セレーネの態度にケイは帰宅時から違和感を覚えていた。

 いつもニコニコと笑って明るく、無邪気に自分に引っ付いてくるセレーネが、ふとした瞬間にどこか浮かない表情になって、もの言いたげに自分の顔を覗き込んでくるのだ。

 真直ぐ純粋な目で見るからこそ、すぐに相手の異常に気がつけるセレーネとは違い、ケイは常に相手をうがった目で見ている。

 簡単に言えば、相手が本心を話しているのか否か、その言葉に裏はないか、常に少し相手を疑いながら会話をしている。

 そのため、ケイはセレーネとは違った意味合いで相手の状態や心情の変化に気がつきやすかった。

 少し前までのケイならばセレーネの不調を心配して、すぐに「どうしたの?」と、声をかけていただろう。

 疑心暗鬼が染みついた彼だから無意識にセレーネを疑い続けただろうが、それでも一応はキチンと話を聞いて悩みの解決に努めようと頭を悩ませたはずだ。

 だが、今回のケイはセレーネに対して思うところがあったので、あえて彼女を無視し、向こうが声をかけてくるまで大人しく待っていた。

 相手の言葉や思惑におおよその予想もついているから、彼女が何かを言ったところでまともに取り合ってやるつもりもない。

 今か、今かとセレーネからの声掛けを待つケイだったので、眠る直前になって、

「少し話があるのですが」

 と彼女から声をかけられ、リビングまで呼び出された時には、

「やっとか」

 と苦笑いを浮かべてしまうそうになった。

 慣れた手つきで薬缶の水を沸騰させ、ホコホコとした湯気の温かい澄んだ紅色の紅茶を淹れる。

 夜食にビスケットまで用意し、テーブルに並べるまで、セレーネは落ち込んだ様子で無言を貫いていた。

「ご主人様、ビスケット食べないんですか? 美味しいですよ」

 自身は一口も手をつけずにソワソワとした様子で問いかける。

「うん。俺は、今日はいいかな。セレーネさんは?」

「私も、太っちゃうので今日は良いです」

 出した分が無駄になっちゃいましたね、と笑うセレーネだが、愛らしい笑顔がいつになく引きつっていて妙に歪だ。

 このように露骨な愛想笑い、購入されたてのセレーネだってケイに対しては浮かべたことがなかった。

「あの、ご主人様、私、外で働いてもいいですか? ちゃんと家事とか今まで割り当てられていた仕事もしますから」

 一口だけ熱い茶を飲み、唇を湿らせたセレーネが酷く深刻そうに問いかける。

 だが、ケイはすぐに「駄目だよ」と首を横に振った。

「どうしてですか?」

 顔を上げたセレーネが不服そうにケイを見つめる。

 すると、ケイの方は軽く後頭部をかいて困ったように苦笑いを浮かべた。

「どうしてって……セレーネさん、忘れたの? セレーネさんはずっと外出禁止になっていたはずだけど」

 ケイの話す通り、基本的にセレーネは一人での外出を許されていない。

 そのため、彼女が外出をするのはケイが買い出しに行く時や彼からデートに誘われた時など、彼が隣にいる時ばかりだった。

 一見すると不便で不愉快な縛りだが、セレーネは元から外に出て遊ぶのが好きな性格をしていなかったし、食材のちょっとした買い足しのために家を空けるくらいならば許されていた。

 そのため、ケイと数日に一回程度、買い出しに出るくらいでちょっとした外出欲は満たされていたし、彼と一緒に街を歩いたり、帰りに美味しいランチやディナーを食べたりするのが大好きだった。

 セレーネはケイから課された外出禁止を特に不快に思ってはおらず、このことが問題になったのも今日が初めてだったのだ。

 もはや、そのような縛りがあったこと自体すっかりと忘れていたセレーネがケイの言葉にハッとする。

「その顔を見るに忘れてたんだね、セレーネさん。かわいい。でも、外出したまま家に帰って来なくなったり、外で恋人を作られたりしたら困るから駄目だよ。セレーネさんは、今日から一切、外出禁止ね」

 前までは許されていた買い出しすらも禁止事項に入る。

 外出を禁止されることよりも禁止される理由の方が不快で、セレーネはギロッとケイを睨みつけた。

「ちゃんと家に帰ってきますし、浮気をするつもりなんか一つもありませんよ! でも、分かりました。外出に関しては従います。その代わり、内職をしても良いですか?」

 あくまでも労働しようとするセレーネの瞳は真剣だ。

 ケイも睨み返すようにセレーネの顔を見つめ返した。

「そもそもさ、どうしてセレーネさんはそんなにお金が稼ぎたいの? 生活では不自由させていないはずだし、それどころかおねだりさえしてもらえればアクセサリーとか食べ物とか、できるだけ何でも買ってあげるよって言ったよね。あれ、別に嘘じゃないよ。欲しいものがあるなら教えて。買ってきてあげる。服とか宝石とかブランド品とか、自分で選びたいなら一緒に行ってあげるから」

