ちょろセレーネに餌付け

 セレーネが身に着けた衣服は真っ白なレース生地の非常に肌触りが良いネグリジェで、所々に取り付けられたモコモコのフリルが愛らしいドレスのような逸品だ。

 これまでに触れたことすらない上等な衣服を身に着けたセレーネは、これから食事をすることも相まって酷く緊張していた。

『部屋着なんて、この世で最も汚れて良い布を使うべきじゃない? なんだって奴隷風情にこんな……しかも、このまま食事。汚したらどうしよう』

 カチコチと鳴る心臓に合わせて手足の動きも非常にぎくしゃくとする。

 青ざめたままリビングへ戻ってくると、エプロンを身につけたままケイがセレーネの姿にパァッと目を輝かせた。

「わぁ! セレーネさん、綺麗! 服もピッタリだね! 良かった」

 ニコニコと純粋に笑うケイの姿に少しだけセレーネの緊張が緩む。

「ご主人様、女性もののお洋服をお持ちだったんですね」

 とっさに用意するにしては随分としっかりとした品であるため、てっきり適当なシャツと半ズボン辺りが準備されていると思っていたセレーネはネグリジェを見た時、目をまん丸くしていた。

 セレーネの質問にケイが恥ずかしそうな照れ笑いを浮かべてコクリと頷く。

「俺、いつでもお嫁さんが来たとき用にって女の子の洋服、買っておいてたから。あの、セレーネさんのお洋服は、一番大きいやつ。その、俺の理想の大きさ」

 風呂にあったあからさまに可愛らしいボトルのシャンプーやリンス、トリートメント、綺麗な見た目のバスボムなんかも基本的には、いつか来るだろうお嫁さん向けである。

 奴隷を妻にするのはよろしくない考えかもしれないなどと言いつつ、やはり基本は購入と決めていたらしい。

 ニコニコと柔らかな笑顔の後ろに凄まじい闇が垣間見えた。

 なお、基本的に紳士的なケイだが胸に関しては例外のようで、今もセレーネの薄く柔い布に包まれた巨大な胸をガン見している。

「ご主人様、もう購入したのですから触れてもよろしいのですよ?」

 そういう目的で買われたことを理解しており、何なら勧誘をしたセレーネだ。

 主人にガン見されるのは構わないのだが、自宅の中というプライベートな場所にやって来ても未だに触れることなく見るだけでいるのはどうなんだ? と、セレーネは控えめなのかスケベなのか分からないケイに呆れ、苦笑いを浮かべた。

 指摘されたケイは、

「え!? あ、そ、そうだけど、でも、今は見るだけで十分というか」

 と、ゴニョゴニョと話して真っ赤になり、俯く。

 ここまでくると、いっそ触ってくれた方が心理的にスッキリして良いまである。

『何だかわからないけど、気持ちが悪いわね』

 ケイの態度にイラっとしたセレーネが大人しく席に着いた。

『凄いご馳走……奴隷風情に席が用意されていることへのツッコミはひとまずおいておくとして、ここ、本当に私の席で合っているのよね?』

 セレーネの席に置いてあるのは鉄板に乗った大振りのステーキとコンソメスープ、生野菜のサラダ、そして、ぶどうジュースだ。

 コンソメスープとジュースは流石に飲んだことがあるが、ステーキに至っては香り以外を楽しんだことがない。

 おまけに、そんな憧れのステーキ肉は小鳥さんと同量しか食べられないだろう二十代の女の子に与えられるには随分と巨大で、まるで崖のように堂々と鉄板の上にそびえたっている。

