行ってきます

 心と体は互いに影響を与え合っている。

 そのため、いくら元の体調が良くても精神が不安定になればつられて肉体も不調を起こし、頭が痛くなったり胃腸の動きが悪くなったりするものだが、反対に体がすこぶる元気だと沈んだ気持ちも勝手に浮かび上がってくるものだ。

 寝起きの胃を時のごとくケーキで甘やかし、ホコホコと湯気を立たせるお茶で落ち着かせたセレーネのテンションんはだいぶブチ上がっていて、後ろ向きだった気持ちを強制的に前に向かせていた。

 今ならば、昨夜のこともキチンと考えられそうだ。

『昨夜のことは今でも腹が立つ。人の話も聞かないで、一方的に決めつけてって、未だに沸々と怒りが湧いてくるわ。でも、それでも、まだご主人様のことが好きよ。どうしても、ご主人様に好きだって信じてもらいたい。ご主人様相手に娼婦の真似事なんかしたくないわ。真直ぐ愛情を受け取ってもらえなきゃ寂しいし、悔しいし、何より一緒にいても全然楽しくないんだもの! 私は幸せにイチャイチャしてたいの!! でも、ぜんぜん、全く、ご主人様に方法が分からないのよね』

 今まで通りの調子で引っ付いても、

「よ! セレーネさん、やる気だね!! 新作のネックレスでも欲しいのかな!?」

 と、煽られて終わりである。

 かといって、拒否をすれば昨日の二の舞だ。

 ケンカ別れをして別々に眠ることになる。

 セレーネは寂しがり屋なのだ。

 あんまりケイと離れて眠りたくない。

 本当はキチンと話合いをしたいと考えているが、昨日までの様子を考えると、どこまでも平行線で終わってしまうそうな気がする。

 セレーネは一度ケイのことを考えるのは保留にして、もう一つの問題に取り掛かることにした。

 それが、メレーネからの手紙問題である。

 なんと、今日も郵便受けを確認したら昼の配達物に紛れてメレーネの手紙が送られていたのだ。

 痛む胃を抑えて確認した中身は普段通りに援助金を求める内容だった。

『胃も頭も痛くなってくるわ。でも、そうね。まずはメレーネの支援問題から解決しましょうか。ちゃんと自分の問題を解決して、それからご主人様のことを考えましょう。事の発端はある意味、この手紙なんだから』

 もう一度手紙を開く。

 目線は文字を追うが、実際には手紙など読んでいない。

 ずっと、妹や自分自身のことを考えていた。

 両親に捨てられて二人ボッチになってしまい、外と未来に震えながら一緒に大きな毛布に潜り込んで眠った夜や、彼女のために窃盗を繰り返した日々を思い出す。

 当時、十代の少女だったセレーネよりもずっと幼いメレーネの手を握って、「命に代えても妹を守る」と誓ったことも思い出した。

 セレーネにとってメレーネは妹だったが、どこか娘のようでもあって、家事ができるようになったり、働けるようになったりと成長していく姿が眩しかった。

 恋人をつくって幸せそうに恋愛している姿がちょっぴり羨ましかったが綺麗で、彼女が結婚を機に家を出た時には少しの寂しさと大きな誇らしさを覚えた。

 今でも妹は大切な家族だ。

 心の大切なところで優しく微笑んでいる。

 だが、今のセレーネには心の大切なところの「家族」とはまた違った枠組みの中に、「愛しい人」としてケイがいた。

 そして、自分の人生でどちらをより優先するのか、決めなければならない時が来ていた。

『きっと私は、逃げていたんだと思う。メレーネのことを相談してご主人様に迷惑かけて、嫌われたり愛想を尽かされたりするのが怖かった。だから、黙ってた。でも、メレーネのことも、実妹を切り捨てるのが怖くて、奉公のお給金は少ないから助けるのは厳しいって、そういう言い方をして断っていた。何かどうしようもなさそうな理由をくっつけないと、断り切れなかったんだ。メレーネとご主人様の間で板挟みになって追い込まれてたのは本当だけど、でも、それでも一人で抱えてる方が精神的に楽だったから、そうしたんだ。どっちかを決めなきゃいけなかったのに決められなくて、逃げたんだ。臆病だったんだ。すごく』

 自分の奥底にある黒い感情や弱さ、狡さを見つけると、思わず蓋をして逃げてしまいたくなってしまう。

 心臓がギュッと痛くなって、自分は汚くない、狡くない、卑怯じゃないと否定してしまいたくなる。

 だが、そうやって考えることそのものを放棄し、弱さに蓋をしたままでケイのみを責めることこそが最も卑怯で愚かしい行為だろう。

 セレーネは爪が食い込みそうになるくらい両手のひらを握り込んだ。

『…………認めよう。私は弱い人間だ。そして、妹を、メレーネを面倒見てきたのは、私が優しくて強い人間だからじゃなくて、お姉ちゃんだったからだ』

 セレーネが妹のことを愛しているのは間違いないが、それでも彼女がメレーネの世話を焼く根本的な理由には姉としての強い義務感情があった。

 姉であり母親代わりに妹の面倒を見てきたから、セレーネは今でもメレーネを助けてやらなきゃいけないんだと思い込んでいる。

 そうしなければ人間として屑に成り下がるんだと信じ込んでいる。

 二人はたったの六歳差であり、妹は既に家庭を持つ成人女性で、セレーネ自身はやっと恋しい人を見つけた輝き盛りの二十三歳だというのに、いまだに妹の人生まで背負わなければいけないのだと思い込んでいた。

