インソムニアムーン
須藤美保
第1話
今、自分におきているこの異常な状況について、私の感情は、何も感じていなかったと思う。
大袈裟に言うと、日常的に、例えば、横断歩道を渡ろうとして、車が迫ってきているような、危険な状況に陥っていても、怖かったというような感情も湧いてこないと思っていた。いつからだろう?
ただただ、口の中に無数のクラゲが入ってくる。
溺れているのか?
私は泳げない。水が怖いのだ。落ちたとしても、溺れそうにない湖の桟橋のようなところも歩けない。
水に入れるとしたら、部屋にあるバスタブくらいだ。
クラゲに詳しい訳ではないので、なんという種類か、わからないが、水族館で、円筒形の水槽に漂っていそうな、小さなクラゲだ。
両手で掻き出しても掻き出しても、どんどん入ってくる。そして、口の粘膜をチクチク刺している。
ここが海の中かもわからない。
息も苦しくない。
ただただ、無数のクラゲが絶え間なく、口中に入ってきて粘膜を刺激している。
足元には、無数のクラゲが水分を失い、うようよしている。
私は、諦め気味に、試しに口を閉じてみた。
しかし、状況は変わらず、口の粘膜は刺激し続けられ、クラゲは、あふれてきた。
ぼんやり、クラゲで窒息死か…などと、くだらない事を考え始めた頃、スマホのLINEの着信音が鳴った。
口の中のチクチクした違和感は、まだ残っている。
なんて夢だったんだろう。
目が覚めると、パジャマ替わりにしていたTシャツの胸元が、汗で濡れていた。
スマホの時計を見ると午前2時20分だった。
いつも、このくらいの時間に、アラームをセットしているわけでもないのに、目が覚める。
きっと、睡眠導入剤の効果が切れるからなのだが、もう一度飲んでも、朝起きられないのがイヤなので、そのまま、暗闇から外が明るくなるまで、何度も寝返りをうつ事になるだろう。
口の違和感が、治まらないので、ベッドから起き上がり、台所に向かった。
少し部屋は、寒かったが、冷蔵庫から、炭酸水を出して飲む。
喉が渇く。
1日に500mlの炭酸水のペットボトルを4~5本飲んでしまうが、喉の渇きは、解消されない。
炭酸水の刺激が、口の違和感を増殖させたが、半分は残っていたボトル1本をグッと飲み干した。
私は、よく夢を見るほうだと思う。
それも、カラーで、体が反応する夢が多い。そして、ほぼ内容を覚えている。
こんな事は、今まで無かった。 一人で寝るようになったからかもしれない。
スマホのLINEの画面を見ると、今着信されたのは、友人ゆづきの”眠れない”というメッセージだった。いつもは寝る前に、着信音をオフにしているのだが、忘れていたらしい。
ベッドに戻り、潜り込むと、
“今、目が覚めた”とメッセージを送った。
“ごめん、起こした?”彼女からのメッセージ。
“違うよ、夢で目が覚めた”
よく眠れない友人のひとりだった。
“実はさ、旦那が帰ってこないんだよね”
なんといって返していいかわからず、
“珍しいの?”と送った。
“いつも遅いけど、連絡がないんだ”
そうなんだ。どんな仕事をしている人なのかは、詳しくは知らない。
“それは、心配だね”
私は飲み干した炭酸水のボトルをゴミ箱に捨て、ベッドに潜りながら、返信した。
“残業だと思うけど…”
ふと、干からびたクラゲがたくさんいた、床に、本当にクラゲがいるかもしれないと、ベッドから起き上がり見てみたが、さすがにそんなものはいるハズがない。
“ずっと、起きてたの?”と返信。
“うん、いつも起きて、帰るの待ってる”彼女から。
“大丈夫?連絡してみたら?”