 付け合わせにとくっついているポテトも三日月のように輝いていて素晴らしい。

 セレーネの憧れがテーブルの上で具現化されている。

 まさかのご馳走に恐れおののいていると、ケイが申し訳なさそうに眉を下げて、

「ごめんね、俺、女の子がどのくらい食べるのか分からなかったから、少ないよりはいいかと思って同じ量にしちゃった。多かった?」

 と、問いかけてきた。

 多いなら減らそうか? と言わんばかりの態度に慌ててセレーネが首を横に振る。

「大丈夫です、ご主人様。奴隷は与えられた量を食べます! 食べきります! むしろ食べさせてください!!」

 セレーネの特技は早食いと大食いである。

 確かに女の子に与えられるにしては多いが、セレーネならば腹八分目で食べられるし、デザートは別腹というよりも肉は別腹という勢いでお代わりだって頂ける。

 セレーネが必死になって肉を死守すると、あまりの勢いに面食らったケイが一拍遅れでクスクスと笑った。

「それならよかったよ。俺、ステーキならたまに自分で焼いて食べるからさ、けっこう自信あるんだ。たくさん食べてくれたら嬉しいな」

 たんとお食べと微笑むケイが天使のように思えてならない。

 セレーネはキラキラと瞳を輝かせてコクコクと頷くと、「いただきます」と手を合わせ、さっそくナイフとフォークを手に取った。

 セレーネは右利きであるためナイフを右手に、フォークを左手に持って食べ進めるのが基本となる。

 庶民のステーキ初心者はこれをあべこべにしてしまいがちなのだが、セレーネはDNAが肉の食べ方を知っているとばかりに正しくナイフとフォークを持って切り分けると、丁寧に口に運んで咀嚼した。

 表面のこんがりとした肉は中にタップリと肉汁を保有していて柔らかく、噛めば噛むほどに旨味が口内で広がる。

 永遠に咀嚼していたい。

 だが、柔らかくナイフでスルリと切れてしまう赤身肉が口内に残ることを許してくれない。

 すぐにホロホロと解け、自動で喉の奥へ流れて行ってしまった。

 味わっていたければ、次々と肉を投入するしかない。

 セレーネはサラダやスープなど他の食事を無視して一直線にステーキと向かい合い、無我夢中で食べ進めた。

『ステーキだけだとちょっと物足りないと思ったけど、スープを飲むとお腹が落ち着くし満足するわね。ジュースは今飲みたいけどサラダの後にしましょ』

 旨味が強くてどこか自然な甘さを感じるコンソメスープを飲み干し、シャキシャキレタスにニンニクの効いたドレッシングが美味しいサラダもシッカリと食べる。

 デザート代わりに味の濃いジュースを飲み干すと、満足感で小さく息を吐いて椅子にもたれた。

 生物が一番油断しているのは食事中だろうが、満腹になった食後だってかなり気を抜いている。

「美味しかった? セレーネさん」

 のんびりとステーキを食べ進めているケイが自分よりも二足ほど先に食べ終わったセレーネを見て嬉しそうに目を細めた。

 これに対し、話しかけられてハッとしたセレーネが慌てて姿勢を正し、コクコクと頷く。

「無言で食べ進めてしまって、すみません、ご主人様。あんまりにも美味しかったので。その、今まで食べた食事の中で一番おいしかったです! 妹が初めて作ってくれたお粥くらい! 凄く!!」

 セレーネが無茶をし過ぎて体を壊した時、まだ八つだった妹が野原からかき集めてきた滋養強壮のあるらしい薬草を大量に投入し、水で茹でただけのお粥。

 穀物類が一切入っておらず、まともに味付けをされていなかったソレは確かにセレーネの命をこの世に繋ぎ止めた雑草スープだったが、実は味覚が鈍りきっている時でさえ舌を攻撃する強烈な一品だった。

 しかし、それでもセレーネにとっては大切で、おいしくて堪らなかった妹のお粥だ。

 そんなものを引き合いに出すなと叱られるかもしれないが、セレーネにとっては初めて身内以外から作ってもらえた非常に美味しいステーキなどの食事も、妹が必死で用意したお粥も甲乙つけがたく、どちらかだけを世界一と評することはできなかった。

 鼻息の荒いセレーネにケイがにこりと笑う。

「嬉しいな。作って良かったよ。ところでセレーネさん、どうして俺から目をそらしているの?」

 キョトンとケイが首を傾げる通り、彼の質問に答えたセレーネは目線を逸らしてあまり彼の姿を目にしないように気を付けていた。

 図星を刺されたセレーネがギクリと肩を跳ね上げる。

 ご主人様の姿が麗しすぎて直視できません!! といった殊勝で愛らしい理由ならばよいのだが、あいにくセレーネの事情はそんなに可愛らしくない。

「あの、ご主人様、育ちが悪い人間というものは基本的に意地汚いし食い意地なんかも張りまくりなのです。ですから、その、さんざん与えられておきながらご主人様のステーキ肉を物欲しそうな眼で眺めてしまいそうで、自重しておりました」

