第5話

歯が折れた、それも粉々に。口の中がざらついている。

 血も止まらず、私は、血を抑えるために、ティッシュを探している。

 もう、これは、タオルだ。

 今度は、タオルを探した。タオルで口を押さえた。

 どんどん歯が粉々になっていく。もう嫌だ!

 と思った瞬間、目が覚めた。

 口の中がざらつく。

 手で口元を触ったが、血は出ていない。

 リアルな夢を見た。

 時間は分からなかったが、病室のカーテン越しに外を見るとまだ、暗かった。

 いつの間にか、眠りについていた。

 久保さんは、スースー寝ていた。

 暫くすると、看護師さんが、懐中電灯を持って見回りに来た。

 起き上がってる私を見て、小さな声で、

「大丈夫ですか?眠れないのかな?」と言ってきた。

「今、何時ですか?」

 と聞いた。

「1時を回ったところです」

 と彼女は腕時計を見て言った。

「眠れるお薬飲みましょうか」

 と言われた。

「はい、お願いします」

 と私は、言った。

 看護師さんが戻るまで、暫く天井を見ていた。少し月明かりが、射し込む天井は、私を見ているように感じた。

 睡眠導入剤を飲み、目を閉じると、自分の鼓動を聞いていた。

 カーテン越しに、光が差し込んできて、目が覚めた。

 時計が必要だなと思った。

 携帯の電源を入れると、6時55分だった。

メールが来ていた。

"ゆりが居ない部屋は、嘘みたいだけど、広く感じるよ。

眠れてるかい?俺は、眠れそうにないよ。

淋しい。横にゆりがいないと、眠れないみたいだ。"

 1時10分のメールだった。

"おはよう!

私は、眠れたよ。お薬飲んだからかな?

一つ必要な物があったよ。いつでもいいから、時計を持ってきて!"

 私は、そうメールを返した。

 暫くすると、彼から、

"おはよう!

時計、今日持って行くよ!

眠れたんだね、安心した。

じゃあ、あとで"

 と返事が来た。

 看護師さんが病室に入ってきた。

「体温と血圧計りますね~」

 久保さんは、まだ寝ているようだった。

 私は、平熱だったが、血圧が低かったらしい。

 久保さんを起こして、作業を終えると、違う看護師さんが、食事を持ってきてくれた。

 お粥を少し食べた。

 そして、顔を洗い歯を磨きに洗面所に行った。

 病室に戻ると、久保さんは、TVを観ていた。

 私は、またベッドに潜り、眠れないか、目を閉じた。かすかに、眠気があったからだ。

気付くと、医師が横に立っていた。

「青木さん、胃が辛いと思いますけど、もう少し食事とりましょうね」

 と言った。

 私は、

「はい、努力します」

 と、言った。

 そして、看護師さんが、体重計を持っていて計ってみると、35kgだった。痩せている事は、自覚していたが、そんなに落ちているとは、思わなかった。

 私は、親しい友人だけに、胃潰瘍で入院した事をメールで知らせた。

"大丈夫?""早く良くなるといいね""お見舞い行っても大丈夫?"などいたわりの返事が届いた。

 それぞれに、返信していると、昼になった。

 今回は、お味噌汁だけ、少し飲んだ。

 気付くと、うとうとしていた。

 どれくらい眠ったんだろう?夕焼けが見えた。

 すると、彼が、やってきた。

「はい、時計」

 と言って、きちんと包装されてリボンのついた箱を渡された。

「ありがとう、わざわざ買ってきてくれたの?」

 私が丁寧に包装を開けると、デジタルの可愛いめざまし時計があらわれた。

「ここ押すと光るから、暗くても見えるよ」

 彼がめざまし時計の上にあるボタンを押した。

「気分はどう?」

 彼が、私をのぞきこむように、やさしく言った。

「うん、さっきまで、寝てた」

 私は、今出来る、精一杯の笑顔で言った。

「ご飯、ちゃんと食べなきゃダメだよ」

 彼が、備え付けの椅子に座りながら、言った。

「看護師さんが言ってた?」

「うん」

 私は、うつむいて、

「朝、体重計ったら35kgだった…」

「うん、聞いた…」

 と、彼は、言い、私の右手をとった。

「早く元気になって、帰ってきてほしい」

 そして、やさしくキスをした。

 入院して、1週間。

 変わり映えのない日々が続く。

 入院してからも、TVを観れない、音楽も聴けない、本も読めなくて、ただベッドに横になって、布団に潜っているか、白い天井を見ているだけの毎日だった。

 何かが、私をそうさせている。

 それはいったい何なんだろう?

