【時間逆行の確定解】


 ──二〇一八年、四月二十二日、午前十一時五十二分


 カチ……カチ……カチ……。


 規則的な秒針の音で目を覚まし、時計を確認する。時刻は午前十一時五十二分。精神的な疲れからなのだろうか、どうやら二十分ほど気を失うように眠ってしまったようだ。病室内は静かで、まだ奈々の両親は戻ってきていない。目覚めの気怠い脳が覚醒を始め、そうだ鼻血──と思い出すと同時、割れるほどの頭痛に襲われる。鼻からは血が滴り、胃から何かせり上がってくるものを感じて吐きそうになる。何とか吐かないように手で抑えて立ち上がるが──

 トイレまでは耐えきれず、病室に備え付けられた洗面台で吐き出したのは大量の血。「なにこれ……」と呟きながら、私はその場にへたり込んだ。突然の体の異変に恐怖を覚え、吐いた血の量にも怯えてしまう。頭は割れるように痛いし、自然と涙が溢れた。そのまま十分くらいだろうか、その場で動けずにいると、幾分か頭痛と吐き気は収まり、鼻血も止まった。そうして思うのが──


「もしかして感染……とか……?」


 病院の先生や大学の保険医、新里さんは、奈々の倒れた原因は細菌でもウイルスでもなく、かといって毒物でもないと言っていた。だが急な私の体の異変を考えれば、もしかすれば──と思ってしまう。ただここで一人で考えていても仕方がないので、とりあえず洗面台に吐いた血を綺麗にし、口をゆすいで顔を洗った。


「私もおかしくなっちゃうのかな……」


 そう呟きながら顔を上げ、鏡に映った自分の顔を見て、私は少し違和感を覚えた。髪は胸が隠れるくらいのノーバングロングでいつも通りだし、有難いことに美人な母親に似て、小ぶりだが通った鼻筋と薄めの唇もいつも通りだ。長い睫毛やハッキリとした二重もいつも通りだし、右目の下の縦に二つ並んだ小さな泣きボクロもいつも通り。違和感を感じているせいで眉間に皺がより、眉毛は少し形を変えてはいるが──

 いつも通り整っている。


「んん……?」


 と違和感を探るように鏡に顔を近付け、今度は違和感の正体に気付いた「んん……?」という声を漏らす。

 鏡に映った自分の顔、ハッキリとした二重と少しぷくっとした涙袋に囲まれた濃褐色の瞳、その瞳の中の虹彩がゆらゆらと蠢いている。それは瞳孔の大きさを調節し、網膜に入る光の量を調節するための収縮運動ではないように見える。虹彩が霧のようになり、ゆらゆらと揺らいでいると言えばいいのか──

 そんな鏡に映る自分と目を合わせていると、再び激しい頭痛に襲われた。本当に頭が割れているんじゃないかという痛みに悶絶し、床をのたうってしまう。そうして頭の中には、覚えのない記憶の映像が次々と流れ込んできた。口からは自分でも聞いた事のないような呻き声が漏れ、あまりの痛みに死を想起してしまう。意識も朦朧となり、そこへ呻き声を聞いてだろうか、病室の扉が勢いよく開き、一人の男性医師が入ってきた。どこか見覚えのある顔で、ネームプレートには村田むらたと書かれている。「大丈夫ですか!?」と男性医師が私に声をかけるが、私の意識はそこまでで途切れた。



 ---



 カチ……カチ……カチ……。

 またも規則的な秒針の音で目を覚まし、「ん……」と声を漏らす。頭の中は霞がかかったように朧気で、とりあえず辺りを見渡した。視界に映った時計の針は、午後十四時十二分を指し示している。


「あれ……私……倒れて……」


 朧気な意識が覚醒し始め、自分の身に起きたことを思い出す。確か奈々のお見舞いに訪れて、鼻血を出して吐血し、その後に襲ってきた激しい頭痛で倒れたはず。なんとなく覚えている時間はお昼の十二時近くだったように思う。となれば二時間近く眠っていたことになる。


