第4話
一番初めに症状が出たのは、過呼吸のようなものだった。息が苦しくて、呼吸ができない。
自分に、落ち着いてと言い聞かせて、ゆっくり深呼吸してみた。
でも、息が苦しい。
次に、心臓が潰されそうな感覚に襲われた。ドキドキ鼓動が、激しくなった。
ソファーに横になって、苦しさが治まるのを待っていた。
食欲も減退した。何も食べられない状態が続いた。
彼と食事が出来る時は、無理やり食べていたが、朝昼は、食べられないでいた。コーヒーばかり、飲んでいた。
そして、外出もままならなくなっていた。
誰にも会いたくない、話したくない。引きこもりのようになっていった。
テレビも観れない、音楽も聴けない、本も読めない。何もかもができない状態になっていった。
家出を企ててから、一週間後、最後は、料理ができなくなった。これが、致命的だった。
夕方、彼に、
“食事が作れないから、何か食べて帰ってきて”
とメールを送った。
“どうしたの?大丈夫?”
と返事が来た。
“何もできないの、ごめんなさい”
私は、そう送り、携帯の電源を切った。
そして、ベッドに潜り込んだ。
眠れば何かが、治まってくれるような気がして、目をつぶった。
彼は、どう思うだろう。不安だけが、薄暗い寝室の中で、渦巻いていた。
私は、間違いなく変わってしまった。いや、本当の自分は、今の自分なのかもしれない。
ネガティブな塊。
こころの奥底に、眠っていただけかもしれない、私の本性。
息が苦しい。ドキドキする。眠りにつくことも出来ない。眠ってしまえば、元に戻れるかもしれない。そんな浅はかな考えも、うち消してしまう程、苦しい。
潜り込んだ真っ暗なベッドの中で、あの夜を思い出していた。
怖かった。悲しかった。辛かった。死まで意識した、様々な感情が、一度に襲ってきた夜だった。
私には、乗り越えられない、出来事だったんだ。
「消えて…しまいたい…」ベッドの中で呟いた。
どれくらい時間が経ったのか分からなかったが、玄関の鍵を開ける音がした。でも、私は、荒い呼吸で、動けずにいた。
暗い部屋の中で、私を探す彼の足音が聞こえていた。
「ゆり~!」
呼ばれているのは分かっているけれど、動く事が出来ない。声も出せない。
彼は、あちこちのドアの開け閉めを繰り返している。
寝室のドアが開き、照明がついた。
彼は、私の気配を感じ取って、
「ゆり、どうした?どこか、具合悪いのか?」
と言った。
私は、やっとの思いで、掛け布団をめくり、顔を少し出すことが出来た。
「いきが…く…るしい…」
彼が、救急車を呼んだ。
私は、ただ目をつぶって、されるがままに、ストレッチャーで病院に運ばれた。流産した時と同じ病院だった。まだ、息は荒く、動悸も治まらない。
混合性抑うつ障害。
呼吸と動悸が治まり問診され、医師に告げられた病名。
今まで私を支配していた何かが、表に出てきたような感覚だった。
それから、胃が異常に痛んでいたので、検査すると、胃と十二指腸に潰瘍が出来ていた。
私は、しばらく、入院する事になった。
病室は二人部屋で、ドアの近くのベッドには、おばあさんが寝ていた。
私は、窓側のベッドだった。
静かに入ったつもりだったが、起こしてしまったようで、挨拶をした。
「うるさくして、すみません。青木です、よろしくお願いします」
おばあさんは、起き上がってくれて、ぼそぼそと何か言っていたが、聞き取れなかった。
ベッドに、名札が付いていて、久保さんだと分かった。
軽く会釈をして、とりあえず持ってきた荷物を、ベッドの横の備え付けの棚にしまっていた。
「どこが悪いの?」
久保さんに、聞かれた。今度は、はっきり聞こえた。
「胃です」とだけ答えた。
「そう、若いのに。すぐ退院出来るといいね」
と言ってくれた。
実際、どれくらいで退院出来るのかは、言われていなかった。
人生初の入院だった。
彼が、病室に入ってきて、久保さんに、会釈をしながら、私の所に来て、備え付けの椅子に座った。
「何か欲しいものある?」
私は、何も思い付かなかったので、首を横にふった。
しばらく、二人とも、何も言葉は交わさなかった。
夕食の時間になり、彼は、
「何かあったら、すぐ連絡して」
とだけ言い、キスをして帰って行った。
私は、夕食も殆どとれず、お粥を少し食べただけだった。
ただベッドの中で、じっと自分の鼓動と息遣いを聞いていた。
それが今、私に出来る唯一の事のような気がした。
彼は、あの部屋で一人、どうしているのか、入院が、どれくらい続くのか、この症状は良くなるのか…
考え始めるときりがなかった。
気が付くと、枕元に置いた携帯が、メールを受信していた。
"ゆり、こんなになるまで、気付いてやれなくて、ごめん。一人で抱え込まないで、何でも俺に言ってほしい。俺が出来る事なら、何でもするから。ありきたりな事しか、言えないけど、ゆりを愛してるから。これからもずっと、ゆりと一緒にいたいから。ゆりが俺の全てだから。"
彼からのストレートな言葉たちに、私は、今は心が、何も受け入れられない状態だった。
何も考えないでいたかった。
今の彼の精一杯と思える言葉をどう受け入れればいいのか?
愛してるって、どうゆう事なんだろう?そんなつまらない事まで、考えていた。
私は、携帯の電源を切った。
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