【赤紫色の霧状霊】
浜辺さんから流れ込んできた記憶の映像は、視界の端に映るデジタル時計の日付から、おそらく昨夜の記憶。浜辺さんの部屋だろうか、交際相手と思われる男性との甘やかな情事の記憶。いや、「先生、今日も泊まれますか?」「悪い、連泊だと妻に怪しまれるんだ」という会話から、不倫だということが窺い知れる。
おそらくこの病院の医者だろうか、若い印象を受けるが、その男性が浜辺さんに覆いかぶさりながら、首筋を強く吸う。
ああ、だから浜辺さんの首筋に絆創膏が貼ってあったのかと、一人納得した。
そのまま二人は行為を続けながら、仕事の会話をする。行為中に仕事の会話をするなんてとは思うが、関係が長ければ、そんなこともあるのかもしれない。奈々も長く続いた彼──もう別れたと言っていた──とは、そんな感じだと言っていた気がする。
二人の会話は喘ぎ声に遮られながらも続き、気になる会話が聞こえてきた。
「冴島さんで同じ症状は四人目か」
「短期間で多すぎですよね。先生が診ている
「変わらずだ。だが気になる言葉を呟いていた」
「気になる言葉?」
「ああ、
「彼氏さんとかですか?」
「分からない。大学に問い合わせてみたが、プライベートなことは答えられないと」
「まあそうですよね」
「とりあえず親やお見舞いに訪れる友人に聞いてみるつもりだが……」
「私も聞いてみますね」
「助かるよ」
「それより先生……」
「なんだ?」
「今日は安全だから……」
「安全な日なんてないよ」
「もう……」
ここまでで浜辺さんの記憶の映像は途切れたのだが、私は驚いてしまう。もちろん浜辺さんが不倫していたからなどではない。会話内容から、おそらく奈々と同じ症状で入院している
「奥村君……?」
そう、
生田さんがどういった経緯で
でも──とは思うし、何となく嫌な予感がする。
気付けば私は、ふらふらとナースステーションへ向かっていた。
部外者である私に病室を教えてくれるかは分からないが、浜辺さんなら教えてくれそうな気はする。こんなことを思って本当に申し訳ないとは思うが、不倫をするのならば
そう考えている自分に冷めてるな、私、と思うが、だけど私はそういう人間だ。人の性質や感情が色で分かってしまうせいで、人に過剰に期待しない。口先の甘言に絆されて、性質や感情の色を無視した挙句に何度も痛い目に遭ってきた。浜辺さんの色は見えなかったが、これまでの経験や見えた記憶で、
そんなことを考えながらナースステーションへ向かって歩いていると、ナースステーションの手前、二〇一号室の扉の前に、黒い
女性の形となった
ああ、この子は幽霊なんだなと、何となく悟った。もちろん今まで幽霊なんて見えたことがないし、正直ホラーなどの心霊系の話は苦手だ。だけどやはり見える色によって怖いとは思わないし、むしろ悲しくさえ思えてしまう。聞こえてきた呟きで全てを把握することは不可能だが、目の前のこの子は悪い存在ではないのだなと思う。そうして周りを見てみれば、そこかしこに斑な黒い
「こんなにたくさん……」
病院内に溢れる斑な黒い
え……、私が見つめると……? もしかして虹彩の変化のせい? 虹彩が動いてから記憶が見えるようにもなったしと、目の前の出来事も自分の虹彩の変化のように思う。
「あ、浜辺さん」
そうして困惑していた私の前に、浜辺さんが姿を現したので声をかけた。
「あ、橙野さん。どうしたの?」
「ええと……、生田さんの病室が知りたくて」
「友達?」
「何度か話したことがあります」
私のその言葉にやはりというべきか、浜辺さんは「生田さんなら三〇八号室よ」と躊躇うことなく答え、続けて「そういえば生田さんと友達なら、奥村君って知ってる? 生田さんの知り合いだと思うんだけど──」と問いかけてきた。この言葉を聞いて、覗き見た浜辺さんの記憶は本当にあったことなのかもしれないと思うが、もしかすればただ単に生田さんが呟いている言葉を浜辺さんが聞いただけの可能性もある。それを確かめるために、昨日の夜は何してましたか? と浜辺さんに尋ねるのもおかしいし、浜辺さんの言う奥村君が私の知っている奥村君と同じとも限らない。
ひとまず私は「ちょっと分からないです。病室教えて頂いてありがとうございます」と答え、ナースステーションを背にする形で右手奥、エレベーターホールへと向かう。エレベーターホールのさらに奥、右手側には階段もあり、三〇八号室のある三階までは階段でもいいかと、そちらへ足を向けたところで──
じわり、と、階段の方から薄く斑な黒い
階段から滲み出す
さすがに怖くなってきたのだが、せめて確認をしようと階段の目の前まで足を進める。どうやら
ずるり、と、赤紫色の
そうして私はこの
憎悪や怨嗟。
見てはだめだ、見ていてはだめだ、これは絶対に
血に塗れた長い髪。
皮膚が半分ほど剥がれた顔に、裂けた口角と半分ほど削げた鼻。
左目は潰れているのか空洞で、右目は真っ赤に充血している。
腕や脚は骨が見えるほどに肉が抉れ、這うようにしてべちゃりと階段へ叩き付ける手には、指が数本しかない。
ひっ、と私の口から短い悲鳴が漏れる。その間も
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃぃ……」
なんに対しての謝罪なのかもよく分からないが、とにかく私は声を絞り出した。だがそんな言葉が通じるはずもなく、気付けば
痛い、苦しい、助けて──と叫びたいが、凄まじい力で首を絞められて声が出ない。恐怖と苦しさでじわりと小便を漏らし、何とか首を絞める手を引き剥がそうとするが、
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