 これまでの人生で何度も飢餓に陥っているセレーネの脳は、食べられそうなものが近くにあると食っておけ! と胃に命令するようになっている。

 ステーキ肉など目にしたらイヤらしい目つきになることは、まず間違いがない。

 流石に恥ずかしいのか、セレーネが真っ赤な顔でモソモソと事情を語った。

 すると、職に貪欲な人間に初めて接したケイが目を丸くし、それから、しばし思案のそぶりを見せる。

「おいで、セレーネさん」

 顔を上げると、ケイはセレーネに優しく手招きをしていた。

「はい、ご主人様」

 なんだろうと首を傾げながら近くまで寄っていくと、ケイが近くにあった丸い椅子を指差した。

「そこに座ってね。それで、はい、あ~ん」

 一口サイズに切り分けたステーキをフォークにさしてケイがセレーネに差し出す。

 ケイの行動に驚き、本当に食べても良いの!? と、一瞬躊躇しかけたセレーネだが、ここでやっぱりあげないと気を変えられては困ってしまう。

 セレーネは、

「ありがとうございます、ご主人様!」

 と短く礼を言うと素早くステーキを頬張り、咀嚼した。

 流石、良いお肉。

 冷めていても十分に美味しい。

 いや、冷めたからこそローストビーフのようで美味しい。

 キラキラと目を輝かせるセレーネにケイは次々にお肉を差し出した。

 与えている彼の方も笑顔でご機嫌である。

 まあ、その理由が、

「えへへ、セレーネさんと間接ちゅう! 俺の食器でお肉を食べててかわいいな」

 であるのが、大変に気色が悪いが。

 ケイとの間に身分差がなく、元気いっぱいで血の気を余らせているセレーネだったならば、問答無用でビンタをする気色の悪さである。

 だが、セレーネのような人間にとって、人としての尊厳よりも重要になるのが食事であり大きなお肉だ。

 セレーネは器用にケイの言葉を無視すると、夢中で残りを食べ終えた。

 ちなみに、サラダやスープ類も美味しそうではあるが、流石にお腹がいっぱいであるし、満腹である現在は肉以外の物に執着しない。

 食事を終えたセレーネは椅子に座ったまま、テーブルに残った食事を食べ進めるケイを眺めた。

『なんか、ここまで至れり尽くせりだと本当に悪い気がしてくるわね。何かしてあげたいけど……』

 ふとよぎるのは間接キスごときでテンションを上げていたケイの姿だ。

 だが、ご褒美よ! 受け取りなさい! とばかりにキスをするのは恥ずかしい。

 迷いに迷うセレーネの心の内では葛藤と葛藤が大規模な抗争を繰り広げている。

 そして、ようやくのんびり屋さんなケイが食事を終える頃に決心がつくと、不意打ちで彼の頬にキスをした。

 少し脂でぎとっとした唇が柔らかくケイの頬に触れ、すぐに離れる。

 だが、数秒は頬にくっついていた唇がキチンと余韻を残したようで、ケイが明確にキスを認識する。

 声すら掛けられていない突然のキスにケイの目が丸くなり、すぐに頬が赤く色づいた。

 パキリと固まったケイは言葉を出せぬままパクパクと唇を開封させ、セレーネを見つめ続けることしかできない。

 しかし、激しく動揺しながらも無意識のようにキスによって頬に付着した油分を指で拭って舐めるケイは流石の変態である。 

「あ、その、えっと、ありがとうございます、のキス、みたいなものです……」

 ケイの視線に耐えられなくなったセレーネが耳や肩まで真っ赤にして、ポツポツと言葉を漏らす。

 すると、ようやく合点がいったようで表情に納得が広がった。

「なるほど! お礼のちゅーか! ありがとうね、セレーネさん。そうだ、俺、冷蔵庫からケーキも持ってきてあげる!」

 パァッと目を輝かせたケイが機嫌よく冷蔵庫へ走って行く。

 初めから二人分用意できた食事と違ってケーキは一人前しかないが、余裕のある富豪であり食に頓着しないケイは全てを譲ってくれるらしい。

 キス一つで肉とケーキをくれるケイを「チョロいな……」と思ったセレーネだが、実際にチョロいのは食べ物に簡単につられて食事を与える人間を神と崇める彼女の方だろう。

 頬へのキスで真っ赤になってケイの顔を見られなくなってしまうほど初心なセレーネは、今後も多めにご飯を強請るためにキスをするか迷いながらケーキを食べた。

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