにちは」
「どうも。邪魔をして悪いな」
樹壱は腕を解き、老人を見た。
農民らしい粗末な服ではあるが、仕立ては悪くなかった。
「儂は、この村の村長ということになっていると申しましょうか、オリゴと申します。何か御用でしょうか」
「旅の者だ、名はアンバーという。見ての通り傭兵みたいなものだ。一夜の宿を探している……すまないが、馬小屋を貸してくれないか? 金はある」
「はて、家どころか馬小屋で眠るのに、金まで? 傭兵の御方にしては珍しい」
「そういう無法な奴も多いが、俺は払う」
樹壱は懐から財布にしている袋を出し、そこから銀貨を一枚出して、老人に手渡す。
「これで足りるだろう? 馬が困らないように隅の方でいい」
「なんと。馬小屋の片隅に一晩で、銀ですと? 太っ腹と言うにはあまりに貰いすぎです」
「気にするな」
村長オリゴは困惑しているようだったが、樹壱は構わなかった。この程度は大した金ではない。
樹壱は相当な財産を持っており、それらはインベントリの中へ収納されている。
女神の欠片を探す任務をしている都合上、樹壱は頻繁に諸国を旅していた。その中で、十分以上の路銀を稼ぐ機会はいくらでもあった。
しかし、樹壱がオリゴへ高すぎる宿泊賃を払ったのは、単に持てる者の施しでもない。
彼の口の滑りを良くするためだ。
あるいは……少し何かに疲れていた、のもあった。
「で、だ……。村の様子がおかしいのは何故だ? 家の中には誰かが居て、俺を襲うつもりではないのは分かる。夜な夜な手に負えない化け物でも、村に出没するのか」
万が一、怪物が関係していた場合、という事があった。
そうであれば期せずして、女神の欠片を集める機会になるかも知れない……。
「それは」
オリゴは言い淀むが、銀貨と樹壱の顔を見比べ、やがて観念したように口を開いた。
「実は村の近くに、大規模な盗賊団が巣食いまして。命が惜しくば金と食料を寄越せと。皆怯えて、外に出ようとしません。
すでに今年の蓄えを奪われました」
「盗賊? ここは街道沿いだろうに。北方諸邦といえど、このあたりは現役の一王国の領内のはずだ。王の軍は何をしている」
「無論、嘆願へ行ったのですが、ろくに返事もなく……。使いに出した者は、王は他国への遠征の用意をしていると、噂を聞きました。
今この村に割ける兵がないようだと」
「つまり見捨てられたわけか」
オリゴが悲しげに肩を落とす。どうやら怪異とは無関係だったようだ。
樹壱は同情するが、彼らを助けてやれる立場ではなかった。
「収穫については、もう仕方ないだろう。今年の献納は減免の嘆願を出すしかないな。それよりも、盗賊に命だけは取られないよう気をつけろ」
「ええ。この銀貨だけでも助かります……。ですが、旅人殿。馬小屋などと言わず、家を一軒お貸ししましょうか?
