憧れ

 丁寧に閉じられた絵本の裏表紙には、花屋さんのエプロンを身に着けて仲睦ましげに手を繋ぐ二人の後ろ姿が描かれている。

 水彩による柔らかなタッチは繊細で温かみがあり、絵を眺めているだけで幸せな気分になれた。

「素敵なお話でしたね、ご主人様」

 大容量の文字で書かれた本は読みごたえ抜群で楽しかったがすっかり疲れてしまい、セレーネはグッと背伸びをした。

「そうだね。俺、小さい頃は『お嬢さん』が幸せになれたのが嬉しくて、一人でコッソリ泣いたっけ」

「あら、かわいい」

 懐かしそうに幼い日を思い出すケイの頬をセレーネがツンとつつく。

 すると、ケイが恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。

「ねえ、セレーネさんはさ、『お嬢さん』のこと、どう思った?」

「え? どう……可愛い女の子だと思いましたけど。それに、きらびやかな衣装には憧れますよね~。『お嬢さん』なら美味しいもの食べ放題でしょうし。でも、働かない生活は体がなまっちゃいそうだな~って思います。人間、適度に仕事しといたほうが良いですよ。『お嬢さん』も最終的には花屋さんやってますし」

 急な質問にセレーネが一生懸命、感想を捻り出す。

 両腕を組んで首を傾げながら話すセレーネをケイはクスクスと笑った。

「セレーネさんらしいね。俺は子どもの頃、少しだけ『お嬢さん』が羨ましかったよ」

「そうなんですか?」

 決して悪い事ではないのだが、男性であるケイが女性のお姫様に憧れたことが少し意外でセレーネが目を丸くする。

 ケイは特に彼女の反応に気分を害した様子もないまま、コクリと頷いた。

「うん。俺、小さい頃から引っ込み思案で臆病な性格をしてたから、庭師の言葉を信じて真直ぐに家を飛び出したり、真っ赤になりながら町の人に話を聞いて花屋にたどり着こうと頑張ったりしている姿が眩しかったんだ。いいなぁって、思った」

 彼自身も話す通り、ケイとお嬢さんの共通点と言えば、やはり引っ込み思案な性格だろう。

 きっと幼い頃のケイはお嬢さんに自分自身を重ねて本を読んでいた。

 だからこそ、お嬢さんの感情や心に強い共感を覚えてハッピーエンドを祈りながら物語を見守ったのだろう。

 絵本の読み終わりに涙を流していたのも、おそらく、彼女の幸福が自分のことのように思えていたからだ。

 セレーネはフムフムと真剣な様子でケイの話を聞いた。

「ご主人様に似てるって思うと、さらに絵本の『お嬢さん』が愛らしくみえますね」

 お嬢さんが毛布に引っ込んで震えているシーンを開き、チラッとケイの横顔を見る。

 確かに小さな頃のケイは落ち込むと布団に潜り込んでいたが、それにしても随分なチョイスである。

「よりにもよって、このシーンかぁ。だいたい俺に似てると可愛いって、なんか変じゃない? せめて逆……は、もっとおかしいか。セレーネさん、絶対に揶揄ってるでしょ」

 少し複雑そうな表情を浮かべるケイに対し、

「揶揄ってないですよ」

 と、ニマニマ笑うセレーネの表情は悪戯っぽい。

 格好良い系か可愛い系かで問われれば、割と明確に格好良い系に属していると思い込んでいるケイが不服そうに口を尖らせた。

「セレーネさんって、たまに変な揶揄い方するよね。全く……とにかく、小さい頃は『お嬢さん』が羨ましかったんだ。今でも割とそうなんだけど、でも、久々に読んだらさ、『庭師さん』も羨ましいや」

「そうなんですか? まあ、確かに素敵な男性だとは思いますが」

 庭師は身分差で打ち切られた恋を諦めずに追って、自分自身が生活する目途の立った段階でお嬢さんに手紙を送った男性だ。

 結局、何らかの事情で消してしまった駆け落ちのお誘いだが、とても世間を知っているとは思えないお嬢様に苦労を掛けることを打ち明けた上で自分の元に来るよう働きかけようとしたこと自体、だいぶ立派な行動だろう。

 手紙にクッキリと書いた拒絶の言葉も賛否はあるかもしれないが、彼なりに彼女を思った結果である。

 そもそも、相手を想った言葉であろうと誰かを叱ったり、否定したり、拒絶したりすることは想像以上に苦しいことだ。

 おまけに大切な彼女を半永久的に失うことへ繋がってしまうのならば、なおさらだろう。

 そういったことを考えていくと庭師はかなり「いい男」なのではなかろうか。

「セレーネさんも『庭師さん』、素敵だと思う? 俺も、そう思ったんだ。でも、それだけじゃなくてさ、お金とか全部捨ててでも自分の所に来てくれる女性がいて、真直ぐな愛情を貰えて、羨ましいなって思った。ねえ、セレーネさん」

 もしも俺にお金が無くなっても、俺と一緒に来てくれる?

