秘書のアメリアとカイ
カイには、あまり日常的に飲酒をする習慣はないのだが、酷く落ち込むような出来事があったりショックを受けるようなことがあったりすると、たまにグデグデになるまで酔っぱらうことがあった。
まずは終業後の執務室で一人っきりで酒をかっ食らって、いい塩梅に酔っぱらってきたところでケイやスイの執務室を訪れ、二人を飲みに誘う。
そして、「酔っ払いの兄さんは面倒くさくて嫌!」と、帰宅しようとするケイの腰に抱き着いて追いすがり、言語不明の言葉を発しながら眠ったり、スイに抱きつきながら眠ったりするのが基本である。
兄弟以外とは飲酒せず、外にも向かって行かない性格であるため身内以外には迷惑をかけないものの、態度や行動は典型的な悪い酔っ払いである。
ちょうど昨日の夜に付き合っていた女性に手酷い振られ方をしたカイは、例のごとく自室でワインの瓶を抱えて頬を赤くしていた。
「いい塩梅」以上に酔っぱらっているカイだが、いつもと違うことは部屋に大好きな兄弟が一人もいないことだ。
『兄貴は今日は忙しいみたいだし、ケイは、まあ、あんなこと言っておいて呼べるわけねぇし。つーか、そもそも最近は付き合い悪くなってたし。ケイが早く帰る理由、セレーネちゃん……ついカッとなってイヤなこと言っちまったけど、実際はどうなんだろうな。本当はケイのこと、大事にしてたりすんのかな。そうだといいな。そうだといいなって思うのに、俺、駄目な事、言っちまった』
ケイにかけてしまった言葉を思い出して強い後悔を感じ、ジワ~ッと目の奥を熱くさせる。
危うく泣きだしそうになったカイがワインの瓶に直接口をつけ、中身を数口飲んだ。
ワイン以外に特に何も飲食していない胃の奥がグルリと熱くなる。
チラリと視界の隅に清潔な飲料水の入った美しい水差しと綺麗に洗われたコップが目に入ったが、何となく、泥酔を決め込んだ酔っ払いのポリシーに反するので飲まないでおく。
『なんか、やっぱり一人で飲むの寂しいな』
チラリと壁に掛けられた時計を見る。
短針は午後十一時を指していた。
『つい数十分前まで仕事してた俺が言えた話じゃねーけど、こんな時間まで一人で仕事してんのも良くねーだろ。兄貴んとこ行って、サッサと仕事切り上げさせちまおうかな。そんで、俺の飲みに付き合わせよう』
雑にワインの瓶を抱えたまま、ガチャリとドアを開ける。
すると、ちょうど部屋を訪ねてドアをノックをしようとしていた銀縁眼鏡の女性と鉢合わせた。
真直ぐに伸びた綺麗な茶髪に、オシャレというよりも実用性重視でいくつか取り付けられたヘアピン、キチッと身に着けたブラウスに膝丈まであるスカートが少し硬い印象を与える彼女はケイの秘書、アメリアだ。
「うわっ! アメリアちゃ……さん。こんな時間にどうしたんだ!? 終業時間はとっくに過ぎてるだろ」
「はい。終業時刻はとっくに過ぎているはずなのに、ずっと明かりがついていたので来ました。カイ様、今日はやけに落ち込んだ様子だったので、気になっていましたし。残業をしながら貴方の元を訪ねるか迷って、結果、今に至ります」
ギョッと目を丸くするカイにアメリアが淡々と言葉を述べていく。
心配と語る彼女だが、凍ったような無表情であるため今一つ真意を掴むことはできなかった。
急な珍客の存在にカイが面食らっていると、アメリアがポスンと軽く彼の肩を押す。
そうしてカイに部屋に入るよう促すと、ぱたんと後ろ手でドアを閉めた。
シレっと部屋に侵入した後も無表情でジッと自分の顔を見つめてくるアメリアからは、威圧的で怪しい雰囲気を感じる。
殺人鬼と対峙したような身の危険を覚えたカイはブルリと背筋を震わせた。
ほろ酔い以上だった酔いも、すっかりとさめ始めている。
