勝者のいない寝室

 しょぼんと落ち込むケイだが、彼の心など知りようもないセレーネからすれば何が起きたのか分からない。

 セレーネの目には、帰宅後からモジモジと照れながらも強めの甘えを見せていたケイが、ようやく積極性を見せてきたところで急に萎えてしまったようにしか見えない。

 他人に対しては異常に潔癖だが愛しい相手に対しては心配になってしまうほどガードが甘く、むっつりスケベなセレーネはケイにかなり期待を寄せていたため、もはや裏切られた気までしていた。

「え!? な、何事ですか、ご主人様! あれ!? スケベは!? エッチなことをするんじゃなかったんですか!? 自分で言うのもなんですけど、かなりイイ感じでしたよね!? なんかスケベであったかい流れでしたよね!?」

 ギョッと目を丸くしたセレーネが狼狽えながら捲し立て、ペチペチとシーツの上からケイの背中を叩く。

 だが、ケイは薄暗い布の中で寂しそうに肩を落としたまま、

「大丈夫だよ、セレーネさん。俺、初めから突っ込む気はなかったから、安心して」

 と、優しく微笑んだ。

 落ち着いた声の中にはセレーネへの敗北を認める爽やかな諦めすら含まれている。

 悲哀に満ちながらもセレーネを柔らかく諭すような姿は、もはや聖母だ。

 これに対し、数分前までドヤッと包容力的なものを見せてケイをお誘いしていたセレーネは涙目になって、

「なんで!? なんで、そんな慈愛風なんですか!? この数分間にどんな心変わりが!? ねえ、ご主人様! 答えてくださいよ! スケベは!?」

 と、彼の背中にしがみついていた。

 大きな胸がムニンと押し付けられているわけだが、このような駄々っ子な態度では色気も何もあったものではない。

 いくら声をかけても反応が芳しくないケイにオロオロと不安になるセレーネは、ふと今だけでなく、そもそも帰宅の時から彼の様子がおかしかったことを思い出した。

 そして、ケイの言動や態度を結び合わせて悲しい答えを導き出したセレーネが、

「も、もしかして今日のご主人様、疲れちゃって異様な甘えん坊をしていたんじゃなくて、ずっと私に嫌がらせをしていたんですか!? キスとか、お風呂とか、今のとか!!」

 と、狼狽しながら恐る恐る問いかける。

 すると、ケイはこれに対して少しの間押し黙った後、

「そうだって言ったら、俺のこと、嫌いになってくれる?」

 と、小さく質問を返した。

 期待半分、痛み半分の言葉にセレーネがブンブンと首を横に振る。

「なれませんよ! でも、え? 本当にそうなんですか? 本当に私に嫌われようと!? え!? すごく傷つきます。だってアレですよ! 嫌がらせって嫌いな人にやることですよ! ご主人様、もしかして、私のこと嫌いなんですか!?」

 セレーネはチョロくて素直で純粋な性格をしている。

 そのため、普段の警戒心が強い姿とは裏腹に、一度でも懐に入れた人間のことは簡単に信用してしまう危なっかしい性質を持っていた。

 だが、だからこそ、というわけでもないのだが、セレーネには対人関係において相手の誠実さを見抜いたり自分への感情を察知したりする、鋭い勘が備わっている。

 また、意識せずとも相手のことを真正面からとらえることができたし、相手の言葉や態度、行動も真っ直ぐ受け取ることができたため、そこに矛盾点や嘘があれば、すぐに気がついて相手を怪しむことができた。

 そんなセレーネから見たケイは少し気弱だが誠実な男性で、自分へ向ける笑顔も愛情も本物であるように思えていた。

 というか、だからこそセレーネがケイに懐いた節がある。

 実際、どちらが先に互いを好きになったのかは分からないが、ケイの自分に向けてくる感情が非常に心地の良いものだったから、セレーネはあっさり彼が好きになってしまったのだ。

 そして、そんな気持ちの良い感情を向けられていたセレーネだから、きっとケイは自分のことを好きなんだろうなと思っていたし、最低でも嫌ってはいないんだろうなと考えていた。

