第10話

 オリバーが警戒を緩めたのと時を同じくして、ふいに庭の暗さが増した。

 見上げれば、辺りを照らしていた月は、風に乗って流れて来た薄雲に隠されている。


「それじゃあ聞くけど、何で最近俺のお出迎えしてくれないのかな? すごく寂しいんだよね、ここに来て君に会えないのは。来客のお出迎えも君の大事な仕事のひとつじゃないの? 毎回不在、って訳じゃあないと思うけど」

「それは……」


 ルークレイルの言葉に、オリバーは未だ立ったままの傍らの男を見上げた。

 月明かりは雲で遮られ、加えて微かな明かりさえ逆光となって、ルークレイルの表情は読みとれない。

 だが。


「避けるってことは、滅茶苦茶意識してる証拠だって……君、気づいてないの?」


 薄雲から逃れ、再び明るさを取り戻した月の光に露わにされた男の顔は、いつの間にかジャックの顔になっていた。

 身構える隙さえ与えずに、ジャックはオリバーのすぐ前に立つと、片手でオリバーの顎を掬い上げる。

 途端、オリバーの脳裏に蘇ったのは、王立学院でオリバーの額に口づけをした、あのルーク少年の姿。胸がドキリと大きく鳴った。


「ねぇ。やっぱり君、本気で俺に惚れたんじゃないの?」

「笑えない冗談だな」


 昼間には見せたことのない、冷たく冴えた飴色の瞳をひと睨みし、オリバーはジャックの手を振り払った。

 だが、ジャックはそのままオリバーの隣に腰をおろし、人差し指をオリバーの目の前に突き出す。


「冗談かどうかは、君のここに聞いてみないと、ね?」


 ツッと、その指が当てられたのは、オリバーの心臓の真上。


「なっ……」


 振り払おうと思えば、振り払う事は可能だった。

 執務外の時間でさえ、オリバーは万が一の時のためにと、常に短剣だけは身に付けている。

 けれども体が全く動かなかった。まるで、ルークレイルの瞳に縛りつけられてしまったかのように。


「なぁんて、ね」


 顔を強ばらせるオリバーの前で、ジャックはニッと白い歯を見せて笑った。

 それは、シリウス邸で見せているピルスナー社の副社長としてのルークレイルの笑顔。

 その笑顔に、知らず、オリバーは警戒を解いてしまっていた。

 瞬間。

 唇に触れる、熱。

 オリバーの胸元に置かれていたジャックの手は、いつの間にかはだけられたシャツの胸元から中へと忍び込み、肌を弄ぶようになで上げる。堪らずにオリバーはジャックの体を突き飛ばした。


「くっ……さすがは辺境伯の護衛だね。そう簡単にはいかないか」

「いい度胸だな、ルークレイル・ピルスナー」

「お褒めに与り光栄です、オリバー様」


 おどけたように胸元に手を当て軽くお辞儀をしながら、ジャックはニヤリと笑う。


 その目に。

 オリバーは釘付けになった。

 笑っているのは、口元だけ。

 瞳には、何の感情も宿ってはいない。


「でも、その名前で呼ばれるのは、あんまり好きじゃないんだ。ルークって、呼んでくれないかな? シリウス伯にも他のお客様からも、そう呼んでもらってるし」

「そんなことはどうでもいい! 貴様何を考えて」

「オリバー」


 オリバーの言葉を制したのは、男の全身から発された圧倒的な威圧感。

 思わず言葉を止め息を飲むオリバーに、ジャックことルークは、目を細めて言った。


「俺が何にも気づいてないとでも思ってた? 君がいつも、俺のどこを見ていたのか」


 オリバーの視線を引きつけるかのように、ルークの舌がゆっくりと唇を舐める。

 ゾクリとした感触が脇腹を走るのを辛うじて抑え、オリバーは殊更興味無さそうに顔を背ける。


「俺は別にお前の事なんか」

「しかし、あの時の可愛い少年がこんなにイイ男になってた上に、本当に再会できるなんて、ね。これって運命かな」

「えっ……」

「俺はすぐに分かったよ。君がクラブで絡まれてたあの時に」

「えっ」

「君じゃなかったら、わざわざ助けてなんてあげないよ。俺もそんなに暇な訳じゃないからね。そもそも、盛り場で起きた事は基本的には自己の責任で解決する必要がある。王立学院ソラリスでそう教えられたでしょ? まぁ、そういう意味では確かに、君は『運』はいいみたいだね。昔も、今も」


 揶揄うような笑みを浮かべながらも、飴色の瞳にはやはり何の感情も宿っていないように、オリバーには感じた。


「ねぇ、気づいてた? 俺の唇見ながら、君がいつも指で自分の唇触ってたこと」

「まさか」

「自覚無し、か。素直に認めたらいいのに。忘れられないんじゃないの? 俺のキスが」

「馬鹿も休み休み言え」


 とたん。

 クスッと響く、小さな笑い。


「嘘をつくなら、もっと上手につかないと」

「なんっ……」

「本音がダダ洩れだよ」

「なにを」

「その真っ直ぐさは、嫌いじゃないんだけどねぇ」


 見上げたオリバーを見下ろしていたのは、感情の無い冷めた飴色の瞳。

 口だけで笑い、ルークは言った。


「そんなに簡単には騙せないよ、俺は」

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