「ア、アメリアさん? 心配は嬉しいけど、俺は平気だからかえって大丈夫だよ」
アメリアを刺激せぬように、やんわりと帰宅を促すも彼女はアッサリと首を横に振る。
「ワイン片手に屋敷内を徘徊しようとしていた人間が何をおっしゃっているんですか。その状態で女性従業員と出くわしたら、襲われますよ。玉の輿や慰謝料を狙う女性は少なくないんですから」
「それ、普通は俺が襲う側として周りに心配をかけるんじゃねぇの? それに、今はもう、みんな帰ってると思うけど」
元々、カイたちの職場で定められている定時は午後五時であり、残業は最大で午後八時まで可能だ。
そして、午後九時を過ぎれば問答無用で家に帰らされることになっている。
屋敷の別棟が自宅になっており、業務の量も異様であるカイたち三兄弟や秘書のアメリアなど、一部従業員は時期によって例外的に終業時間が大きく伸びることもあったが、それでも今時期はほとんどの従業員が帰宅していた。
実際、今、屋敷の企業エリアで残っているのもカイとアメリア、スイの三人くらいだろう。
アメリアもエリア内の従業員数は把握しているようで、カイの言葉にコクリと頷いた。
「確かに帰ってはいますが、それでもやはり感心しませんよ。執務室で飲むのも、企業エリアで飲酒なさるのも。ご自宅で飲まれたらいいでしょう。すぐ隣の別棟にご自身の完璧なプライベートルームである、貴方やスイ様の屋敷があるのですから」
「だって、帰るの面倒くさかったし、兄貴は仕事が終わるまで執務室からテコでも離れねぇし、ケイは自室へ行くって言うと面倒くさがるし」
「そうですか。ですが、それでも感心できないものは感心できませんよ。長らく屋敷に住んでいるから感覚が変になっているのかもしれませんが、ここは貴方のご自宅ではなく職場です。他の人間が活動する場所である以上、ここで飲むべきではありません」
キッパリと最後まで注意し続けるアメリアに少しムッとしているカイだが、実際、滅多に飲酒をせず、家族以外に迷惑をかけていなかったのと、飲酒時に傷心していたことが理由で、本来ならば禁止されるべきことがなあなあにされていたことも事実だ。
本人も少し考えて、その事実に思い至ったらしく、
「悪かったよ。それなら素直に自宅に戻る。帰る前に兄貴のとこによって、声をかけていくのに留めておく」
と、申し訳なさそうに言って頭を掻いた。
カイが廊下に出ると、アメリアも彼に従って隣を歩く。
どうやら、スイの執務室まで一緒について行くつもりらしい。
「足取りが重いですね、カイ様。どうなさいましたか?」
問いかけるアメリアは、普段はコツコツコツと素早く鳴らしている足音を彼に合わせて、コツ……コツ……コツ……と、のんびり鳴らしている。
牛歩に合わせる姿は不快そうではなかったが、かといって思いやりに満ちているわけでもない。
アメリアの真直ぐで無感情な問いかけにカイが苦笑いを浮かべた。
「いや、やっぱ一人で帰るのは寂しいなって思ったんだ。兄貴、絶対に深夜になるまでは飲みに来てくれないからさ。自分で言うのもなんだけど、俺は下戸だし、そんな時間に自室まで来てもらっても、悪いけど酔いつぶれて寝てるよ。寝るまでに寂しいのが嫌だから、側にいてほしいのにさ」
ハハ……と切なく笑いを溢すカイは、飲まないけど持ち帰ると宣言したワインの瓶をぬいぐるみのようにギュッと抱き抱えている。
「そんなに寂しがり屋なのは、恋人の女性と別れたからですか?」
アメリアが少し言い難そうに言葉を出すと、カイはギョッと目を丸くした。
他の従業員から心と表情筋が凍り付いていると評される彼女にしては珍しく、バツが悪そうな表情をしている。
