第23話
もう、山の頂上には雪が積もる季節になっていた。
私の誕生日の温泉旅行から数日経った日の仕事帰り、今日は、終わるのが早かったので、ハルを迎えに未来堂書店へ向かった。足早に、いつもの帰り道を歩いた。
未来堂書店に着きドアを開けると、レジカウンターでハルがスーツ姿の人と話をしていた。
私は、時が止まったようになった。自分の顔が青ざめていくのが分かった。何故ならば、そのスーツ姿の横顔が、彼だったから。間違いなく、長身で少し猫背の彼だった。 ハルは、私に気づき、
「ゆり」
と、右手を上げた。その瞬間、彼が振り向いた。耳がキーンとなった。今度は、心臓の鼓動が激しくなった。
ほんの数秒の出来事だったと思う。彼の口元も、
「ゆり」
と動いたような気がした。
私は、そのまま回れ右をして、未来堂書店から、走りだしていた。
憎しみあって別れたわけじゃないのに、何故逃げるのか?わからない。こんなところで会ってしまうなんて、思いもしなかった。
彼には、会いたくない思いがあったんだろう。今来た道を走って戻って行った。
気が付くと、エルフのドアを開けていた。
そして、エルフのカウンターにうなだれた。心臓の鼓動が、ドキドキしていた。
「ゆりちゃん、どうした?」
マスターが、少し驚いていた。
私は、ひとつ息をついて呼吸を整えると、 「マスター、オレンジジュースください」 と言い、カウンター席に座った。
「顔色が悪いよ」
マスターが、オレンジジュースを出しながら、心配そうに言った。
「彼が、未来堂書店にいたんです」
「彼って?…元旦那さん?」
私は頷くと、グラスにストローをさして、オレンジジュースを一口飲んだ。
「どうして、逃げて来たのか、わからないんです」
「動揺した?」
「はい」
マスターは、腕を組んで、
「いいんじゃない?もう会いたくもないんだよ、昔の男には」
と言った。私の気持ちが少し和んで、ほっとしたような気がした。
「ハルは、気付いたの?」
マスターが、聞いてきた
「わかりません。でも変には思ってると思います。お店入ってすぐ走って逃げたので」
「逃げたって?元旦那さんが、何か言ってるかもね」
マスターが、言うと私のスマホが鳴った。ハルからだった。
「マスターどうしよう、ハルから…」
「出ないと。ハルも心配してる、きっと」
私は、ひとつ深呼吸して、通話のボタンを押した。
「ゆり、どこにいる?」
電話の向こうの音が、ガヤガヤしていた。 「エルフ」
「わかった。今、青木さんと向かうから」 「え?」
「いいから、ゆりは、エルフにいて」
そういうとハルは、電話を切った。
「マスター、どうしよう。ハル、彼を連れて来るって」
「事情は、分かったんじゃないの?そんな顔しないで」
私は、泣きそうだった。鼻がツンとした。 「今更会っても、何も話す事なんて、ないのに」
「ハルが、何か思ってる事あるんだよ」
すると、エルフの入り口のドアが開いて、ハルと彼が入って来た。
「マスター、コーヒー2つ」
ハルは言うと、奥のボックス席に彼を案内して、振り返って、カウンターの私の右手を引いて、オレンジジュースを持って、彼の向かいに座らせた。ボックス席の雰囲気が、緊張していた。私は、俯いたままで、ハルは、私の横に座ると、
「青木さん、うちの担当だったんだけど、今度仙台に転勤になるんだって。その挨拶で、うちに来てた」
と言った。マスターがコーヒーを持ってきてくれると、
「ゆり…仲原さん、病気はどう?元気だった?」
と彼が、口を開いた。
私は、頷くと、
「そっか、良かった」
と彼が言った。
「ゆり、泣いてるの?」
ハルが、私の顔を覗き込むと、私の目からポロっと涙がこぼれた。
「どうして?もう会わないように旭川に来たのに、なんで?」
私は、ポロポロ涙をこぼした。
「ごめん」
彼が言った。
「ゆり、俺もごめん。でも青木さん、もう北海道離れるから、少し話した方がいいんじゃないかと思って連れてきた」
とハルが、ハンカチを渡してくれた。
「泣いちゃって、ごめんなさい」
私が言うと、彼が、
「そうだよな、もう俺なんか会いたくないよな」
と言った。
「青木さん。俺ゆりを幸せにしますから、安心してください」
とハルが言った。
「近藤さん、よろしくお願いします」
彼が、頭を下げているようだった。
「はい」
とハルが言うと、
「でも、許しは、要らないんじゃないかな?もう離婚した、元旦那には」
「ゆりから、全部聞きました。青木さんは、ゆりの全てだったから」
私がやっと、顔を上げると、目の前に懐かしい彼の笑顔があった。少し痩せたような印象だった。
「そんな事ないですよ。仲原さんは、強かった」
私は、涙を拭くと、
「私今、幸せだから」
と、その時の出来るだけの笑顔で言った。 「そっか、良かった。俺も胸はって、幸せって、言えるように頑張るよ」
彼が言った。
「さようなら、お元気で」
私が言うと、
「ありがとう、最後に会えて良かった」
と、彼が言った。
もうこれから、一生会わないであろう彼に言った最後の言葉。彼と私の本当の最後は、これからずっと一緒にいるであろうハルと3人だった。
彼は、駅まで送るというハルを断って、一人でエルフを出て行った。
「遅くなっちゃったね。マスターにオムライス作ってもらおうか?」
ハルは私に言うと、
「家に帰りたい」
と私が言った。
「分かった。じゃあゆりの部屋行こう」