 ケイの話す言葉の内容自体は異常に甘ったるくて優しい。

 セレーネに提示されたのは、まるで絵本のお姫様の様な待遇で、

「お前、そんなんだと利用されるだけされてポイされるぞ!? そんなよく分からん甘やかし方してどうするんだ!!」

 と、ケイの肩を引っ掴んで問い詰めたくなるほどには献身的で危なっかしい。

 だが、言葉の甘さとは裏腹に本人の目つきは針のように鋭く挑むようで、

「頼めるものなら頼んでみろ!」

 と、確実にセレーネを威嚇していた。

 すると、金の用途を言えないセレーネが「それは……」と俯く。

 それからいつまでもモジモジとして何も答えないセレーネに苛立つ心を抑えきれなくなったケイが深くため息を吐く。

 それから、どす黒い疑心暗鬼で粘着質な何かが渦巻く瞳を無理やり笑わせるために、ゆっくりと目を細めた。

 立派な犬歯の嫌に目立つ口を開く。

「妹のためだよね。妹さんのために、今すぐにでもお金が欲しいから、セレーネさんは少しでもお金を稼いで、妹のメレーネさんに送ってあげようって考えたんだよね?」

 ケイの言葉はセレーネにとって一言一句違わず図星だった。

 彼女は病状が悪化し、治療と生活のために早急に金が必要になったメレーネへ仕送りを送るために自力で金を稼ごうとしていたのだ。

 考えが読まれていたことにも驚きを隠せないセレーネだが、そもそも彼女はメレーネから届いていた金の無心や病状の悪化などといった情報をケイに明かしていない。

「ご主人様、もしかしてメレーネの手紙を読んだんですか?」

 両方の手のひらを固く握りしめ、ギッとケイを睨みつけるセレーネだが、強い怒りに晒された彼はどこ吹く風だ。

「そうだよ。でも、別にいいでしょう? 元々は一緒に手紙を読んで、一緒にメレーネさんへの手紙の内容を考えてたんだから。それが急に俺にだけ手紙を読ませない、書くのにも一切関与させないってなったら、怪しまれて当然だと思うけど。大体、読まれたくないなら隠しといたらいいじゃん。机の引き出しの一番上に無造作に入れておくって、読んでくださいって言っているようなものだと思うよ」

 怒りで声が出て来ず、ギリッと奥歯を噛み締めるセレーネを無視してケイはポケットから今日の分の手紙を取り出すと、丁寧に中身を開いてテーブルに置いた。

「なるほどね、必要金額は前から随分とつり上がって××万円か。これから仕事をしても必要なお金がすぐに集まるわけがない。ましてや、内職なんかでどうこうなる額じゃない。セレーネさんは『自分は学がない』って卑下するけどさ、教えたらすぐに文字の読み書きも上達したし、お金の計算なんかは教えなくて上手にできた。値切り方もイヤらしくないし、効率よくお買い物をしてくれる。知識が少ないだけで頭の回転や動きそのものは良いんだよ。きっと、地頭がいいんだろうね。でも、そしたらさ、自分がしようとしてることが無駄なことも、俺にとってこの金額が出せない額じゃないってことも分かるよね。素直に頼んだらよかったんじゃない? 妹のためにお金が欲しいんですって」

 ケイがコツコツとテーブルを叩きながら言葉でセレーネに詰め寄る。

 すると、ケイの顔を睨んでいたセレーネの視線も手紙に書かれた必要額に移って、今度は悔しそうにギュッと両手を握った。

 どうにも苛立ちの隠せなくなったケイに「ねえ」と言葉を促されるが、俯くセレーネは苦しそうに「でも……」と口籠ったままだ。

 ケイの口からハッキリ「彼を頼る」という選択肢を提示されても、セレーネはそれを掴む気にはなれない。

 今もなお、セレーネは自力で問題を解決しなければならないと思い込んでいる。

 ケイのお金を頼ってはいけないと考えている。

 そして、性奴隷として彼に購入された以上は勝手に借金をすることができないとも考えている。

 そんなセレーネにとって「働く」というのは、ようやく思い付いた彼女にもできる最善の策だった。

 セレーネはひとまず日雇いの職に就いて金を稼ぎ、その分の金額をそっくりそのまま妹に送ってやろうと考えていたのだ。

 実際に外で何年も働いていたセレーネは、数日間、必死で働いてもメレーネの提示した金額を渡せないことを理解している。

 だが、それでも何も無いよりはマシだろうとセレーネは少額でも良いから金を送り、なんとか苦しい生活を食いつないでもらうつもりだった。

『でも、本当はご主人様の言う通りだ。そんな風にしても根本的な解決にはならない。少額じゃどこまで助けになれるか分からないし、何より、あの子には今すぐにまとまった額のお金が必要なんだから。でも、それでも、少しでもお金を渡したいのは、あの子を見捨てたくない私の自己満足だ』

 涙目になって下を向いたまま黙りこくっているセレーネをケイが冷ややかな目で見つめ続ける。

 ケイは無言で席を立つと、そのままセレーネの隣へ向かった。

「要するにセレーネさんは、お小遣いが欲しいんだよね」

 優しく微笑んでセレーネの腕を引っ張り、立たせると、

「ご主人様?」

 と、不安そうに自分を見上げてくる彼女の顎を上に向ける。

「セレーネさん、口を開けて」

「え?」

「いいから、口を開けて。動いちゃ駄目だよ」

 柔らかいはずの声質が固くなっている。

 ケイの声はどこか重々しくて威圧的だ。

 命令口調ではないのに声に晒されると体が鎖で縛りつけられるような違和感を覚え、息を出すのも苦しくなった。

 オーラに色がつく世界だったのならば、ケイは太陽光すらも飲み込む粘着質な黒を纏っていただろう。

 魂を可視化できたならば、きっと今だけは、彼の心は美しい形をしていない。

 輝いてすらいない。

 自分の中にあるケイの姿と現在の彼が結びつかず、混乱したセレーネが彼に対して恐怖を覚える。

 だが、それでも少しだけ口を開くとケイがニタリと笑んで、セレーネに覆いかぶさるように抱きついた。

 そして、まだ食べ物しか入れたことがない純粋で小さな口内に自分の舌を突っ込んだ。

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