第2話
私は、三月に離婚した。結婚七年目の離婚。子供はいない。授からなかった。
相手は、専門学校で知り合った、一コ上の人だった。
私は、入学したてで、学校に忘れ物をして、先ほどまで授業を受けていた教室に戻った時に、その教室の掃除をしていたのが、彼だった。
名前は知らなかったけれど、身長が高くちょっと猫背で、いつも先生達と仲良く話していて、どちらかというと、学校で目立っている人だった。
ドアを開けると彼が、先生とほうきを持ったまま、話していた。
「すみません、忘れ物しちゃって」
私は言った。
「何、忘れたの?」
彼が言った。これが、初めての会話だった。
「お財布を机の中に…」
「どこ?」
「あ、そこです」
彼の近くの机を指差した。
「どれどれ…コレ?」
「はい、それです!良かった!」
私は、安堵し、彼の方に近づいた。
「なんか、お礼して」
彼は、私のお財布を持ち上げて、いたずらっ子のような笑顔で言った。背中を夕陽に照らされている彼の顔が眩しかった。
「お礼?」
「コーヒーくらい奢ってよ」
側にいた先生が、
「青木、セコくないか?」
と笑いながら言った。
そんなに、恩を感じなかったが、彼の笑顔と態度に負けた私は、一階の紙コップで出てくる自販機のコーヒーを彼に奢り、一緒に飲む事になった。
そこには、テーブルと椅子が何席かあって、お弁当を食べたりするスペースのようになっていた。
私達は、その一つに向かい合って座った。
「名前教えてよ。何専攻?」
その時、初めて彼の顔をはっきり見た。凄く整った顔をしている、きっと、イケメンだった。
そして、話しながら上下に動く、彼の喉仏を見ていた。私は、男性の喉仏が好きだ。フェチかもしれない。触れてみたいと思っていた。
「仲原ゆりです。医療事務です」
喉仏を見られているなどと、思っていないだろう彼は、
「そうなんだ。君みたいな可愛い子がいたら、その病院混むね」
本気なのか、冗談なのか分からなかったが、そう言った。
この時、私は、どんな顔してたんだろう? 私が何も言わずにいると、
「もう、帰るところ?」
と、聞かれた。
「はい」
「お腹空かない?なんか、食べて帰ろうよ、一緒に」
「はい?」
「昼、食べそこなって、腹ペコペコなんだ」
「そうですか…」
「ラーメン行こ、美味いとこあるから、付き合ってよ」
これが、私達の始まりだった。
彼が連れて行ってくれたラーメン屋さんは、外まで人が並んでいた。
会話もなくただ、二人で並んでいたが、私がふいに、後ろの人に押されてよろけた時に、彼が、支えてくれた。その時に彼の左手が私の右手に触れた。そのまま彼は、私の右手を離さなかった。
大きな手だなと思った。
「塩が、オススメだよ」
彼は、そう言って、私を見た。
その手は、私達がラーメンにありつくまで、離れなかった。
私は、緊張して、ラーメンの味もよくわからなかったけれど、彼が、
「ね、旨いでしょ?」
と言ったので、頷いていた。
そして、彼は、私の家の近くの駅の改札の所まで、送ってくれた。
「俺、反対方向だから。明日の昼も一緒に食べてくれない?」
と聞いてきた。私は、小さく頷いた。
次の日、お昼を一緒に食べた後、ちょうど二人とも授業が一時間空いていたので、また一階でコーヒーを飲みながら他愛もない話をしていた。
「もう俺、就職決まったんだ、文具メーカー」
「そうなんですか、良かったですね」
私は、相変わらず、彼の喉仏を見ていた。
「ゆりちゃんは、将来の夢とかある?」
「今は、あんまり考えてないです。高校で就職したくなくて、この学校入ったんで」
「そっか、じゃあさ、俺がゆりちゃんの将来の夢になるよ」
私は、キョトンとして、
「ちょっと、意味わかんない」と笑った。
「じゃあさ、俺の彼女になってよ」
昨日も今日も、見たことがない真面目なようで、ちょっと伏せ目な表情で、彼は言った。
「え?」
彼は、残ったコーヒーを飲み干すと、
「俺と付き合って、ゆりちゃん」
と、恥ずかしそうに言った。
私は、どう返事しようか、迷っていたが、
「決まり~」
と彼が、私の左の頬をつまみながら言った。
「じゃあ、喉仏、触ってもいい?」と私が言った。
「喉仏?」
「うん」
彼は、不思議そうな顔をしていたが、
「どうぞ」
と言って、顎を上げた。
私が触ると、
「なんで、喉仏?」
と聞いた。多分誰でも不思議がるだろうと思いながら、
「好きだから」と言った。
私たちの恋愛が始まってしまった。
本当は、ラーメン屋さんでの、初めて手が触れ合った時から、もう始まっていたのかもしれない。
それから、私達はいつも一緒にいた。
付き合って初めてのクリスマスに、彼の部屋で、ケーキを食べている時に、
「ゆりずっと一緒にいたい。愛してる。結婚しよう」
とプロポーズされた。
「はい」
私も、彼しかいないという気持ちがあった。そして、頷いてキスをした。
私達は、私が専門学校を卒業すると同時に結婚した。
両方の親からは、まだ早すぎると反対されたが、二人は、結婚しか考えられなかった。
当時は、彼が私の全てだったし、彼も私を大切にしてくれた。
周りからは、いつまでも恋人同士みたいだと言われていた。実際私達は、数多くの記念日を大事にして祝う、そんな夫婦だった。
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