第六章 空虚な瞳

第15話

 話があるから執務後に部屋に来るようにとシリウス伯に言われたのは、ジャックことルークが転移の紋章を使って勝手にオリバー邸の庭を訪れた日から数日後の事。


「シリウス様、お話というのは」


 尋ねるオリバーに座るように促し、自分も向かいのソファに腰を下ろして、シリウス伯は言った。


「実はな。お前も知っているだろう、ソシアナ辺境地のシン・シドラ殿。そのシン殿から昨日、正式に縁談の申し込みが来たのだ」

「左様でございますか。では早速マリアンナ様にお伝えしなければなりませ」

「そうではない。お前の縁談だ」

「……は?」


 オリバーの口から呆けた声が漏れ出る。

 そう言えばと、オリバーは今更ながらに気づいた。

 隣国ソルイマール王国のソシアナ辺境地を治めているシン・シドラ閣下には、娘がいるとは聞いているが、息子がいるとは聞いたことがなかった。

 と、言う事は。


「はぁっ⁉」

「先日の酒宴の際にシン殿が言っていただろう。お前を『我が娘の婿殿に迎えたいくらい』だと」


 聞くところによると、シン閣下の娘は美しく、そして武芸も嗜んでいて心も体もしなやかで強い人だと言う。

 おまけに、ソシアナ辺境地を治めるシン・シドラ閣下と言えば、ソルイマール王国ではもとより、ここアズール王国でも名の知れた人物だ。

 決して悪い条件の縁談ではない。むしろ、この上ない条件の縁談と言える。

 以前のオリバーであれば、両国のさらなる強固な関係の橋渡しとなるならと、多少迷うことはあれども最終的には縁談を受け入れた事だろう。

 けれども、今のオリバーはその縁談を受ける気にはなれなかった。

 何故だかどうしても、ジャックことルークの事が頭を過ぎってしまうのだ。


「まぁ、今や我がアズール王国とソルイマール王国は良好な関係を築いておるから、断る事ももちろん可能ではあるぞ」

「少し、お時間を頂戴できますか」

「もちろんだ。マリアンナの事もあるしな」

「……は?」

「いや、これはこちらの話だ。うむ。お前の人生において非常に大事な事だからな。よく考えるといい」


 シリウス邸を後にしたオリバーは、自分の邸へは入らず、そのまま庭に回ってベンチに腰を下ろした。


 結婚。

 いつか自分も必ずするものだと思っていた。

 それは自分好みの美しく強い女性とで、子供も何人か授かる予定だった。

 できれば、男の子も、女の子も。

 そんな未来をいつの間にか思い描いていたし、そうあるべきとも思っていた。

 そして男の子には、スタウト家が代々そうしてきたように、自分の後を継いでラオホ家に仕えて欲しいと。


 シリウス伯が、自分をマリアンナの婿にと考えている節がある事には、薄々気づいていた。マリアンナも満更ではなさそうにオリバーは感じていた。

 だが、兄弟のいないオリバーにとってそれは、スタウト家の断絶を意味する。

 だからオリバーは気づいていないフリをしてきた。

 それが、今回の降って湧いて来た、隣国辺境地の統治者の娘との縁談だ。

 主人の娘への婿入りを断るというレベルを遥かに超えている。

 アズール王国とソルイマール王国は、今でこそ友好関係を保っているが、オリバーの生まれる前には国境沿いでの紛争が多発していたと、オリバーは王立学院ソラリスで学んできた。

 もしオリバーがこの縁談を断ったことによって両国の関係にヒビでも入るようになることがあれば……自分は主であるシリウス伯に多大な迷惑をかけることになってしまう。それどころか、このアズールの国にも大きな迷惑を掛けることにもなりかねない。


 というのは全て建前だと、オリバーはとっくに気づいていた。

 オリバーの中には既に、別の人間が住みついてしまっている。

 不本意ではあるが、オリバー自身がそう認めざるを得なかった。

 そしてその人間がいる限り、その人以外と関係を結ぶことは、オリバーにはどうしてもできそうになかった。


「一体どうすれば……」


 抱えた頭の中に思い浮かんだのは、ジャックことルークの姿。


「お前なら、どうするんだろうな」

「断るに決まってるでしょ、そんな縁談」

「なっ!」


 音も無く庭に姿を現したのは、光沢のある紫のブラウスを身に付けたジャックことルーク。


「だからっ! 不法侵入だと」

「だから俺に不法侵入罪は適用されないんだって」

「ていうか、何でお前が知って」

「ピルスナー社の情報網、舐めてもらっちゃ困るな」


 ニヤリと笑いオリバーの隣に腰を下ろすと、ルークは言った。


「ほんと真面目な、君。そんなに悩むなら、『運』で決めてみる、ってのはどう?」

「は?」

「君の『運』次第では、俺が協力してあげる」

「協力?」

「ま、俺としてはこのまま君が悩んだ末に結論を出すっていう結末でもいいんだけどね。でも、おそらくどの結論を出したって君はこの先一生悩み続けると思うんだ。君、真面目だからさ。真面目過ぎるくらい。だけど、君の『運』次第では俺の協力を得て一気に解決間違いなし。余計な悩みも不要になる。どうするかは、君に決めさせてあげるよ。さぁ、どうする?」


(あの時と同じだ)


 オリバーは思い出していた。

 あの、王立学院ソラリスでのボードゲームの勝敗を決定する時の、ルークの事を。

 なんとなくではあったが、オリバーは感じていた。

 あの時オリバーがコインのどちらを選んでいても、オリバーはおそらく勝っていたのだ。

 ルークはきっと、そういう人間なのだと。だったら、今はルークに掛けてみるのが最善の策なのかもしれない。


「乗った」

「相変わらずいい返事だね」


 嬉しそうに笑うと、ルークはポケットからコインを一枚取り出し、高々と上に投げ上げて両手の平の中に収める。


「ジャックとエース、どっち? いいよ、選んで」

「エース」


 ルークがゆっくりと開いた手の平の中のコインは――


「やっぱり君は、『運』がいい」


 静かに立ち上がり、ルークは転移の紋章が刻まれている花壇へと向かう。


「待て! 俺は何をすれば」

「『果報は寝て待て』って、どこかの国のイイ言葉、王立学院ソラリスで習わなかった?」


 振り向きざま、ルークはニヤリと笑う。


「は?」

「ま、時間はかかるかもしれないけど、君は心配しないで待っててくれればいいよ」

「だが」

「成功報酬は、それなりに頂くけどね」


 軽くウィンクを飛ばすと、ルークは転移の紋章に触れ、姿を消した。


「はぁっ⁉ 成功報酬ってなんだよっ! 聞いてないぞそんな事っ!」


 思わず大声を上げ、ハッと我に返ってオリバーは口元を手で覆う。幸いなことに、シリウス邸の中までは声は届かなかったらしい。


「俺は選択を誤ったのではないだろうか……」


 軽い眩暈を覚えて額に手を当てながら、オリバーはベンチから立ち上がる。


「何だ、成功報酬って。そんな大金、俺は持ってないぞ……」


 新たな悩みを抱えたまま、オリバーはその後を過ごすハメになった。


(何が『果報は寝て待て』だ! こんな状況で暢気に寝てなどいられるかっ!)

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