 自分の中の自分に問いかけてみても、何も答えてはくれない。

 横たわっているベッドがまるで、泥だらけの底無し沼のような気がした。でも、私は、もがく事もせず身を委ねている。

 意識は、いつも遠く離れたところにあって、本当の自分に見つめられているような、不安定な精神状態だったと思う。

 彼は、仕事帰りに、毎日お見舞いに来てくれた。面会時間、ギリギリまで、側にいてくれた。

 ある日、

「ゆりの、好きそうな曲入れてきた」

と、携帯音楽プレイヤーを持ってきてくれた。

「ありがとう」

 私は、受け取ると、今出来る精一杯の笑顔で言った。

 彼は、私の頭を撫でると、

「気に入るといいけど」

 といつもの笑顔で言った。

 その日、夕食が終わり、歯を磨き、ベッドに潜り込むと、彼の持ってきてくれた携帯音楽プレイヤーで曲を聴いてみた。

 曲名を見ると、RADWIMPS、BUMPOFCHICKEN、ケツメイシ等二人でよく聴いていた曲がたくさん入っていた。

 イヤホンで、音量を小さくして、聴いてみた。

 ただ、耳に流れてくるだけで、本当に、どこか遠くから聴こえてくるBGMみたいだった。

 でも、急に涙が溢れ出てきた。

 ケツメイシの"涙"だった。

 さっき、会ったばかりなのに、彼に逢いたいと思った。

 声を出して泣いていた。

 私は、ベッドから、起き上がり、携帯音楽プレイヤーを握りしめながら、ナースステーションに行った。

「家に…帰りたいんですけど…」

 泣きながら中にいた、看護師さんに訴えた。

 私の必死な訴えに、

「ちょっと待ってね、先生に聞いてみないとね」

 と言って、ナースステーションの中に入れてくれた。

 泣きながら、椅子に座っていると、

「1泊だったら、良いって、先生が言ってます。今、お薬用意するから、待っててください」

 と言ってくれた。

 そして、

「旦那さんに、迎えに来てもらいましょうね」

 と、彼に連絡を取ってくれた。

 暫くすると、彼が、迎えにやってきた。お風呂上がりだったのか、髪が濡れていた。

 私は、泣きながら着替え、ナースステーションで、彼が、来るのを待っていた。

 携帯音楽プレイヤーを握った手のひらには、爪の跡が、くっきりついていた。

 彼は、看護師さんに、会釈をして、

「さ、帰ろう!」と言って、私の右手をとった。

 私を助手席に乗せると、シートベルトをしながら、

「もう、1週間だもんな」と、言った。

 私達は、出逢ってから、ずっと一緒にいた。離れるのは、たまにある、彼の出張の2~3日くらいだった。

 泣き腫らした顔で、私は、頷いた。  

 家に帰ると、いつものように、ソファーに座った。涙もやっと少し落ち着いてきた。

「風邪ひいちゃうね」

 と、私は、彼の髪を触りながら言った。

「平気だよ」

 と彼は、タオルでがしゃがしゃ髪を拭いた。

「ケツメイシの"涙"聴いてたら、涙出てきて、逢いたくなっちゃった」

 私は、たどたどしく言った。

「ごめん、選曲間違ったな」

 彼は、ホットミルクを入れてくれて、横に座った。

 私は、さっきまで、大泣きしていたのに、フフっと少し笑った。

 彼は、不思議そうに私の顔を覗く。

「私、拾われた猫みたいだね」

 そう言うと彼は、

「胃潰瘍が出来てるんだ、コーヒーってわけには、いかないだろう」

 と、笑顔で私の頬を撫でた。 

 部屋は、少し散らかっていた。

「ご飯とか、洗濯とか、どうしてるの?」

「そんな事、気にしなくていいよ」

 彼は、私の頭を撫でながら言った。

「毎日、お見舞いに来てくれて、時間無いでしょ?」

 と聞いた。

「平気平気!ゆりの方が、慣れない病院で辛いと思ってるよ」

 と言った。

「病院から、電話来たからびっくりしたよ。ゆりに何かあったんだと思って」

「やっぱり、家がいいな」

 私は、凄く小さな声で呟いたが、彼は、えっ?と言った。

「迎えに来てくれて、嬉しかった」

 私は、誤魔化すように言った。

「今日は、よく眠れるよ、きっと。ゆりは、柔らかくて気持ちいいからさ」

 彼から、あまり眠れてないとメールが来ていた事を思い出した。

 こんなに、ガリガリに痩せた私が、柔らかいわけがないと思っていた。

 私達は、二人の隙間が無いくらい抱き合って寝た。

 それは、たった1週間離れていただけなのに、懐かしく感じた。やっぱり、私の居場所はここだけだと思っていた。

 夢を見る事もなく、眠っていた。

 次の日、彼は、有給を取って、私と一緒にいてくれた。

 私は、貯まった洗濯物を片付けていた。

 平日の昼間に、一緒にいる事なんて、初めてのような気がした。

「ゆり~、こっちおいでよ~」

 珍しく彼が、甘えん坊のように、近づいて来て、後ろから抱きついてきた。

「掃除機もかけなきゃ」

 私が言うと、

「俺がやるよ!」

 と、ちょっと偉そうな感じで、奥の部屋から掃除機を持ってきた。

 やっぱり、二人でいるのは、幸せだなと感じていた。

 夜には、病院に戻るように言われていたので、二人で夕食をとり病院に向かった。

 二人の時間は、あっという間だった。

 病院の駐車場に着くと、私達は、甘い長いキスをした。

 病室に戻ると、久保さんは、寝ているようだった。

「じゃあね、いい子にしてるんだよ、子猫ちゃん」

 と彼は言い、私の首元をくすぐって帰って行った。

 私は、着替えると、ベッドに潜り、"涙"は飛ばして、携帯音楽プレイヤーの中の音楽を聴いていた。

 もう、泣かないようにしよう、早く良くなって、家に帰ろうと思いながら、静かに泣いた。

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