「ああ、起きたのね、橙野とおのさん。体調は大丈夫?」


 そんな私に、ちょうど病室へ入ってきた女性看護師さんが声をかけ、「鼻血を出して急に倒れたみたいね。とりあえず詳しいことは検査結果待ちだけど、ストレスかしら」とベッド脇まで来る。どうやら倒れた際は鼻血だけだったようで、吐血はしていないようだ。続けて女性看護師さんが「冴島さえじまさんのベッドの血も橙野さんの鼻血よね?」と問いかけてきたので、「はい」と短く答えた。なんとなく見覚えのある女性看護師さんなのだが、会ったのはどこでだったかと思う。名前を確認しようとネームプレートを見ようとして、だがネームプレートを見る前に「浜辺さん……」と、私の口は自然に名前を呟いていた。それと同時、ズキンと頭痛がして頭の中を様々な記憶が駆け巡る。

 激しい頭痛で倒れる前、鏡に映る自分の目を見て流れ込んできた記憶。それらがまるでパズルを組み立てるように音を立て、頭の中で一つの記憶として形を成していく。そうして組み上がった記憶により、時間が戻っているのだ──と、唐突にそう理解した。

 強姦され、拷問され、一度殺された奈々や多くの女の子達。犯人は奥村遥人で、時間を戻すことが出来る。さらに時間を戻す前に心が壊れた場合は、例え時間を戻したとしても元には戻らない。浜辺さんが普通にしていることから、やはり死んだだけでは例の症状にはならないということも分かった。あの症状を発症するのは、おそらく拷問などで心が壊れている場合なのだろう。

 ひとまず私は、時間が戻っていることを確認するため、浜辺さんにある質問をすることにした。


「浜辺さん」

「なぁに?」

「不倫してますよね?」

「え……?」

「昨日、家に入るところを目撃してしまって。村田先生と」


 もちろん目撃したというのは嘘だが、組み上がった記憶の確認のために吐いた嘘。私が意識を失う前、病室に入ってきた男性医師に見覚えがあると思ったのは、浜辺さんの記憶で見た不倫相手だったからだ。

 私の言葉に浜辺さんが絶句する。そうしてベッドを囲むカーテンを閉め、私の横に腰を下ろした。


「……誰にも言ってない?」


 不安げな浜辺さんの問いに、「はい」と短く答える。やはり時間が巻き戻っており、私は巻き戻る前の記憶を読めるのだと確信する。


「誰にも言わない……?」

「はい」

「本当に……?」


 浜辺さんは仕事よりもプライベートを優先するようで、おそらく私の容態を確認するために訪れたはずなのだが、仕事道具をほっぽり出して私に詰め寄る。長くなりそうなので、「私も不倫してるので、気持ち分かりますから」と嘘を吐いた。

 その言葉に安心したのか、浜辺さんの周囲に安堵を示す黄色いもやが揺らめく。病室に入って来た際は私を心配してだろうか、不安や心配を現す青に近い水色のもや。「不倫」と聞いた際は濃い藍色も混じったので、不倫に関してはいちおう後悔や反省はしているということだろう。

 力が上がっているな、と思う。これまで性質や感情を見る力は、時折ゆらっと揺らめく程度だったが、今は常に見えている。


「と、橙野さんはどんな相手と?」


 思いがけない浜辺さんの言葉に、「え?」と声を出してしまう。ここは「誰にも言わないでね」で、お互い終わる話だと思ったのだが──


「ご、ごめんなさい。橙野さんって美人だから、どんな相手と不倫するのかなぁって」


 ははっ、と、私の口から乾いた笑い声が漏れる。そんな私の様子を気にもとめず、「ほんと美人よねぇ」「こんな美人さんとやれるなんて相手の男性も本望ね」「スタイルいいんだからパンツじゃなくてミニスカートでも履いて脚を出せばいいのに」「私が男だったら絶対橙野さんのこと抱きたいって思っちゃう」と、浜辺さんが下世話な内容の話を興奮した様子で捲し立てる。私はその全てに曖昧な笑い声で返し、だが浜辺さんはそれを会話出来ていると思っているのか、楽しげだ。面倒を回避するために吐いた嘘で、面倒なことになってしまったなと思う。そのうえ、自分で言った「不倫している」という言葉で、高校時代の嫌な記憶が蘇る。


