【疑心猜疑の精神潜行】
「うう……ん……」
腕が痛くて焼けるように熱い。挫いた足や壁に打ち付けた体も痛み、頭痛や吐き気もする。そんな最悪な気分の中で目を開けてみれば、霞む視界に蛍光灯の明かりが飛び込み、思わず「眩し……」と呟いた。少し視線を横にずらせば、清潔感のある白いカーテンが目に入る。鼻腔には微かに消毒液の匂い。
ああ、ここは病院のベッドか──と、上体を起こそうとしたところで、「無理に動かなくていいわ。足首は捻挫だけど、肋骨にヒビが入っている可能性があるそうよ。腕の怪我はそれほど深くはなかったけれど、痕は残るかもしれないらしいわ」と、知らない女性の声に止められる。そう言われて自分の体を見てみれば、腕や足首に包帯が巻かれている。
声の主はそのままベッド脇まで移動し、置いてある椅子に腰掛けて私の顔を覗き込んだ。とても綺麗な顔の女性だ。タイトな黒いスーツ姿で、黒く艶やかな長い髪を後ろで一本に縛っている。雪のように白い肌と、人形のように大きな目や長い睫毛。小ぶりな唇は艶やかで、女である私から見てもどこか性的だな、と思うほどに女らしい。今どき女らしいなんて言ったら不適切なのだろうとは思うが、目の前の女性はそう思わせるほどに色香を漂わせていた。
「
「無差別死傷……」
そう呟いた私は、ああ、あれはやっぱり夢じゃなかったんだと思うと同時、「お、女の子! あの女の子は!?」と叫んでいた。病院の玄関近くまで辿り着いたことはなんとなく覚えているが、そこからの記憶はない。私が無事だということは、
「あなたが抱えていた女の子なら無事よ。ショックで錯乱はしていたけれど、今は落ち着いているわ」
よかった──と、私の口から自然に声が漏れ、涙もぼろぼろと溢れる。あの出来事が現実だったとしたならば、よかったなんてとても言えないのだろうが、それでもあの女の子が無事だったことに安堵する。
「女の子はどこに……?」
「だいたいの軽傷者は近くの病院に搬送されたわ。こんなことがあったから、ここで診るには限界があるの。あなたも応援処置しか出来ていないし、落ち着いたら転院予定ね」
「助かった人もいたんですね……」
さきほど女性刑事──
あの
目からはじわりと涙が滲み、かたかたと体も震える。そんな私に「冴島さんなら無事よ。後で病室を教えるわね」と糸生さんが優しく声をかけ、背中をさする。その言葉に私は、しゃくりあげるようにして泣き出してしまう。肋骨は痛むが、どうしても泣くことを止められなかった。
---
「……落ち着いたかしら?」
泣き続ける私をしばらく慰めてくれていた糸生さんにそう問いかけられ、頷きながら「はい……」と答える。いまだ恐怖で体は震えるし、訳が分からないことだらけで落ち着いたなどとはとても言えないが、このまま泣き続けたところでどうにもならないと、なんとか顔を上げる。
「……それでこれから
そう探るように問いかける糸生さんの周囲には、白やピンクの
「はい……。でも私もよく分かってなくて……」
そこまで言ったところで、「あれ?」と私の口から疑問の声が出る。まだ私は糸生さんに名前を名乗っていないはず──と。
「私の名前……」
「ああ、あなたの名前は奥村──
糸生さんの言葉に、私の心臓がどっ、どっ、と破裂しそうな程に鼓動を早める。ここまでの流れで、奥村君が何かしら関わって──いや、あの
「あ、すみません……、まだ色々と頭の中で整理出来ていなくて。それで奥村君は今どこに?」
「ああ、奥村君なら──」
言いながら糸生さんが窓側、ベッドを囲む白いカーテンを開ける。そうして窓の外を見るので、私も視線をそちらに向けた。そこは駐車場で、様々な車がとまっている。
「──今日は冴島さんや橙野さんと面会出来ないって伝えたんだけれど、なんで待ってるのかしらね? わざわざあんな車まで……」
ゆらり、と糸生さんが纏う黒ずんだ紫色の
「駐車場ってことは、奥村君は車ですか?」
「ええそうみたいね。道路側から三列目、入口から数えて八台目の
「え……?」
思いがけない糸生さんの言葉に、私の視界がぐらりと揺れた。口からは「黒いワゴン車……」と言葉が漏れだし、揺れる視界で駐車場の黒いワゴン車を探す。道路側から三列目、入口から数えて八台目の──
「あぁ……」
私の口から漏れ出る、短くも絶望を表す音。視界の先には黒いワゴン車。そう、黒いワゴン車。車に詳しくない私だが、
つまり奈々の記憶の映像、黒ずくめの男は奥村君で──でもあの記憶の映像は現実に起きたことじゃないし──だけどここまで色々なことが繋がると──繋がったからといってあんな残酷なことを奥村君が──でも奥村君が冷たい目で生田さんを睨んで──生田さんが「死にたくない」って泣いていた映像は──生田さんの怨霊は──たくさん死んだ──浜辺さんを見殺しにした──私の嘘のせいで殺された人も──と、まとまらない思考が頭の中をぐるぐると回る。