“そうだね、そうする。ありがとう”
彼女から、ペコリとお辞儀するキャラクターのスタンプが、送られてきた。
“早く帰ってくるといいね”
とメッセージを送信し、私は、バイバイをしているキャラクターのスタンプを送った。
彼女とは、いつからの付き合いだっただろう?と考えていた。
高校生の時には、よく遊んでいた記憶がある。
私が、LINEを始めたきっかけの人かもしれない。
ご主人の転勤で、千葉に引っ越してしまい、あまり実際に会う機会が少なくなってしまった友人だった。
心配事が多い彼女は、いつの間にか、心療内科に通うようになったらしい。
LINEの画面を見たきっかけで、スマホでメールを見るようになっていた。普通のメールではなく、迷惑メールの方に振り分けられている方を見た。いつも思うが、どうしてこうもくだらないメールが届くのだろうと、不思議に思う。
詐欺のようなメールばかり。これらを真剣に受け止めている人もいるんだろうな?と思うと心配になってしまう。
ネットオークションを利用した時から、奇妙なメールが届くようになった。
重要なメールが無いか、タイトルだけざっと見て、無いのを確認すると、一括削除した。
あくびも出ないので、スマホからBluetoothのスピーカーを繋いで、小さく米津玄師クンを聴いていた。
彼には、いつも癒されている。
詞の世界観、曲調全てが、何かとらえどころのない魅力に溢れている。こんなに、才能がある人は、羨ましい。何か懐かしい記憶を呼び起こすような、そんな錯覚さえおこさせる。それでいて、新鮮な表現も多々あるように感じる。
音楽に、どっぷりつかる感じで、目を閉じて、歌詞をぼそぼそ口ずさむ。
ここ最近のいつもの夜だ。
今日は、6時に起き上った。
カーテンを開け、まだ朝焼けの残る空を見る。まだ、月がうっすら見えた。
シャワーを浴び、朝食を食べる。と言っても、手の込んだ物を作るわけではない。トーストとサラダ、ヨーグルトにホットミルク。
メイクは、十五分かからない。
身支度を終えて、仕事に向かう。
歩いて十五分。
朝、歩く時は、携帯音楽プレイヤーで、ONE OK ROCKを聴く。
曲調に合わせてテンポ良く歩く。公共交通機関を使ってもいいのだが、パーソナルスペースの広い私には、混んでいる電車やバスに乗るのが、苦痛だった。自転車で通うことも、考えている。
私の職場は、駅前のショッピングモールの映画館。今頃あくびが出た。結局昨夜は、夢の後眠れなかった。
この職場を選んだのは、やはり、映画が好きな事が大きい。家からも近く、面接を受けると、即採用された。仕事内容は、入場時のチケットを切ったり、パンフレット等の販売だった。シフトはあるが、休日が固定されていた事で、決めた要素が強い。ほぼ月曜と金曜が休みだった。
働くのは、初めてだったが、意外と馴染むのが早かった。ただ、ずっと立ちっぱなしなので、足がビックリするくらい浮腫む。
「仲原さん、おはようございます。眠れなかったのかい?」
主任にあくびを見られていたらしい。笑顔で声をかけられた。私を採用してくれた男性だ。
「おはようございます、すみません」
と言いながらも、お辞儀をしながらあくびを堪えていた。
「どうですか?仕事は慣れましたか?」
主任に声をかけられた。
働き始めて二か月程だった。私の胸にはまだ、研修中の名札が付いている。
「そうですね、雰囲気には慣れた気がしますけど、まだ緊張してます」
「そうですか?いつも落ち着き払っているように、見えますよ」
「とんでもないです。いつもビクビクしてます」
正直な気持ちだった。
「リラックス、リラックス」
主任は、いつも敬語で話してくれて、励ましてくれる、優しい上司だった。
心の中で、ありきたりだが、頑張ろう!と思った。
私は、褒められて伸びるタイプなのかな?と考えたりしていた。
ここには、六月からお世話になっている。一緒に働いている人も、職場も穏やかな雰囲気だ。
今まで接してきたお客様も、クレーマーのような人はいなかった。
私にとっては、居心地の良い場所だった。
昼休み、眠れない友人が気になって、LINEにメッセージを入れた。
どう切り出そうか少し悩んだ。
“あれから、眠れた?”とだけ、送ってみた。
ショッピングモールのフードコートで昼食をとりながら、スマホで相変わらず、迷惑メールの削除をしていた。
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