 これまでの人生に、思い込まされていた。

『今まではそれでも良かった。成長しても何だかんだ甘えん坊なかわいい妹に頼られて、私は『いいお姉ちゃん』としてふるまって、それで良かった。幸せだった。でも、私が妹の人生を背負ったままご主人様……ケイさんと、その、お、お付き合いしたり、結婚なんてできちゃったりしたら、ケイさんもそのまま私の妹の人生を背負わなきゃいけなくなる。私が妹を助けたいって言ったら、多分協力してくれるから。少なくとも今みたいに奉仕をしてお金をもらう関係は持続できるだろうから。だから、私が妹の負担を肩代わりすると決めたら、絶対にケイさんを巻き込まざるを得なくなるんだ。だからこそ、自分の人生を生きたい、ケイさんとの生活を選びたいって思うなら、どこかで線引きをしておくべきだったんだ』

 セレーネの基本方針は今も昔も変わらない。

 お互いに成人して社会の中で生きているのならば、基本的に自分のことは自分で行い、双方を頼りにしないことだ。

 セレーネは過剰にメレーネを助けないし、その逆も行わない。

 そう、最初に取り決めていた。

 メレーネにもキッパリと告げていた。

 だが、それでもふとした折りに頼られると「仕方がないな」とメレーネの我儘を聞いていた。

 「生活が苦しい」と強請られれば安い賃金の中から妹へ仕送りを送っていたし、妹の命のために多額の借金をして性奴隷にまで落ちるという、イカれた選択までしてしまっていた。

 異常だったのだ、何もかも。

 身内のために犠牲を強いられることを、一切、疑問視していなかったのだから。

『今なら分かる。私と妹は共依存の状態にあったんだ。妹は私から援助をもらうことで生活を成り立たせて、私は承認欲求を満たしていた。仲良しだけど、でも、歪んでたんだ』

 キュッと目を瞑ると、まだ喧嘩をする前の純粋で少し照れた笑みを浮かべたケイが、

「セレーネさん」

 と、嬉しそうに自分の名前を呼んでくれている気がする。

『本当に誰か一人を選ばなきゃいけないなら、私はケイさんの手を取りたい。もう、優しいお姉ちゃんにも、素敵な人間にもなれなくていいから。代わりに、自分で見つけた一人だけを大切にできる人間になりたい』

 脳の動きを鈍らせていたモヤが急激に晴れ、妙に爽やかな感覚がした。

 今まで心を曇らせていた「何か」の答えを見つけられたようで気分が良かった。

『メレーネに会いに行こう。会って、本当は奉公に出たわけじゃなくて性奴隷になったことやケイさんと出会ったこと、そしてケイさんとの人生を歩みたくなったこと、もう、今まで通りにメレーネに人生をあげることはできなくなってしまったこと。そういうことを全部ちゃんと話そう。薄情者と軽蔑され、罵られてしまっても構わないから、キチンと自分の思いを話そう』

 実際にメレーネと会い、病気に苦しめられる彼女を見てしまったら、結局セレーネは妹を見捨てられずに世話をすると決めてしまうかもしれない。

 その場合はケイに金をくれと頭を下げることになってしまうかもしれない。

 あるいはセレーネは自分が思う以上に心の無い薄情者になっていて、苦しむ妹を見ても何も思わずにケイとの生活をとってしまうかもしれない。

 どういう結果になるのかは、セレーネにだって分からない。

 だが、メレーネに対する思いや彼女との関係性に区切りをつけ、真っ向からもう一度ケイと話し合いをするために、セレーネは妹の家を訪ねることを決めた。

『結局、貴方から貰ったお金を使ってしまうことを、どうか許してください、ケイさん。これで最後にしますから。どうか、何か一つしてやらなければ自分を許してやれない、妹を手放せない、弱くて卑怯な心を許してください』

 セレーネはキュッとケイの革財布を握り締めた。

 中に入っている札束は一部を妹の家に向かうまでの交通費に使い、残りを彼女への餞別としてくれてしまうつもりだった。

 妹と縁を切る覚悟を持っても、それでも、最後に一つでも妹に手助けをしてやらねば、セレーネはどうしても自分自身を救ってやれなかった。

 ケイに貰った衣服の中で最も身につけやすく動きやすいだろう白のブラウスと真っ黒いキュロットパンツを履いて、お守りを身に着けるような気分でバッグに革財布を仕舞い込む。

 昨夜の騒動に流され、外出禁止を言い渡されながらも没収されなかった合鍵を使ってキチンと戸締りをすると、セレーネは家を飛び出した。

 玄関のドアから剥がれ落ちた粘着質な紙きれが、彼女の旅立ちを静かに見守った。

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