歪んだ癒し
ケイの帰宅は早ければ夕方、遅いと深夜近くになってしまうこともあるため、暗くなる前に家に帰ってくるということが基本的になかった。
そのため、すっかり油断してリビングで休憩がてらビスケットを齧っていたセレーネは急なケイの帰宅に目を丸くすると、大急ぎで口内のビスケットを飲み込み、エプロンをはためかせて玄関の方へ向かって行った。
「おかえりなさい、ご主人様。今日は早いお帰りだったんですね」
少し息を切らせてニコリと笑うセレーネの口元にはビスケットの欠片がくっついたままだ。
きっと、セレーネはケイが以前に要求した「可能な限り帰宅を出迎えてほしい」という願いを覚えていて、律儀に約束を守り続けているのだろう。
一生懸命なセレーネの様子を見て、ケイがクスクスと笑った。
「ただいま、セレーネさん。そんなに急がなくても大丈夫なのに。でも、ありがとうね。ねえ、セレーネさん、もしかして、お菓子食べてた?」
「え!? あ、はい、その、家事の休憩中にと。お夕飯を作るまでは時間が空きますから、その、小腹が空いてしまって……ジュースまで飲むという贅沢をしてしまったことは認めます。ですが、その、ビスケットはご主人様の好物だって分かっていますから、とっておきましたよ、ちゃんと」
汚れた口元を手で拭い、目線を下げるセレーネは恥ずかしさと気まずさが入り混じった様子だ。
子供のように口元を汚したまま、それなりに好意がある人の前へ出てしまった恥ずかしかったらしい。
それに加えて食べたビスケットの枚数もそれなりに多かったため、罪悪感を覚えているようだ。
珍しくモジモジとしたセレーネの様子がかわいくて、ケイは目を細めた。
「確かにビスケットは俺も好きだけど、基本的にお菓子はセレーネさんにって買ってるんだから自由に食べていいんだよ。ジュースとかお酒だって、飲んでいいよって言ってるし。でも、残しておいてくれたんだ。ありがとう、セレーネさん。それなら俺も、少しだけお菓子をお裾分けしてもらおうかな」
口元のビスケットを指で拭って食べるくらいだったら、まだ許されただろうか。
しかし、ケイは軽く屈むとセレーネの顎に手を添えて軽く上を向かせ、それから彼女の頬に直接かぶりついた。
セレーネが驚いて硬直している間もケイは彼女の柔らかくきめ細かな頬を、ビスケットを食べるという名目で吸い、舐める。
ベロリと唇についたビスケットまで舐めとった後、最後にチュッと音を立てて口の端にキスをし、恍惚とした表情で笑むケイの姿は気色が悪いという言葉の外に言い表しようがない。
初めはケイの奇行に目を丸くし、彼を見つめていたセレーネも途中で耐えきれなくなってギュッと両目を閉じると、両手で握りこぶしを作って体を最大限、緊張させた。
俯く顔は真っ赤に汗ばんだままであり、眉間にはギュッと皺が寄っている。
小刻みに震える体も彼女の内面を如実に表しているかのようだ。
その姿にケイがニタリと口角を上げ、
「少し食べたら小腹が空いちゃった。セレーネさんのお口に入っているビスケットも貰おうかな」
と、実に爽やかに言い放った。
ニコリとした笑顔に柔らかな声は好青年のものだが、言動だけが最悪である。
ただでさえ、「ビスケット頂戴」という言葉と実際に口の周りについた食べカスを舐め回すという行為で異次元の気色悪さを見せつけていたというのに、どうして更なるキモさの上塗りをしてしまったのか。
何故、せっかく上がっていたセレーネからの好感度を地獄の底まで叩き落し、本人が認めていないだけの恋愛感情にまで発展していたソレを、粉々に叩き壊すような真似をしてしまったのか。
それは、簡単に言えばケイが超のつくほど捻くれた、面倒くさい性格をしているからであり、今日のように傷心してしまった時には、その厄介な性質が普段の何倍にも跳ね上がるからだ。
様々な出来事から立派な捻くれモンスターへと進化してしまったケイは、セレーネに傷心を癒してほしいと考えていたが、同時に、いつものような甘いイチャイチャとした態度だけはとってほしくないとも考えていた。
理由は、演技中であるはずのセレーネの態度や行動、言動に、
「もしかして、万が一、いや、億……兆が一くらいの確立でほんの少しでも好意をもたれていたりするのでは!?」
と、ないはずの希望を見出してしまい、そのまま普段通りに彼女に接してイチャイチャを繰り返した後、冷静に自分たちの姿を振り返って、
「俺って、なんて無様なんだろう。気持ち悪……」
と自虐してしまったり、妙に近づいてしまった妄想と現実の落差に落ち込まされたりしたくないからである。
セレーネにバレぬよう、ひっそりと枕を濡らしながら眠るなど真っ平ごめんだ。
ケイは、確実にセレーネからは好意を持たれていないのだと分かる状況下で、嫌々ながらも甘い態度をとってもらい、現実を知った上で癒され、心の傷を埋めたかった。
そのためならば、ほんの少しだけ上がってしまった親愛的な好感度だってドブに捨てられる。
いや、むしろ今後を考えれば、決して一定以上は上がることのない好感度など下げきって二度と動かぬようにしておいた方がいい。
捻くれきったケイは、そのように考えてセレーネに嫌がらせをしていた。
『セレーネさん、困ってる。さぞ俺のことが嫌になってるだろうな。でも、セレーネさんは俺のことが好きって演技しなきゃいけないんだ。この状況、心が落ち着くなぁ』
本当は嫌われたくない。
だが、好かれていると思った後に嫌われていると発覚するよりは、嫌われきっている方が、まだマシだ。
固まったままで動かないセレーネが、さぞ自分のことを嫌悪しているのだろうと考えるとニヤニヤが止まらなくなった。
おまけに、顔を真っ赤にして目尻に涙を浮かばせたセレーネがゆっくりと顔を持ち上げ、薄く唇を開くのを見ると更に強い快楽を覚え、歪んだ癒しに背筋をゾクゾクとさせた。
『へぇ、流石セレーネさん。体を張ってくれるなあ。修復不可能なほど嫌われたくないから、流石にキスをして食べたりはしないけど、俺のために顔を上げてくれた根性は嬉しいや』
薄目を開けて不安そうに自分の様子を窺うセレーネに愛しさと幸福を覚える。
ケイはにこりと笑って軽く屈むとセレーネの唇に自分の唇を寄せる。
それから歯で彼女の唇を優しく挟み込むと、舌先でチロッと舐めた。
セレーネの震える体をギュッと抱き寄せる。
「大丈夫だよ、セレーネさん。そんなに怯えないで。ただの冗談だからさ。台所に残ってるセレーネさんの食べ残しクッキーと飲みかけのジュースでお腹を満たすから大丈夫だよ」
耳元で爽やか風にネットリと囁けば、普段は元気いっぱいなセレーネが腕の中で小さく頷き、無言でケイに合わせてリビングの方へ歩き始めた。
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