村の者に言って、ささやかですが、晩餐も用意致しますが。風呂などもいかがでしょう」
オリゴは、家や飯を用意するからもう少し金を貰えないか、と持ち掛けているようだった。
普通の町なら、銀貨一枚でそのサービスを受けて、なお小銭が余るのだが。
村が金欠で困っている以上、村長の立場なら図々しい業突く張りと思われようと、背に腹は代えられないのだろう。
樹壱も普段なら断るが、とはいえ事情を聞き出したのも、樹壱のほうではあった。
「もしよろしければ夜の世話でも。望まれるなら生娘でも。ですので、どうか……」
「はあ、仕方がないな。では銀貨をもう一枚出す、飯に酒と風呂を頼もう。女は要らない……代わりに酒は奮発してもらうぞ?」
「あ、ありがとうございます! すぐご案内しましょう」
オリゴは急いで出てきた家に戻り、戸口で隠れて覗いていた者達となにがしかを話した。
やがて何人かの村人が飛び出てきて、近隣の家へ向かっていった。
オリゴは樹壱の元へ戻ると、さあさあこちらへ、と促して懸命に早歩きで先導した。
「おい、オリゴと言ったか。足が悪いのだろう。急がなくてもいいぞ」
「いえいえ。お優しい方ですな、傭兵と呼ばれる方を見てきましたが、いやはや。さあこちらです」
オリゴが示したのは小さいが、それなりにしっかりした作りの家だった。
比較的新しく、扉を開けると、中も掃除が行き届いているようだった。
「ベッドと椅子は一通り揃っております。昔はここで、村の者が宿屋の真似事もやっていまして。最近はなり手がおらず閉めていたのですが、掃除はしておりました」
「助かる」
ベッドは木枠に藁を敷き詰めただけのものだが、片田舎の村なら十分だろう。馬小屋で馬糞の臭いを嗅ぎながら寝るよりは、はるかに上等だった。
樹壱は腰の剣を外してベッドに立てかけ、年季が入っているが背もたれのある安楽椅子に腰かけた。
「お気に召しましたらよろしいのですが」
「十分だ。あと、飯の前に風呂に入りたい」
「すぐに用意させましょう。私は村の者に言いつけて参ります」
オリゴが一礼し、外へ出ていった。
樹壱は、高くついたが偶にはこんな贅沢もいいだろうと、背もたれに寄りかかった。
数日後には怪物狩りをしなければならない。英気を養っておいて、損は無かった。
遠くから、子供の声が聞こえてくる。
──もおーいいーかい──まぁーだだよ──
遊び声。
この世界にも、かくれんぼは存在している。誰もが考えつく遊びのようだ。
樹壱は熱い湯船に浸かり、声のこだまを聴いていた。
この世界における風呂とは、人が一人入れる程度の大きな桶に、川から汲んできた水を張り、鍋で沸騰させた湯を注いでかき混ぜ、適温にするというものだ。
現代日本と比べれば手間のかかるものだが、存在しないわけではなかった。
「ふう……」
樹壱は家の裏に置かれた桶のバスタブから出ると、荒布のタオルで体を拭いた。
服を着て、簡易的に張られた天幕を出ると、用意をしてくれた村の女衆が立っていて一礼した。樹壱は軽く礼を返した。
家に戻ろうとすると、木陰からこちらを伺っていた子供達の姿が目に入る。
指をくわえて、樹壱を見つめていた。
村人にとって、燃料を使う風呂とは贅沢であり、普段は行水だ。そうそう入れるものでもない。
樹壱は手招きして言った。
「俺の後でよければ入れ。今なら、誰もいないぞ」
その言葉に子供たちは目配せしあい、やがて素早く駆けてくる。
「ほんとう? 入っていいの?」
「料金を出したのは俺だからな。それより急いだ方がいいぞ。大人達に取られる前にな」
子供達は一斉に、あっという間にその場で脱衣し、風呂へ向かった。片付けをしていた女衆が驚いて「こら、あんたら! 次はわたし達が……!」と叫ぶが、構わず風呂桶へ飛び込んでいく。
樹壱は小さく笑って見送り、家に入ると、置いておいた鎧を手に取った。
インベントリから布を取り出し、表面の泥や埃を払う。手甲や脚絆なども同様に汚れを拭った。
しばらくそうしていると扉が叩かれ、食事を持った老女がおずおずと入ってきた。
「お客さまですか。食事をお持ちしました。こんな、あたしらの普段の食べ物で申し訳ないですが」
そう言って盆に載せられた夕食をテーブルに置く。
普通のくず野菜のスープに、古麦のオートミールだった。樹壱は特別な料理などは必要ない、と事前に言っていた。
「飯は全く構わない。酒があれば十分だ」
