第3話

関係がおかしくなったのは、私の方からだった。

 専業主婦に落ち付いていた私は、いつも一人孤独だった。ただ夫の帰りを待つだけの人間になっていた。この二人で住んでいる部屋が、私の世界の全てだった。

 別に彼が、それをどうこう言った事はない。ただ、ひとつ違ったのが、子どもの事だった。彼は、子どもを望み、私はまだ、二人で過ごしていたかった。

 しかし、結婚して、四年目の春、私は、妊娠した。

 それを知らせた時の彼の表情は、今でも忘れない。忘れることは出来ない。心からの喜びの表情とは、こうゆうものなんだろうと思えるほどの笑顔そのものだった。

 私は、強く抱きしめられ、キスをした。これが本当の幸せなのかもしれないと、涙がこぼれた。

 二人で病院に行き、エコー写真を見た。

 小さな小さな大切な、彼と私の子どもが映っていた。

 彼は医師に、

「男の子ですか?女の子ですか?」と聞いていた。

 医師は笑顔で、

「まだ、わかりませんね」

 と言った。

 妊娠三か月だった。

 二人で、母子手帳を貰いに行き、エコー写真を部屋に飾った。

 彼は、今まで以上に私を大切にしてくれた。仕事に出かける時と帰る時も、私とお腹の子、それぞれに、行ってきますとただいまを言うようになった。そして、仕事帰りのお土産が増えた。

 子どものオモチャや服、靴までも買って帰ってきた。

 二人でそれらを見ながら、話し、笑い合い、喜び合っていた。

 そんな幸せな日々が続き、続くと思っていた矢先、私の身体に異変が起きた。

 二人で、名前を考えようか等と話しながら眠りについた夜だった。私に、今まで経験した事のない腹痛が襲いかかってきた。

 声も出ないくらいで、必死に隣で眠っている彼を叩き続けた。どれくらいの強さで叩いていたのかわからない。彼は、なかなか起きてくれなかった。

 あまりの痛みに、もがいていると、ベッドから落ちてしまった。

 その時、めくれた掛け布団の下に血だまりが出来ていた。

 私がベッドから落ちたことで、彼が反応して、私の名前を呼んだ。

 血だまりを見つめ、小さな声で、

「ゆり…」と。

 その後のことは、殆ど覚えていない。気がつくと、白い天井の家のベッドではないところに寝かされていた。病院のベッドだった。

 次に、彼に名前を呼ばれた時には、もう、だいたいの事を察していたと思う。

 彼の顔は、真っ青で、か細く、

 「ゆり」

 と言った。

 「赤ちゃんダメだった…」

 私は、流産したのだ。

 不思議と涙は出てこなかった。

 彼は、目が真っ赤だった。

 あんなに幸せだったのが、嘘のように、茫然としていた。

 私はただ、

 「ごめんね」

 を繰り返していた。

 私たちの元にやってきてくれた赤ちゃんに、それを待ちわびていた彼に。

 「ゆりのせいじゃないよ」

 彼は言ってくれた。

 でも私は、「ごめんね」を繰り返していた。

 その後私は、原因はわからないが、二日間眠り続けたらしい。

 目が覚めたとき、彼は、横に居てくれた。不安げな顔が、少しだけ明るくなった気がした。

 私は、身動き一つせず、眠り続けていたらしい。両家の両親も駆けつけてくれていたそうだ。

 私は、彼の不安げな顔を見て、涙が溢れ出てきた。その涙は、止まることがないように思える程だった。

 「ゆり、死んじゃうのかと思ったよ」

 彼が両手で、私の涙を拭きながら言った。

 「まだ、俺たち若いんだから、大丈夫!」

 彼は、言った。

 それから私は、塞ぎ込むようになっていったと思う。

 自分でもわからない、暗闇に取り残された不安のようなものが、心の中を支配しているようだった。

 そんな私を、彼は気遣い、以前にも増してやさしく接してくれていたように思う。

 一人ぼっちの部屋は、辛かった。この世の中に、自分一人が、一人ぼっちでいるかのような思いが溢れて止まらない。

 あれから、一ヶ月程たったある日、掃除機をかけていると、部屋の隅にぽつんと一つ、小さな水色の象のぬいぐるみがいた。

 彼が、子どものために買ってきた物だった。大半のものは、またやって来てくれるであろう、子どものために、押し入れにしまったはずなのに、何故か一つだけ置き去りにされたようだった。