 照れ笑いを浮かべながらそう問いかけようとして、ケイは口をつぐんだ。

 少し輝いていた瞳の奥が暗くなって、自然と視線が下へ落ち込む。

『バカな質問だ。俺とセレーネさんは別に恋人同士でも本物の夫婦でもないのに。まあ、セレーネさんはお嫁さんのふりをするってルールに従って頷いてくれるだろうけど、それじゃ意味がないしさ』

 セレーネの場合、ケイの予想通りの行動をとるか、あるいは真剣な様子の彼におされて、

「私はご主人様の奴隷ですから、一度でも購入された以上、どこまでもついて行きますよ」

 と、うっかり本音を漏らしただろう。

 どちらかといえば後者の方が嬉しいが、その心のありようも、言葉も、ケイが心の底から望むものではない。

 中途半端に出してしまった言葉をどのように繋げるべきか困ってしまったケイは、眉を下げてマゴマゴ、モジモジとしている。

 すると、初めはケイの様子に首を傾げていたセレーネがハッとした表情になって、それから口元にニマ~ッと悪い笑みを浮かべた。

「ご主人様、甘えたくなったんですか?」

 問いかけるセレーネはムフフと口元に手を当てて含み笑いをしており、揶揄うように目を細めている。

 同棲生活が始まったばかりの頃のケイは、

「演技して欲しいと思ったら伝える」

 という宣言をきちんと守って、何かイチャついた行動をとってほしいと考えた時には照れながらセレーネに内容を言葉で伝えて、望んだ行為をしてもらうように働きかけていた。

 また、イチャつきの内容すらもセレーネに委託したいと考えた時には、

「イチャついてほしい」

 とか、

「甘えたい」

 とだけ端的に述べて、よろしくお願いします! と両手を合わせていた。

 セレーネ的に本気で嫌だと感じることは要求されなかったし、何よりも主人の願いに応じることが自分の仕事だと思っていたので、彼女も頼まれるたびに「いいですよ~」笑って頷いていた。

 しかし、時が経つにつれてケイの要求も少しずつ大きくなり始めており、最近では察してね? とばかりにセレーネの周りをモジモジとうろつくようになっていた。

 察してもらえなかったからといって怒るわけではないため特に害はないのだが、恋人にするような甘えをセレーネにしてしまうのは明確なルール違反である。

 だが、セレーネは、ケイの控えめと露骨の間を行くイチャつきたいアピールや、なかなか気づいてもらえずに困ったように眉を下げた表情を見るのが好きだったし、自分に

「甘えたいんですか?」

 と、問いかけられた時に恥ずかしそうに頷く姿を眺めるのも好きだったので、わりと満更でもなかった。

 セレーネはケイを構うのが好きだったし、自分ではあまり認めていないが純粋に彼への好感度が高かったので、彼のプチルール違反をあまり気にしていなかったのだ。

「お昼の時といい、今といい、最近のご主人様はすっかり甘えん坊ですね」

 ニマニマと笑い、両腰に手を当てるセレーネは妙に嬉しそうだ。

 一方、ケイの方はまるっきり予想外なセレーネの言葉に目を丸くしていたが、冷静に考えたら「甘えたい」も間違いではなかったので、少し考えた後に素直に頷いた。

「えっと、よろしくね、セレーネさん」

「いいですよ、ご主人様。ほら、おいで」

 ニコッと笑ったセレーネが大きく腕を開く。

 ケイはそこにポスンと入り込むと、キュッと細い腰に腕を回して彼女を抱き締め、首元に軽く頭を押し付けた。

 顎から鎖骨までの首のラインが妙に頭の形に馴染む。

 鎖骨の少し下の辺りに額を押し付け、脱力して身を預けるとやけに気持ちがよくて安心できた。

 絵本に影響されてか、今日のセレーネはかなりサービス精神が旺盛だ。

 ケイが数回、深呼吸を繰り返していると、セレーネが彼の後頭部にキスを落とした。

 何度も重ねられるキスに初めは真っ赤になって照れていたケイだが、少し向きを変えてセレーネの胸に耳を押し当て、ゆっくりと彼女の鼓動を聞き始めると、段々に体が睡魔に支配されるようになった。

「セレーネさん、眠い」

「それなら眠りましょうか。このまま行くんですか?」

 セレーネの質問にコクリと頷き、彼女が起き上がるのに合わせてゆっくりと体を起こす。

「かわいいですね」

 頬にキスをされたケイは動揺しすぎて眠気を一気に冷まし、慌てすぎてコケかけた。

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