「大丈夫?」
そんな混乱する私だったが、糸生さんの心配そうな声でハッと我に返る。が、体の震えが止まらない。声帯も萎縮して声が出せず、そんな私を糸生さんがじっと見つめているのが分かる。
「もしかしてだけど、奥村──奥村遥人君について、何か思うところがある……のかしら?」
再びゆらり、と糸生さんが纏う黒ずんだ紫色の
「なんで……そう思うんですか?」
「いえ、なんとなく聞いただけよ。違うのなら気にしないで」
ゆらり、と糸生さんの周りに黒い
「……何かありますよね?」
「何もないわ。変なこと言ってごめんなさい」
さらにゆらり、と糸生さんの周りの黒い
「私の目……、私の目なんですけど、変じゃないですか?」
「目? 目は負傷していなかったと思うけど……」
糸生さんが私の目を覗き込み、「特に異常はないけど──」と呟いたと同時、私の頭の中に知らない記憶の映像が流れ込む。それはおそらく糸生さんの記憶なのだろうが、やはり少し俯瞰した視点での映像。少し頭痛がし、また鼻血が出そうな感覚。
流れ込んだ記憶の映像の中、糸生さんは一人の男性とおそらく病院の廊下で話している。男性は刑事だろうか、糸生さんと同じスーツ姿で、三十代半ばくらいに見える。身長は高く、体は鍛えているのかスーツがぱつぱつだ。短く刈り揃えられた黒髪に精悍な顔つきで、鋭い目が少し怖い。そんな男性に向け、「何か分かったかしら?」と糸生さんが問いかける。
「頼まれてまだそれほど経ってないからな、詳細はまだだが……」
「分かったところまででいいわ」
「奥村の地元──青森でも、同じ症状の患者が過去に多数発生していたようだ。飛鳥中央大の四人とも、奥村は何かしら接触していた」
「やっぱりね」
「私が青森にいた時にも発生してたってわけだな。ちっ、全然知らなかったな」
「事件化されていないんだから仕方ないわよ。それに青森って言っても管轄は違うでしょ。事件化されていないうえに管轄も違うのであれば気付きようがないわ」
「いや、まだ詳しくは聞いていないが、五年前に起きた一件は私の管轄だったようでな」
再び男性がちっ、と舌打ちし、頭をがしがしと掻きむしりながら「それで奥村はどう関わってるんだ?」と鋭い目を糸生さんに向ける。それに対して糸生さんはため息を吐きながら頭を振り、「分からないわ。一連の不審な精神疾患も事件とは言えないし……」と力無く呟いた。
「そもそもなんで奥村が関わってると思ったんだ?」
「たまたまよ。ここの医者の
「ああ、あの不健康そうな医者か」
「彼と知り合いなのよ、私」
「それで?」
「横浜さんは青森出身なの。しかも離婚した奥さんが青森にいて、娘さんが同じ症状で長らく入院しているわ」
「なるほど」
「その横浜さんが奥村君と話しているところを見たのよ。その際『これはどういうことだ!』と奥村君に掴みかかって病院を指差していたの。ああ、それを見たのは現場に駆け付けてすぐよ」
「……横浜の言う
「答える前に横浜さんが看護師に呼ばれて立ち去ってしまったの。だから横浜さんを追いかけて聞いたのよ。『さっきの男の子に言ったのはどういう意味ですか?』って。でも横浜さんには『なんのことかな』とはぐらかされてしまったわ。奥村君に対してかなり怯えているように見えたし、態度にも違和感があったのよね……、その後で奥村君にも聞いてみたけれど、やっぱりはぐらかされて」
「怪しいな。奥村の地元で起きていた複数の謎の精神疾患に、同様の事案が奥村が入学してすぐの大学で立て続けに四件。さらにその四件での入院患者がいる病院での無差別死傷事件と、同じ症状の娘を持つ横浜と面識がある様子の奥村」
そこまで話した男性が再び舌打ちをして頭を掻きむしり、「全然分からないな」と苛立った様子で呟く。
「そもそもこの事件だって訳が分からない。『化け物が人を殺している』『怨霊が──』『幽霊が──』という通報で駆け付けてみれば、確かに多数の死傷者がいた。だが犯人の姿はないし、目撃者は口を揃えて『化け物』『怨霊』『幽霊』と口にする。監視カメラは壊れてるのか砂嵐みたいな映像しか映ってないし、通報の電話だって故障してるみたいに音質が悪かったと聞いた。犯人は電子機器をクラッシュさせる道具でも持ってたのか? それに詳しく調べなきゃ分からないらしいが、被害者は体を引き千切られている。しかも
男性が捲し立てるように話していると、糸生さんが「落ち着いて、
ここまでで糸生さんの記憶の映像は途切れたのだが、私はうっかり「やっぱり奥村君が……、特殊公安……? 怨霊を信じて……」と呟いてしまう。鼻からはぽたりと血が滴り、慌てて手で拭った。そんな私を驚いた表情で糸生さんが見つめる。
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