「子どもが、口に入れても大丈夫なんだって!」と彼が話していた物だ。

 これが、普通のテディベアだったら、何も考えず、どこかの棚に飾ってあっても少しもおかしくないような物だけれど、どこから見ても、飾るような形ではない象がそこにいた。

 タオル地で出来たそれは、乳児に与えられるものだった。

 自分のせいではないことは、十分理解していたつもりだったが、流産してしまったことは、事実で、その象を見ると、悲しみは、自分が思っているより深いことに気がついた。

 私は、泣く事しか出来なかった。

 部屋の片隅で、永遠と思えるくらい、泣いていた。陽が暮れていく一人ぼっちの部屋で。

 どれくらいそうしていたのか、わからなかったが、そんな中、彼が帰宅した。

 照明もつけず、カーテンも開けたままの、薄暗い部屋を不思議に思った彼が、私を呼んだ。

「ゆりいないの?」

 照明をつけて、私を見つけると、慌てて駆け寄ってきた。

 象を握りしめながら、泣き疲れた私を、何も言わず抱きしめてくれた。

 夕食の用意もせず、泣いていたので、彼は気を遣ってピザのデリバリーを頼んでくれた。

 しかし、私は、一口くらいしか、食べられず、腫れたまぶたのまま、おやすみ、と彼に言い、そのままベッドに潜りこんでいた。

 また涙が、溢れ出てきて、眠りにつくことは出来なかった。

 次の日の朝、私は、またこの部屋に一人でいるのが辛くて、彼が目を覚ます前に、静かに家を出た。 

 少しの服をリュックに詰め、財布を持ち、携帯は置いて。

 どこか遠くに行きたかった。今のこの現実から離れたかった。

 近くの駅に向かうバスに揺られながら、どこに行こうか考えていた。駅に着いたら、とりあえず来た電車に乗ってしまおうと思った。

 やがて駅に着くと、言い知れない不安が襲ってきた。

 なぜ自分がこんな事をしているのか?どこか遠くに行って、何かが変わるというのか?

思いつきで、家を出てきてしまったけれど、彼はどう思うだろう?まばらだが、周りには、通勤や通学の人がいる。

 みんな、どんな気持ちで日々を過ごしているのだろう?

 私は、異常なんじゃないだろうか?

 駅のベンチに座り、今までの事を考えてみた。自問自答。

 きっと私は、しあわせだ。愛してると言って私を大切にしてくれる、優しい夫。

 子どもだって、また授かるはずだ!孤独なんかじゃない!

 彼は、起きているだろうか?取り返しのつかないような事をしてしまったのではないだろうか?

 私がいないことで、彼は、どう思うだろう?

 複雑な気持ちが入り混じって、自分が分からなくなってきた。

 帰ろう。

 コンビニに行ってきたとでも、言えばいい。まだ、彼を送り出すのにも、間に合うだろう。

 乗ってきたバスに、また乗り込んだ。

 家の近くのコンビニで、サンドイッチを買って帰った。

 彼は起きて、出勤の準備をしていた。

 彼が、何か言おうとする前に、

「昨日。朝食の準備出来なかったから、サンドイッチ買って来た!」

 と、努めて明るく私は、言った。

 彼は、不思議そうに、私がしょっている、リュックをみていた。

「残ってたピザでも良かったのに…」

 彼は言った。

 そして、いつものように、彼を送り出すと、リュックの中身を戻し、何事もなかったように、孤独の日々に戻っていった。

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