「すみません。秘書としてスケジュール管理をしていると、どうしてもプライベートな部分まで知ってしまうんです。それに、その、ご自覚があるかは分からないのですが、カイ様は結構ご自身の話を執務中に話されるので、特に私のような役職は分かってしまうといいますか」
アメリアが淡々とした口調に戻って鞄から大きなスケジュール帳を取り出す。
軽く開いて見せた帳面には、丁寧な文字でギッチリとカイとアメリア自身の予定が書きこまれていた。
アメリアがカイの仕事内容を把握しているのは仕事柄、当然のことだろうが、カイの方だって、ある程度はアメリアの業務やスケジュールを把握している。
彼女の発言に合点がいったようで、「なるほどな」と、納得がいったように小さく呟いた。
「そうだよな。そうだ。確かにアメリアさんには今日、恋人とデートがあるとかって話したもんな。そういうのが急になくなったら、分かるよな」
一人でコクリ、コクリと頷くカイにアメリアも軽く頷いて返す。
「ついでに申し上げますと、約半年前に酒瓶が転がる執務室を秘書として掃除したのは私です。恋人に振られた翌日のカイ様が執務室で駄目な飲んだくれになることも承知しています。といいますか、正確にはその情報を知っていたからこそ、心配でここまでやってきたのです」
真直ぐなアメリアの瞳は確かに無感情風で言葉にも熱がこもっていないが、それでも何処か真剣だ。
自分の瞳を見つめて「心配だ」と語ってくれるアメリアにカイは照れたように頬をほんのり赤くした。
「ありがとう、アメリアさん」
「いえ」
少し元気になったカイがシャカシャカと革靴を動かすようになる。
それに合わせてアメリアもコツコツと普段通りに歩き、二人であっという間にスイの部屋の前までやってきた。
「じゃあ、俺、兄貴のとこに行くわ。こんな時間までごめんね。付き合わせちゃった俺が言うのもおかしいかもしれないけど、深夜の女の子の一人歩きは危ないから、人通りの多い道を通って、気をつけて帰るんだよ……アレ?」
クルリとアメリアの方を振り返って、照れくさそうにお礼を言っていたカイがピタリと固まって首を傾げる。
「どうなさいました? カイ様」
「いや、冷静に考えたら、今から家に帰るんだよね?」
「当たり前でしょう。私の自宅はカイ様のように屋敷にありませんから。大丈夫ですよ。私の住んでいる地域は治安が良いですし、道も明かりや人通りが多いところが多いですから」
カイとお喋りをしたり、のんびりと廊下を歩いたりしていたせいで何だかんだと時間が過ぎ、現在は夜の十二時近くになっている。
だが、アメリアは遅くなった帰宅時間に特に何の感情も抱いていないらしい。
時計をジッと見つめ、唇に丸めた指を押し当ててムググ……と考え事をしているカイに対して彼女は非常にアッサリとした態度を見せていた。
「あのさ、嫌じゃなかったら俺、アメリアさんのこと家まで送ってくよ」
「秘書だからですか?」
「まあ、それもあるし、俺のために残らせたって罪悪感もある。それに、アメリアさんは女の子だからさ、危ないのは良くないと思うよ」
カイがニッと無邪気に笑うと、アメリアが面を食らったように目をパチパチとさせる。
それから、
「タラシですね」
とだけ笑って、アメリアがスイの部屋から踵を返した。
二人でポツリポツリと会話をしながら夜道を歩き、アメリアの家を目指す。
無事、彼女の家に到着した時、
「カイ様、自宅まで送っていただき、誠にありがとうございます」
と、頭を下げた彼女が小さく「カイ様の秘書でよかったです」と呟いた理由を、まだ、この時のカイは知らない。
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