新たな住処

 セレーネを購入した青年、ケイの自宅は一軒家だ。

 住宅街から少しだけ離れた場所にある一軒家はここ数年のうちに建てられたのか、かなり新しいデザインをしている。

 外壁や扉も元の色を保っており、砂埃にまみれていたりツタが絡まっていたりと古びた印象は全くない。

「本当に今日は買うつもりがなかったから、散らかってるんだ。ごめんね」

 ケイが申し訳なさそうに声をかけて玄関のドアを開ける。

 薄暗い廊下を抜けて辿り着いたのは広いリビングだった。

 ケイの言う通り室内は少し散らかっていて椅子の背もたれには白いシャツらしき衣服が掛けられており、テーブルの上では書類が雪崩を起こしていた。

 近所で購入したと思わしき総菜のゴミや汚れた食器も散見される。

 良く言えば生活感のある部屋といったところだろうか。

 しかし、経年劣化の少ない真っ白な壁に汚れの染みついていない綺麗なフローリングはセレーネのボロアパートよりもずっと綺麗で清潔だ。

「大丈夫ですよ。とても綺麗なお家で、こんなところに住めるなんて夢みたいです」

 セレーネが微笑み返すと男性は照れたのか「えへへ」とはにかみ笑いを浮かべた。

『締まりのない顔ね』

 のんびりと穏やかな男性の姿に何故か無性にイライラする。

 それと同時に、ずっとまともな質と量の食事を与えられていなかったセレーネの腹がクゥ……と切なそうに鳴いた。

 恥ずかしさもあったが、それよりも奴隷が腹を鳴らすなんて卑しいと怒鳴られ、殴られてしまうのが恐ろしい。

 セレーネは咄嗟に身を縮めて頭をかばった。

 しかし、男性は何でもない様子で、

「あ! そうだよね、お腹空いてるよね。今、ご飯を用意するから少し待っててね。ねえ、セレーネさん、何か食べたいものはある?」

 と、朗らかに問いかけてきた。

 奴隷になって以降のセレーネが商人から与えられて食べていたのは、カチカチに乾燥したパンとサラダという名の野菜くずだ。

 久しくたんぱく質をとっていない。

 食べたいものを問われたセレーネの脳裏に、かつて食べた薄切りステーキの串焼きがよぎった。

 あまり分厚い肉でも上等な肉でもなかったが炭火の香りを纏わせて甘辛いタレで全身をテリテリにさせていた串焼きは、セレーネ史上、最もおいしかった食べ物トップスリーに入る。

 最早、味などついていなくてもいいからカリッと焼き目のついた肉汁溢れるお肉が食べたい。

 ケイのごく自然な優しい態度につられたことも相まってセレーネはつい、

「お肉……」

 と口走った。

 しかし、セレーネはすぐに自分の身分を思い出すとブンブンと首を振る。

「間違えました。特に無いです。いただける物ならば、何でも食べます」

 セレーネはキリッと目つきを鋭くしてケイを見つめた。

 心の内では自分の態度にケイがどう出るのか怯えて、震えている。

 だが、ケイの方は甘変わらずのほほんとした態度でエプロンを身に着けると、

「隠さなくてもいいのに。俺もお肉食べたいと思ってたんだ。適当に作るから待っててね。そうだ! その間にお風呂にでも入っててよ。服は用意しとくからさ。あのさ、そんなに怯えなくていいから、自由にしてね」

