寂しい苦しい捻くれ者

 シュルシュルと糸が布に潜る音だけが響く部屋の中で、ケイは黙々と仕事をしていた。

 かつて父親から植え付けられた呪いが心臓で溢れだし、体全体を支配する。

 脳内ではカイの言葉を何度も反芻してしまう。

 脳を空っぽにしようと作業に没頭していたのだが、全く集中できない上に頭まで痛み出したため、ケイは何度目か分からない休憩を入れることにした。

 額を手のひらで覆い、大きくため息を吐く。

『俺みたいな人間がまともな恋愛なんて出来るわけがない、か……そんなの、俺が一番わかってるよ。欲のはけ口に人間を買おうなんて発想をして、中途半端に実行した俺だ。本当には好かれるわけがないって、その程度、分かってる』

 確かにケイは従順そうな女性を手元に置き、適当に消費して心の隙間を埋めようとセレーネを購入した。

 ケイは絶対に自分が他人から愛されることはないと思い込んでおり、その上で憧れた幸せをなぞりたかったから、捻くれた歪みの手法をとってしまった。

 ケイ自身、およそ真っ当とは言えない方法で欲を満たそうとしたことは理解している。

 そのため、セレーネを買った時には人の道を外れてしまったような感覚がして少し心が痛んだが、彼女も買われたがっているというのが明確に見えていたので、初めの内は罪悪感も薄かった。

 むしろ、尻込みをして買えないでいた念願の性奴隷を買うことができ、強い満足感と清々しい達成感を覚えていたくらいだ。

 だが、時が経つにつれて罪悪感が強くなり、セレーネを買って良かったと思う気持ちと買わなければよかったという気持ちが交互に心臓を襲うようになった。

 ケイの誤算は二つである。

 まず一つ目は、買った奴隷を物扱いして良いように消費し、支配できるほどケイの心が自分勝手な悪に染まりきっていなかったことである。

 ケイは元々、暴言や暴力が嫌いな性格をしているから力を行使して他人を従わせようとは思えない。

 奴隷は人間ではなく家畜や道具のようなものなのだから何をしても良いのだと主張する者も少なくないが、この考え方自体もケイには受け入れられなかった。

 一緒に時を過ごして言葉を交わせば、セレーネがごく普通のどこにでもいる女性なのだということが嫌でも理解できてしまう。

 小動物や虫にさえ攻撃するのを躊躇してしまう性格をしているというのに、人間を傷つけるような真似ができるわけもなかったのだ。

 加えて、どうしても人に気を遣ってしまう性格をしているからセレーネが落ち込んでいたり、不安定になっていたりすれば気になってしまう。

 心配になって声をかけてしまうし、反対に怒鳴りつけて表面上だけでも取り繕わせようとは思えなかった。

 自分のような人間の相手をさせられるのは嫌だろうなと思っていたからセレーネが自ら触れてくるまでは彼女に触ることすらできていなかったし、そもそも性行為を愛し合う男女の好意として捉えているから今でも一線を越えられない。

 ケイを誠実で素敵な男性と評することは難しいが、かといって、彼が自称する通りの非道な屑と言ってしまうにはピュアで優しかった。

 そのため、無理やりにでも自分を愛させたいという欲求と彼自身の性質が驚くほど合わず、結果、購入したセレーネにはおままごとだけを義務付けて、性奴隷として扱うには随分と甘い生活を享受させていた。

 二つ目の誤算はケイ自身がセレーネのことを本気で好きになってしまったことだ。

 セレーネが少しでもマシな待遇を求めて自分に買われようとしていたことは理解しているし、今でも彼女が自分を愛してくれるとは微塵も信じていない。

 そのため、セレーネの好意を本気にしないと誓っていたケイだが、同時に彼は、

「セレーネにだけは絶対に本気では惚れない」

 ということも決めていた。

 理由は仮に自分が彼女を愛しても、彼女の方からは絶対に愛が返ってこないからである。

 加えて、自分が他人をマトモに愛せる気もしていなかった。

 そのため、セレーネにデレデレとしていたケイも実際には心の内側を氷漬けにしていて、どこか冷めた目つきで彼女や自分を俯瞰し、観察していた。

 一緒の布団の中で眠ったり、触れ合ってみたり、

「自分を愛してくれるお嫁さんが欲しいんだ」

 と、心の内を吐露したりした時ですら同様である。

 いつもニコニコとしているセレーネに演技が上手だなと感心しながら食事をとり、会話し、一緒に眠る。

 優しい演技を返して、おままごとをするのが楽しかった。

 かりそめの幸せが本物の幸せよりもありがたく、温かく感じられて、素直に受け取ることができた。

 だが、いつからだろうか。

 セレーネの笑顔にトクンと心臓が鳴って、そこを中心に体全体が温かくなるような感覚を覚えた。

 作ってもらった料理が本来の味以上に美味しく感じて、彼女ととる食事が好きになった。

 体に触れた時、性的な欲求に混ざって心臓が甘酸っぱく跳ねるような恋の鼓動が全身に響いた。

 同時に落ち着く癒しの感覚に病みつきになった。

 セレーネの喜ぶ顔が見たくて物珍しいフルーツやスイーツを買い与えたし、自主的に料理も行った。

 彼女から触れられたり、キスをされたり、優しい言葉をかけられたりした時に、

「演技じゃなかったらよかったのにな……」

 と、ため息を吐くようになってしまった。

 セレーネに抱く感情が本物の愛になってしまったから、返ってくる愛情が偽物のままでは満足できなくなってしまい、関係性に酷い寂しさと虚しさを覚えるようになったのだ。

 ケイは今、自分が絶対に持ちたくなかった感情を抱き、およそ耐えられるはずがないと思っていた環境に身を置いている。

 心が痛くなることは知っていたが、セレーネに会いに帰りたくなった。

 ご主人様ではなく、名前で呼んでもらいたい。

 支配は向かないが、被支配も嫌なので、きっと配偶者との関係性は対等ぐらいがちょうどいい。

 ケイはセレーネとくだらないことで喧嘩して見たり、悪い事をした時に叱られたり、兄弟に愚痴みたいな惚気を言ってみたりしたかった。

『どれも、叶わないだろうけど。買っちゃったから、叶わない。俺が屑だから、叶わないんだ』

 心臓の奥が針で突き刺されたようにギュッと痛む。

 涙が浮かんで布に落ちかけ、慌てて目元を拭った。

『危なっ! 材料にシミがつくところだった。結局、仕事も進んでないし、今日はもう、やめちゃおうかな』

 ケイは黙々と後片付けを進めると、沈み込んだまま屋敷を後にした。

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