マスターにハルが帰ると伝えると、
「うん。また」
と送り出してくれた。
エルフからの帰り道、
「ゆり、怒ってる?」
と、ハルが聞いてきた。
「ううん。今まで引きずってきた何かを下ろせた感じ」
「それは、良かったって事?」
「うん」
「それなら、良かった」
「彼なんて言ってた?」
「ゆりの事、凄く心配してたよ。自分は、ゆりの事を傷つける存在でしかなかったって、言ってた」
「そう。なんとなくだけど、今日でやっと、彼との関係が終わった気がする」
「時間かかったね」
「ハルが、居てくれて良かった」
「ゆり今、抱きしめていい?」
「ここで?」
「うん」
「いいよ」
もう、すぐそこに私のアパートが見えるのにハルは、私を抱きしめた。横を仕事帰りのサラリーマンが、驚いた顔で歩いて行った。
「ゆり、愛してる」
ハルは私を抱きしめながら言った。
「ハル、私本当にハルと出会えて良かった」 私は、ハルの耳元で、
「愛してる」
と言った。
家に帰ると、ハルのお腹が鳴った。
「お腹空いた」
私は、手を洗いながら、
「スパゲティでも食べよう。レトルトだけど」
と言った。
ただ、お腹を満たすだけの質素な夕食を終えると、私たちは、お互いを求めあった。彼の事を忘れるように。
ハルが、私に腕枕すると、私は一気に眠気が襲ってきて、眠ってしまった。
そして夢を見た。
私は、ひたすら白い一直線の道を走っている。すると、急に道が枝分かれしていた。どちらに行こうか迷っていると、ハルが現れて私の右手をひっぱる。道の先は、よく見えないが、向かって右の道に進んだ。
進んで行くと、大きな木が邪魔している。もう行き止まりだと思ったら、ハルと深い穴に落ちて行った。
もう怖いので、いつものように目を覚まそうとするが出来ない。何メートルも落ちていく。どうして?と思っていると、目が覚めた。ハルが不思議そうに、私を見ていた。
「足、踏み外した?」
ハルが私に聞く。
「穴に落ちた」
私が言うと、
「急にカクってなったから、焦った」
「夢、見てた」
「顔が辛そうだったよ」
「ハルが出てきて、導いてくれたけど、穴に落ちちゃった。変な怖い夢」
ハルは私にキスすると、
「大丈夫、俺がついてる」
と私の前髪を触りながら言った。
「心強い」
私が笑うと、ハルが、
「ゆり、やっと笑った」
と微笑んだ。
「喉渇いた」
と私がベッドから抜け出すと、ハルが左手を掴んだ。
「もう少し、くっついていよう」
ハルが言い、私は頷くと、またベッドに潜った。
「どうしたの?」
「なんでもないよ」
「変なの」
私が笑うと、ハルも笑った。
私は、Tシャツを着ると、冷蔵庫に炭酸水を 取りに行った。
ベッドの横で飲むと、ハルが、
「俺もちょうだい」
と言ったので、ボトルを渡した。
「なんか今日は、1日が長く感じる。いろんな事がスローモーションで起きてるみたい」
私が言うと、
「今日はゆりの、ダッシュが見れた」
とハルが笑った。
「なんで私、走って逃げたんだろう?わかんない」
「本人がわからない事は、誰にもわからないね」
「そうだね。なんかその場にいちゃいけない場面に、遭遇した感じだった」
「そりゃ、逃げて正解」
ハルがまた、笑った。
「眠い」
私が言うと、ハルが、
「今日のゆりは、眠り姫だな」
と言った。
食器を片付け、パジャマに着替えて、歯を磨くと11時だった。
「明日は仕事、何時から?」
ハルに聞かれたので、
「11時から」
と言った。
「朝、一緒にシャワー浴びれるね」
ハルの得意のズルい顔で言った。
「うん。もう寝よう」
私は、薬を炭酸水で飲み込むと、ベッドに潜った。ハルも潜って私を包むように抱きしめると、
「おやすみ」
と言った。私も、
「おやすみ」
と言うと目を閉じた。
翌朝、私のスマホのアラームが、6時に鳴って目覚めた。
ハルは、相変わらず目を覚まさない。
私は、ハルを起こさないようにベッドから出ると、ベッドの横に座った。ハルが寝返りをうった。
「ゆり、おはよう」
ハルが目を覚ました。
「ごめん、起こした?」
「いや、今目覚めた」
「まだ、6時だよ」
「早いね」
「ハル、眠そう」
「うん、7時に起きる」
「わかった、7時に起こす」
そのままハルは、また眠ってしまった。
私は、ぼーっと、昨日の彼の事を思い出していた。ハルのお店の担当だったなんて、知らなかった。一緒にいた時は、出張があっても、道内はなかった。旭川だったら、日帰り出来るからかな?と思っていた。私は、本当に彼のことを何も知らなかったのかもしれない。
今更、こんな事を考えても仕方ない、そう思いながら、彼の幸せを願った。
7時になったので、ハルを起こし一緒にシャワーを浴びた。
ハルは、私の髪を洗うのが好きだ。私は、お湯の入っていないバスタブに座り、ハルにされるがままで、髪を洗われる。そしてハルは必ず、
「痒いところはありませんか?」
と聞くので、
「ないでーす」
と私は、言う。シャワーが終わると、お互いの髪を乾かしあう。いつもの光景だ。
朝食は、ハルがフレンチトーストを作ってくれた。横で私は、サラダ用にレタスをちぎる。
なんて事ない朝だけれど、昨日よりも私たちは、親密になったような気がする。私は、何か『呪縛』のような物から、解放されたんだと思った。
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