【苦悶怨嗟の追跡者】


 苦しい、痛い、なんで、死にたくない、嫌だ、助けて──と、頭の中で同じような言葉がぐるぐると回る。意識が朦朧とし、滲む涙で目の前が霞む。ああ私、死ぬんだ──

 そう思いながら、もはや途切れかけた意識の中での目をぼんやり見つめる。すると頭の中に、知らない記憶の映像が流れ込む。相手が人間ではないからだろうか、映像は荒く断片的で、判別不能な映像がいくつも流れ込んできた。そんな中、荒くはあるが見覚えのある映像が浮かぶ。奈々の記憶で見た、あの黒いワゴン車の車内と黒ずくめの男の姿だ。車内にはこの記憶の主のものだろうか、鞄がひっくり返っていた。その鞄からはいくつかノートが飛び出し、よくは見えないがと書いてあるように見える。さらにこの記憶の主は「痛い」「やめて」「殺さないで」と泣き叫び、「奥村君」と叫んだ気がする。


 気が付けば私は、その映像で見たという言葉を、圧迫されてろくに発声も出来ない声帯から絞り出していた。それと同時、私の首を絞める力がふっ、と弱まる。急に開放された私の喉が、かはっと音を出した後でひゅうひゅう息を吸う。

 見れば目の前のは手で顔を覆いながら、「なんで……」「おくむらくん……」「わたしがなにを……」と言って震えていた。

 今しかない──と、恐怖で力の抜けた足でなんとか駆け出す。階段からエレベーターホールへ出てみれば、数人の患者と看護師の姿が見え、私は無我夢中で「た、助けて下さい!」と叫んでいた。その叫び声で「どうしたんですか?」「大丈夫ですか?」と何人かが私の元に駆け寄るが、皆一様にエレベーターホールに溢れる薄く斑な黒いもやや、階段側の異変には気付いていない様子。

 私は「あれ! あれが見えないんですか!?」と叫んで階段を指差すが、「あれ?」「何かいるんですか?」と、やはり見えていない。そんな中、五十代くらいの男性患者が一人、階段の方へと向かって歩き出した。そのまま階段を覗き込み、首を傾げた後で「何もありませんよ」と言いながら振り向く。


 ビチャン。


 初めは何が起きたのかが分からなかった。誰もが呆然とし、しばらくの沈黙が訪れる。階段を見に向かった男性の首が──


「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 耳を劈くような女性看護師の叫び。そう、。周りの人達に聞こえているかは分からないが、階段からは「ア゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ッ゛!!」と、悍ましい叫び声が響く。

 突然の異常事態に誰もが凍りつく中、べちゃり、ずず、べちゃり、ずず、と、がエレベーターホールへ姿を現した。のだが、やはり見えているのは私だけのようで、誰もの姿には反応しない。


 え? 死んだ? 殺された? なんで? 嘘でしょ? と混乱する頭の中、私はその場から逃げるように駆け出していた。駆け出した瞬間、後ろから悲鳴が聞こえたので振り返ってみれば、男性看護師の胴体が引き千切られ、噴水のように血を吹き出している。そうしては再び私に視線を向け、「ア゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ァ゛ッ゛!!」と叫び声を上げながら這ってきた。

 なんで? なんで私なの!? 見えてるから!? とにかく逃げなきゃ! と駆け出すが、どこに逃げればいいのかが分からない。階段はあの這ってくるの後ろだし、はエレベーターホールにいるので、エレベーターも使えない。それなら非常階段は──と辺りを見渡したところで、エレベーターホールの手前、泣き叫ぶ幼い女の子の姿が目に入る。もしかすれば先程殺された男性の娘なのだろうか、女の子はそちらに歩きながらお父さん、お父さんと叫んでいる。そんな女の子の少し先、這って迫るの姿。先程からは進行上にいる人を殺しているように見える。このままいけばあの女の子は──と思った瞬間には、私は女の子目掛けて駆け出していた。すでには女の子の目前で、血塗れの腕を振り上げ──


「だめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」


 私は叫びながら女の子に飛びつき、抱きしめて床を転げる。左腕に激痛が走り、見れば二の腕の肉が抉られていた。おそらく女の子目掛けて振り下ろされたの手が、私の二の腕に掠って肉を抉ったのだろう。焼けるような痛みに涙が滲むが、運良くの背後、階段側へと来ることが出来た。女の子は首が千切れ飛んだ男性の方に視線を向けて「お父さぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!」と叫んでいるが、今は逃げるしかない。

 もはやエレベーターホールはパニックで、の姿が見えていない人達の体が次々と引き千切られていく。だがなおもは私に視線を向け、悍ましい叫び声を上げていた。逃げようとは思うのだが、体が上手く動かせない。肉の抉れた二の腕は熱を持ち、足が震えて動けず、こちらに迫るをただ見つめてしまう。するとの体が一瞬、ザザっと歪んだ気がし、パニックに陥っているエレベーターホールに「ば、化け物だ!」「な、なにあれ!」という叫び声が響き渡る。どうやらの姿が他の人にも見えるようになったようで──


