【赤紫色の霧状霊】


 浜辺さんから流れ込んできた記憶の映像は、視界の端に映るデジタル時計の日付から、おそらく昨夜の記憶。浜辺さんの部屋だろうか、交際相手と思われる男性との甘やかな情事の記憶。いや、「先生、今日も泊まれますか?」「悪い、連泊だと妻に怪しまれるんだ」という会話から、不倫だということが窺い知れる。

 おそらくこの病院の医者だろうか、若い印象を受けるが、その男性が浜辺さんに覆いかぶさりながら、首筋を強く吸う。

 ああ、だから浜辺さんの首筋に絆創膏が貼ってあったのかと、一人納得した。

 そのまま二人は行為を続けながら、仕事の会話をする。行為中に仕事の会話をするなんてとは思うが、関係が長ければ、そんなこともあるのかもしれない。奈々も長く続いた彼──もう別れたと言っていた──とは、そんな感じだと言っていた気がする。

 二人の会話は喘ぎ声に遮られながらも続き、気になる会話が聞こえてきた。


「冴島さんで同じ症状は四人目か」

「短期間で多すぎですよね。先生が診ている生田いくたさんはその後どうです?」

「変わらずだ。だが気になる言葉を呟いていた」

「気になる言葉?」

「ああ、と呟いていたな。人の名前を確認したのは初めてだ」

「彼氏さんとかですか?」

「分からない。大学に問い合わせてみたが、プライベートなことは答えられないと」

「まあそうですよね」

「とりあえず親やお見舞いに訪れる友人に聞いてみるつもりだが……」

「私も聞いてみますね」

「助かるよ」

「それより先生……」

「なんだ?」

「今日は安全だから……」

「安全な日なんてないよ」

「もう……」


 ここまでで浜辺さんの記憶の映像は途切れたのだが、私は驚いてしまう。もちろん浜辺さんが不倫していたからなどではない。会話内容から、おそらく奈々と同じ症状で入院している生田いくたさんが呟いた名前──


「奥村君……?」


 そう、だ。そこで私が見た奈々の記憶の映像を思い出す。奈々を惨たらしく殺した相手は、黒ずくめで黒いマスクにサングラス姿。帽子も被っており、だが色素の薄い髪がちらりと見えた。そうして私は。帽子からはみ出すくらいはある、少し長めの奥村君の髪を。他学部の奥村君が、授業終了後すぐに奈々を医務室へ運んだことも違和感があったし、何故かその後すぐに七戸鳴海しちのへなるみから私を逃がしてくれたのも奥村君。そうして入院中の生田さんが呟いた名前も奥村君。漠然とだが、この意味の分からない状況に奥村君が関わっているような気がしてしまう。

 生田さんがどういった経緯でなったのかは分からないし、もしかすれば浜辺さんの記憶で言っていたように、奥村君と交際しているのかもしれない。それに奥村姓なんてたくさんいるし、別の奥村君かもしれない。奈々の記憶で見た黒いワゴン車の中は薄暗かったので、髪色が奥村君と同じように見えただけかもしれないし、そもそも奈々や私の記憶の映像は実際に起きたことではない。つまりそれは、浜辺さんの記憶の映像も本当かどうかは分からないということになる。

 でも──とは思うし、何となく嫌な予感がする。

 気付けば私は、ふらふらとナースステーションへ向かっていた。。ここまでの流れで、相手の目を見つめることで記憶の映像が流れ込んでいるのだろうと予想は出来る。もちろんその記憶の映像が正しいものかどうかは分からないが、ひとまず生田いくたさんの目を見つめれば──と。


 部外者である私に病室を教えてくれるかは分からないが、浜辺さんなら教えてくれそうな気はする。こんなことを思って本当に申し訳ないとは思うが、不倫をするのならばと考えてしまうからだ。人を好きになる気持ちは抑えられないので仕方ないとは思うが、がしたいのであれば、相手の男性医師が奥さんと別れてからだ。体の関係を求めているだけであれば、それはそれで緩いと思うし、ただ一番の理由はそこではない。見える場所にキスマークを付けていることが、仕事に対しての緩さを物語っているように思う。

 そう考えている自分に冷めてるな、私、と思うが、だけど私はそういう人間だ。人の性質や感情が色で分かってしまうせいで、人に過剰に期待しない。口先の甘言に絆されて、性質や感情の色を無視した挙句に何度も痛い目に遭ってきた。浜辺さんの色は見えなかったが、これまでの経験や見えた記憶で、。嘘になってはしまうが、生田さんと話したことがあるとでも言えば教えてくれるだろうと思う。