 と、笑ってセレーネに風呂の場所を教えてくれた。

 石鹸類や入浴剤も自由に使って良いらしい。

 してはいけないことなど、精々浴槽内で眠って溺れることくらいだ。

 当たり前のように台所へ入っていくケイの姿にセレーネが思わず目を丸くした。

「作っていただけるんですか? それもお肉の料理を?」

 大量の奴隷を管理している炭坑や屋敷ならばともかく、個人で適当に買った奴隷の食事など、本来は作るようなものではない。

 主人の食べ残しや調理中に出る野菜の切れ端などが主であり、贅沢に骨の周りに肉を残したスペアリブを数本もらえれば、

「このご主人様はとっても優しいぞ!」

 と、目を輝かせるほどなのだ。

 何度か出戻っている奴隷から悲惨な暮らしと実情を聞き、奴隷商人からは家畜のような扱いを受けていたセレーネは久しぶりの人間扱いとケイの感性に驚いて固まってしまった。

 対して、セレーネ以外に奴隷など買ったことがなく、また、購入の目的が、

「お嫁さんを手に入れること」

 であるケイは彼女が何に驚いているのか全く分からない。

 ケイの方こそ、不思議そうに首を傾げた。

「だって、セレーネさん疲れてるだろうし、いきなりご飯を作ってってお願いしても難しいでしょ? 俺、奥さんの手料理に憧れがあるし、他にも家事とかしてもらいたいと思っているけど、流石に今日からやってもらおうとは思ってないよ。明日から少しずつ覚えてほしい。ちなみにセレーネさんって家事は得意?」

 本来ならば奴隷を買うに当たって最初に聞いておくべき質問が、まさかの購入後、世間話のついでで出された。

 セレーネの表情が渋くなる。

「得意であるかは分かりませんが、昔は妹と二人で、少し前までは一人で暮らしていたので、家事は一通りできますし料理も作れます。ですが、お金持ちの方が美味しいと感じる料理を作れるかどうかは、かなり微妙なところです」

 セレーネの得意な事は、節約という名のまともな暮らしを封じた耐久生活と貧乏飯の作成だ。

 普通に調理してはまずい食材や素っ気ない食材を工夫して、まあ、悪くはないかな、という程度の味付けに仕立て上げ、かさ増しして満足感のある料理を作るのが割と得意だった。

 そんな彼女には美味しくない部位を簡単に切り捨てて贅沢に調理をし、質の良い食事を作るという発想がない。

 柔軟で適応力があるセレーネなので慣れれば普通に料理できるようになるだろうが、正直、今のところはあまり自信が無かった。

 後から失敗作を渡したり高級な衣服を色落ちさせたりして怒られても仕方がないので、叱られることを覚悟で初めの内から素直にできないことを告白しておく。

 しかし、セレーネの告白を聞くケイの態度はやっぱり穏やかで優しい。

「そんなこと気にしなくていいよ。作ってもらえるのって、ありがたいからさ。他の家事についてもそうだよ。やってもらえるだけありがたいからさ、何か分からないことがあったらその都度聞いてくれていいし、多少、失敗したって平気だよ」

 極めつけにケイはニコニコと柔らかな笑みを浮かべた。

『優しい。優しいけど、優しすぎていっそのこと変わった人だな。騙されたり、いいようにコキ使われたりしそうな人で心配だ』

 セレーネはケイの態度や言動に驚くのを通り越して呆れてしまう。

 何だかなぁ、と首を傾げながら浴室へ向かった。

 ところでセレーネがかつて住んでいたボロアパートには風呂が付いておらず、彼女は基本的に大衆浴場を利用していた。

 そのため個人宅に備えられている風呂は未知の存在である。

 セレーネはドキドキと鳴る胸を押さえてすりガラスのドアを開けると、室内に広がる真っ白な石の壁とタイルの床、ツルンとした陶器の浴槽を見ると目を輝かせた。

 一人きりの風呂を堪能すべく、いそいそと中に入って椅子に座る。

 それからいくつか並んだシャンプー類のボトルに目を輝かせ、一つずつ手に出してモフモフと泡立てて香りを楽しんでみた。

『フローラルだ! よく分からないけど、高級な香りがする!! いけ好かない上流階級の女性とすれ違った時と全く同じ匂いがする!! 私もこの石鹸を使えば高級になれちゃうかな!?』