 だが、何となく好意的であればいいなと思っていたケイからの感情も、キチンと彼への恋心を自覚した今では、かなり気になってしまう。

 恋しい人に嫌われているかもしれないという苦しい状況に立たされたセレーネは、酷く不安そうな表情でケイの姿を見守った。

 すると、しばらく押し黙った後、岩のように体を固くしていたケイがくるりと向きを変えて、ようやくセレーネの方を向いた。

「悔しいけど、俺はセレーネさんのこと好きだよ。本当に」

 酷く捻くれたケイだが、それでも彼なりにキチンと認めたい心がある。

 それがセレーネへの恋情だった。

 ただ、それでも口にすると苦みが込み上げるのか、ケイは眉間に皺を寄せて苦しそうに小さく言葉を出した。

 これに対し、ケイの態度が少し引っ掛かるものの、彼の真剣な表情と言葉を素直に受け取ったセレーネがホッと安心して表情を明るくする。

「よかったです、ご主人様! 何回も言ってますが、私もご主人様のこと、大大大好きですよ!! ほら、おいで~!!」

 おいで! とハシャぐセレーネだが、待ちきれなくなったのか自分の方からケイに抱きつきに行く。

 すると、強制的に腕の中に閉じ込められたケイが胸の中でプイッとそっぽを向いた。

「嫌」

「嫌って、なんでですか!」

「セレーネさんは弱くて汚くてカスな俺なんか好きにならない。嘘つくとこだけ、嫌。そこは嫌い」

「嘘じゃありませんよ! ご主人様は強くて綺麗で優しくて、かわいくて格好よくて素敵な男性です!」

「適当なこと言わないでよ」

「適当じゃありませんよ、ご主人様!」

 ボソボソと呟くように言葉を出し、モゾモゾと動いて胸の中から這い出ようとするケイをセレーネが後ろから一生懸命に捕まえて、好き! 好き! とキスをする。

 柔らかな唇が何度も触れるうなじがこそばゆく、荒い鼻息で襟足が揺れるのもくすぐったい。

 恥ずかしくて、体が真っ赤に熱くなって、どうにも眠れそうにない。

「セレーネさん、キス魔やめて。寝れない」

「寝れなくたっていいじゃないですか! おしゃべりしましょ。というか、スケベな事しましょ! 前に、『本当に俺のことが好きになったらしてほしい』って言ってたじゃないですか~!!」

 短く文句を溢すケイにプーッと頬を膨らませたセレーネが駄々をこねる。

 どうしてもイチャついてケイを構いたいらしく、今度は彼のシャツの中に手を突っ込んでスベスベと腹などの肌を擦った。

「コラ! 変なところ触っちゃ駄目だよ」

「だって、いつまでもご主人様がつれないから。ねえ、ご主人様、好きですよ~! ね~え!」

 完全にダル絡みしてベタベタと引っ付くセレーネが騒がしい。

 ケイは無言でセレーネと自分の間にポスンと枕を置いた。

「セレーネさん、今日は触るの禁止ね。大人しく寝て」

「う、でも……あれ? 枕が湿ってる? ご主人様の声もぼやけてますし、もしかして、泣いてらっしゃいます?」

 叱られてしょぼんとするセレーネが枕の湿った面を擦り、首を傾げる。

 すると、ムキになったケイが、

「泣いてない! いいから大人しく寝て!」

 と、口をとがらせた。

「む……分かりましたよ。うるさくして申し訳なかったです。じゃあ、せめて、寝る前の挨拶を。大好きで愛おしいケイさん、おやすみなさい。良い夢を」

 流石にケイに構ってもらうことは諦めたセレーネが、ゆっくりと彼の頭を撫でる。

 すると、アレンジの加わった挨拶に胸がギュッと縮んで戻らなくなるような感覚を覚えたケイが、しばらく黙りこくった後に、

「お休み、セレーネさん」

 とだけ返事をして静かに目を閉じた。

 「愛してるって言ってくれても良かったのにな」と口を尖らせるセレーネが眠りについてから、しばらく時間のたった深夜。

 ケイは濡れる目元をギュッギュと手のひらで拭って、セレーネとの間にあった枕を取っ払うと彼女の柔い胸に顔を埋めた。

 そして白いセレーネの衣服を、まだ目尻や頬に残る涙で灰色に染めながら眠った。

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