「へえ、すいませんねえ。これが精いっぱいで。盗賊の連中にずいぶん取られちまいまして、銀二枚にはまるで見合わないですが。よければ」
「頂こう」
樹壱は自分の荷物から木のスプーンを取り出し、オートミールを掬って口にした。
塩の味付けすらないが、腹を満たすには事足りるだろう。
老女はそんな樹壱を不思議そうに見ていた。スプーンが気になるようだ。
「あのう、それは何でしょ? 小さな匙ですか」
「俺の国の風習だと思ってくれ。食べる時には、こいつを使うんだ」
地域にもよるが、この世界にはカトラリーの類があまりない。農民に限らず基本、手を使って食べる。
貴族でもナイフを使用する程度で、食器の利用はごく一部、僧侶など高等教育を受けた層ぐらいのものだった。
ちなみに樹壱は以前、スプーンの普及を試した事があったが、その時は全く広まらなかった。
なぜかと言えば、人々は手で食べる事に何ら不便を感じていないからである。彼らは実に器用に手を使って食べていた。
樹壱は手早く料理を平らげる。わざわざ待っていてくれた老女に、空の盆を返す。
「美味かった。ありがとう」
「……ほんに優しい傭兵さんねぇ。こんな婆の料理を、嘘でも美味しいと言ってくれるなんて。珍しいことよ」
盆を受け取った老女が、まじまじと樹壱を見て言った。
「オリゴから傭兵さんのお客が来た、なんて聞いたもんだから。あたしゃ大丈夫なのかいと、思ったのだけれど。ほら、傭兵って怖いのばっかりだろう?」
「まあそうだな。この辺の傭兵なら、ほとんど屑の集まりだろう」
「何年か前に、傭兵が五人ばかり村に来たのよ。腹減ったってうるさいから、あたしゃこれと同じオートミールを出したのさ。
だけど、こんなもの食えないって、目の前で皿を投げられてねえ。うちの孫の尻を触るわ酒を飲んで暴れるわ、家具を叩き壊すわで、あれは酷いもんだったよ」
「お気の毒に。そんな奴らには馬糞でも食わせてやるべきだった」
「アハハ、ほんにねぇ。おっといけない、お皿を片してワインを持ってこなきゃ」
「俺は酔っても暴れないと約束しよう」
「お願いするわ、ふふ。ゆっくりしていって」
老女が戻っていく。
樹壱はベッドの縁に腰かけ、剣を抜き、整備を始めた。
砥石を使って研ぐ程度の軽い処置だが、樹壱は武具の手入れを欠かさなかった。仕事柄、酷使するために折れたり、消耗してしまうのも早いが、刃を研磨するのが好きだった。
鋭く研いでいると、心まで鋭利に研がれていくような快感があるからだった。
夜間。静かな夜の風に木の葉擦れの音、夜虫の音が重なる。
西より登る異世界の月はなく、厚い雲が天頂を覆っていた。
樹壱は酔いのまどろみの中、藁のベッドに横たわっていた。
昼間オリゴと交わした話を、反芻していた──村を恐喝する盗賊、それに怯えた村民達。
話におかしな点はない。村人の様子も、異常はないように見える。だが樹壱の予感はそれだけではないのでは、と告げていた。
何かが引っかかる。
しかし……確たる情報もないまま手を出すのは、躊躇われた。
それは樹壱のやり方だった。彼はいつも、可能な限り物事や、背後関係等を調べ上げ、正体ないし事態の傾向が分かったと判断してから、行動するようにしていた。
樹壱には過去再生の能力がある。必要な情報を集めるのは、簡単なことだった。
何があるにせよ、何も知らずに手を出すのはまずい。こちらに来て以来、経験によって培われた、大原則だった。
この世界の『未知』は危険だ──扱いを一つ間違えれば、不老不死の樹壱であっても、事態を制御できなくなる事も稀にはある。
そして人々の裏切り、嘘についてもだ。
この村は気になるが、ひとまず置いておく事にする。
過去再生はまだ使わない。あれを使えば、ほとんど真実は分かる。
しかし樹壱の過去再生は、樹壱以外には見えなくする事も可能だが、それでも感知できるような特殊な感覚を備えた存在もいるのだ。
寝ていた子を起こすような真似は、百に一つでもしたくない。
先の案件である、白く光る獅子とやらを片付けて、それから他でこの村の情報を集めるべきだと判断した。勘には自信があるほうだが、特に何も問題ないならそれでも構わない。
樹壱は立てかけていた剣を手繰り寄せ、夜闇の中で目を閉じた。
不審を感じている状況下でも、体を休ませるべき時に休ませるすべには慣れていた。
同時に危険が迫った際は、即座に覚醒して対処することにも。
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