 ムフフと含み笑いを浮かべて早速、髪を洗う。

 ところで、安い石鹸を預けられ、水浴び程度で体中の汚れを洗わされていたセレーネには細かい汚れが付着しており、髪も奥の方がベタベタしていて痛んでいる。

 一度目ではうまく泡が立たず、二度目、三度目でようやくシャンプーがモコモコに泡立つようになった。

 そんな彼女は初め、だいぶ中身を減らしてしまったシャンプーボトルに申し訳なさと恐怖を感じていたのだが、途中から、

「性奴隷なんだから十中八九、そういうご奉仕をするでしょうし、ご主人様だって私が清潔な方が嬉しいでしょ」

 と開き直って、たっぷりのトリートメントで髪を潤し、複数種類のボディソープを楽しみ始めた。

 これまでの暮らしから危機管理能力を高めているセレーネだが、同時にタイミングをみて気を緩めなければ精神と肉体に異常をきたすことも理解している彼女は、案外ふてぶてしい性格をしている。

 自身を清潔にすることの正当性と理屈を備え、かつ、ケイがまともに話を聞くらしいことを理解した彼女は、少なくとも風呂はシッカリと堪能させてもらうことにしたのだ。

『セレーネさんはピンクが好き~』

 脱衣所から持って来ていた桃色のバラの形をした入浴剤をたっぷりのお湯で溶かし、浮かれて浴槽に入り込む。

 じんわりと温かな湯に体中の緊張を解されて、思わずため息を吐いてしまった。

 自然と入る香りは入浴剤の放つシャボンの香りであり、家からも外からもリラックスをさせられて堪らない。

 セレーネ博多までお湯につかると桃色のお湯を掬いあげ、宝石でも眺めるかのようなキラキラとした瞳で湯船に落ちていく流水を眺めた。

『ふふ、ここのお風呂は今、私の為だけにある。なんて贅沢なんだろう。知らない叔母さんに足を踏まれないし、良い匂いがするし、水鉄砲もできちゃうもんね!』

 妹に見せると大喜びではしゃいでくれたな、と過去を懐かしみながらピュッと指の間からお湯の塊を発射し、壁にぶつける。

 何も気にせずゆっくり湯に浸かれるのも、全身用の石鹸以外で体を洗うのも、入浴剤を利用するのも、全てが初めてである。

 その後も無駄に水面をパシャパシャさせたり、湯の中で両足をばたつかせたりして子供のようにはしゃいだ。

『もしかして、これからは毎日お風呂に入れるのかな? そうだといいな。それに、外には私用にって服が用意されてて、ご飯も作ってもらえているのか。なんか、至れり尽くせりだな。絵本のお姫様にでもなったみたい』

 ひとしきり遊んで満足したセレーネが湯船にシッカリ浸かり、ゆっくりと瞳を閉じる。

 セレーネの両親が蒸発した理由は借金だ。

 幼いセレーネに細かい事情はよく分からなかったが、どうやら彼らは遊び歩いてちゃらんぽらんな生活を続けた挙句に借金を膨らませて首が回らなくなり、子どもを家に残して夜逃げしたらしい。

 セレーネと妹が両親の逃亡先を知らないと知ってからは来なくなったが、両親が蒸発したての頃はよく借金取りが自宅に来ていて、二人を酷く脅したものだった。

 また、ろくでなしなセレーネの両親はネグレクトぎみでしょっちゅう家を空けており、彼女は幼少期、自分一人しかいない家の中でポツンと寂しく時を過ごしていた。

 妹が生まれるまではポツンとした絵本とぬいぐるみだけが友達だったのだ。

 それでも両親に頭を撫でられた記憶はあるため、生まれて一度も、誰からも全く愛されたことが無い! とまでは言えないが、かといって愛情たっぷりに育てられたわけでもない。

 むしろ家庭環境は最悪で、それでも庇護対象である妹を守りながら必死に生きてきた。

 そのため、誰かにスッと優しく手を差し伸べてもらえたのは、記憶にある限りでは今回が初めてだった。

 セレーネは、例えケイが自分の購入物に対する義務としてお風呂や食事、着替えを用意してくれているのだとしても嬉しくて堪らなくなり、ニマニマとした笑みを浮かべた。

 フンフンと鼻歌だって歌う。

『なんか、買ってもらえてよかったかも。少なくとも、今のところは』

 セレーネは自分のチョロさを自覚しながらも上機嫌で風呂を出ると、それから用意してあった衣服に袖を通した。

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