「それで? 相手は? 結構年上?」

「私は……、私は教師とですね」

「大学の?」

「いえ、高校のです」

「ええ!? いつからいつから!? もしかして高校生の時に先生とえっちしちゃったの!?」

「それは──」

 

 私が答えようとしたところで、ベッドを囲むカーテンが勢いよく開く。開いた先には赤いもやを纏った年配の女性看護師さんがいて、浜辺さんを睨みながら「何してるのかしら?」と凄む。それに対して浜辺さんは「え、ええと、橙野さんの容態に異常はなかったので、少し話してました」と、なんの処置や測定もしていないのに、普通に嘘を吐いた。


「まあいいわ。これから急患が来るから、浜辺さんは準備してちょうだい」

「わ、分かりました」


 浜辺さんが「また後で話聞かせてね」と私に言い、急いで病室から出て行く。年配の女性看護師さんも、「じゃあ橙野さん、何かあったら遠慮なくナースコールで呼んでちょうだいね」と言って微笑み、戻って行った。


「嫌なこと思い出しちゃったな……」


 自分が吐いた嘘で思い出した嫌な記憶に、思わず呟いてしまう。浜辺さんの「ミニスカートを履けばいいのに」という言葉も、追い討ちをかけるように当時の記憶を思い起こさせる。私だって出来ることならかわいいミニスカートを履きたいが、いつもパンツかショートパンツを履く。それもこれも「私も不倫している」という嘘に起因する。実はこの嘘だが、「している」ではなく「したことがある」という嘘だ。

 私は高校一年の時、担任の教師に恋をし、不倫をしてしまった──と思っている。その経験があるからこそ、罪悪感があるからこそ、「私も不倫している」という嘘が出たのかもしれない。ただ言い訳にはなってしまうが、私は不倫しているという意識はなかったし、ちゃんと相手にも「ダメです」「そういうことは奥さんと別れてから」と伝えた。伝えたうえで裏切られたのだ。

 彼は他の人よりも白やピンクのもやが大きく、正しく慈愛に満ちた人だった。もちろん時折だが黒いもやが揺らめいたりと、よくない色も見えたのだが、それはほとんどの人がそうであり、人なんてそんなものだと思っていたので、それほど気にはしていなかった。それよりも私には、人よりも大きい白やピンクのもやが魅力的に見えてしまい、気付けば彼を目で追うようになっていた。

 そんな中、彼も私に目をかけてくれるようになる。勉強を見てくれ、相談に乗ってくれ、いつしか彼のピンクのもやは、私に会う際に赤みを帯びるようになる。赤みを帯びたピンクは何度か見たことがある色で、それは学校や街中で恋人達にたまに揺らめく色。当時の私はそれを、深い愛情の色だと思っていた。私と彼は、放課後に勉強を見てもらうという体で頻繁に二人きりになり、徐々に距離が近付き、ある日、唐突に彼にキスをされ──

 彼が結婚していることを知っていた私は、「ダメです」と言ったのだが、彼は「妻とは上手くいってないんだ」と言って項垂れた。不倫をする人が使う常套句ではあるが、私はその言葉を信用した。なぜなら黒いもやが現れなかったからだ。そのうえ当時の馬鹿な私は、この言葉を「奥さんと別れるつもりなんだ」と勝手に解釈してしまう。よく考えれば分かることなのだが、確かに彼は奥さんと上手くいってなかったのだろう。だがそれは「別れる」ということには直結しないと考えられなかったのだ。初めてのキスに舞い上がり、深い愛情だと思っているもやに舞い上がり、そんな中で彼が提案した「週末ドライブに行こう」という誘いに、私は照れながら頷いた。



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