 叫び声の中、「い、生田さん!? 生田さんなの!?」という浜辺さんの驚いた声が聞こえてきた。見れば階段の方へ逃げようと駆けてきた浜辺さんが、の横顔を見て、そう叫んだようだ。は「生田さん」という声に反応したのか、首をぐりんと浜辺さんへ向ける。そうして恐怖で腰を抜かし、泣き叫ぶ浜辺さんに這い寄ると──

 みちみちと嫌な音を響かせ、腕を引き千切った。


 目を覆いたくなる光景と、耳を塞ぎたくなる浜辺さんの絶叫。私の頭の中は恐怖でパニックになるが、とにかくこの場から逃げなければと、女の子を抱えたまま震える足で駆け出した。勢いに任せて階段を駆け下り、だが足がもつれて踊り場で一度転ぶ。その際、壁に体を強く打ち付けたが、なんとか女の子は無事。打ち付けた体が痛み、おそらく転んだ拍子に足も挫いたようでズキズキと痛む。相変わらず二の腕も焼けるように痛み──


 あはぁ──と聞こえて視線を上げれば、二階の踊り場にの姿。は「おくむら……くん……」と呟いた後で、再び悍ましい叫び声を上げ、こちらに向かって下りてきた。

 周りもこの悍ましいが見えるようになったのにも関わらず、執拗に私を追ってくる。なんで!? どうして!? と思うが──

 は、私や浜辺さんの発した「生田」という言葉に反応したように思う。それに加えて「奥村君」という言葉にも反応するし、自体も「おくむらくん」と呟いている。浜辺さんはの横顔を見て「生田さんなの!?」と叫んでいたし、入院中の生田さんも「奥村君」と呟いていたと、浜辺さんの記憶の映像で見た。そうして様々と考えを巡らせれば、目の前のということなのではないかと思い至る。いや、生田さんは死んではいないはずなので、生霊ということになるのだろうか。そうして激しい憎悪を示す赤紫色のもやを纏い、奥村君という言葉に反応する。つまり──


「奥村君に恨みがあるってこと……?」


 ずず──

 べちゃり──

 ずず──

 べちゃり──

 あはぁ──


 体の痛みでその場を動けない私に、ゆっくりとが迫る。私の腕の中では女の子が恐怖から過呼吸のようになって震え、とにかく逃げなければと思うのだが、立ち上がろうとしても足が痛む。ゆっくりとだが確実に近付いて来るに対し、無力な私は「来ないでぇ……」と掠れた声を絞り出して震えることしか出来ず、もはや目の前まで迫ったと目が合う。

 それと同時、頭の中に流れ込んで来る覚えのない記憶の映像。やはりからの記憶の映像は荒く、判別が難しいが──

 そこには奥村君と、おそらく生田さんの姿。奥村君は冷たい目で生田さんを睨み、生田さんは「死にたくない」としゃくり上げるようにして泣いている。判別出来たのはこの映像だけだが、やっぱりだ! と思う。この目の前の怨霊だか生霊だかのは生田さんで、なおかつ奥村君と面識があり、恨んでいるのだと。

 そうして私がと発言したことで、おそらく条件反射のように私を追いかけているのだ。

 それならばと、私は最後の望みをかけ、の背後、二階に視線を向けて手を伸ばし、「ま、待って奥村君! 逃げないで! 逃げないで助けてよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」と叫んだ。追い詰められた上での苦肉の策。これでが二階に奥村君がいると思ってくれればもしかすれば──という、策とは言えない半ばやけくその策。おそらく通じないのだろうし、この後で訪れる苦痛と絶望を想像して涙が溢れる。

 だがそんな私の想像に反し、は首を傾げた後で後ろを振り向き、「おくむらくん……おくむらくん……」と呟きながら階段を上り始めた。


「う、うまくいったぁ……」


 こんな作戦がうまくいくとは思わなかったが、は二階に奥村君がいると思ってくれたのだろう。危機を脱したことで体から力が抜けるが、今のうちに逃げなければと立ち上がる。そうして女の子を抱えたまま、痛む足を引き摺って病院の玄関まで向かう。途中、外から複数のパトカーのサイレンが近付いている音が聞こえ、ああ誰かが通報したんだ、これで助かるんだと、安堵から足の力が抜ける。意識も朧気になっていき、あと少し、あと少しで玄関だ──というところで、私はスイッチが切れるように意識を失った。意識が途切れる瞬間、女の子を下敷きにしないように体を捻った気がするが、女の子の無事を確認することは出来ず、私の視界は暗転した。

 



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