 そんなことを考えながらナースステーションへ向かって歩いていると、ナースステーションの手前、二〇一号室の扉の前に、黒いもやが揺らめいていた。嘘や悪意や敵意を示す黒いもやではなく、薄く斑な黒いもやもやの高さは私と同じくらいで、なにあれ、と凝視してしまう。するともやはぐねぐねと蠢き、気付けば。不思議と怖くはなく、私はをじっと見つめた。

 女性の形となったもやは濃い藍色に変わったのだが、私はこの色を知っている。濃い藍色は深い後悔と反省の色で、そのうえ濃い藍色の中に、慈愛や正しさを示す白や、友愛や親愛のピンクも見える。おそらく私はこの色のおかげで、目の前の常識から逸脱した存在を怖いと思わないのかもしれない。

 は二〇一号室の扉の前で何事かをぶつぶつと呟いており、恐る恐る近付く。すると消え入りそうなか細い声で、「ごめんなさい……」「言うこと聞けばよかった……」「親不孝だね……」「先に死んでごめんね……」と聞こえてきた。


 ああ、この子は幽霊なんだなと、何となく悟った。もちろん今まで幽霊なんて見えたことがないし、正直ホラーなどの心霊系の話は苦手だ。だけどやはり見える色によって怖いとは思わないし、むしろ悲しくさえ思えてしまう。聞こえてきた呟きで全てを把握することは不可能だが、目の前のこの子は悪い存在ではないのだなと思う。そうして周りを見てみれば、そこかしこに斑な黒いもやが溢れていた。


「こんなにたくさん……」


 病院内に溢れる斑な黒いもや。それは。何となく視界に入っているくらいであればもやのままなのだが、私が見つめることで形を成す。

 え……、私が見つめると……? もしかして虹彩の変化のせい? 虹彩が動いてから記憶が見えるようにもなったしと、目の前の出来事も自分の虹彩の変化のように思う。


「あ、浜辺さん」


 そうして困惑していた私の前に、浜辺さんが姿を現したので声をかけた。


「あ、橙野さん。どうしたの?」

「ええと……、生田さんの病室が知りたくて」

「友達?」

「何度か話したことがあります」


 私のその言葉にやはりというべきか、浜辺さんは「生田さんなら三〇八号室よ」と躊躇うことなく答え、続けて「そういえば生田さんと友達なら、奥村君って知ってる? 生田さんの知り合いだと思うんだけど──」と問いかけてきた。この言葉を聞いて、覗き見た浜辺さんの記憶は本当にあったことなのかもしれないと思うが、もしかすればただ単に生田さんが呟いている言葉を浜辺さんが聞いただけの可能性もある。それを確かめるために、昨日の夜は何してましたか? と浜辺さんに尋ねるのもおかしいし、浜辺さんの言う奥村君が私の知っている奥村君と同じとも限らない。

 ひとまず私は「ちょっと分からないです。病室教えて頂いてありがとうございます」と答え、ナースステーションを背にする形で右手奥、エレベーターホールへと向かう。エレベーターホールのさらに奥、右手側には階段もあり、三〇八号室のある三階までは階段でもいいかと、そちらへ足を向けたところで──


 じわり、と、階段の方から薄く斑な黒いもやが滲み出す。もはや見慣れたせいか恐怖心などは微塵もわかず、ああ、階段にも幽霊がいるのか程度に思い、そのまま階段へと向かう。だが──

 階段から滲み出すもやはじわりじわりと増え続け、気付けばエレベーターホールがもやで溢れていく。先程まで見ていた薄く斑な黒いもやは、ほとんどが。だが目の前のもやは違う。


 さすがに怖くなってきたのだが、せめて確認をしようと階段の目の前まで足を進める。どうやらもやは三階から溢れてきているようだ。それにしてもすごい量のもやだな、これまでの幽霊とは違うのかなと思いながら、三階へ向かう階段の一段目に足をかけた私の視線の先、二階と三階を繋ぐ踊り場──


 ずるり、と、赤紫色のもやの塊が、這うようにして姿を現す。と表現したのは、もやの塊が階下、こちらに向かって進む度、ずず、ずず、と何かを引き摺る様な音がするからだ。もやの塊が階段へと差し掛かったあたりでは、ずず、という音に加え、べちゃり、という湿った何かを床へ叩き付ける様な音もする。べちゃり、ずず、べちゃり、ずず、と音を立てながらもやの塊が踊り場を進み、確実にこちらに向かっている。

 そうして私はこのもやの色を知っている。赤紫色のもやは──


 憎悪や怨嗟。

 

 見てはだめだ、見ていてはだめだ、これは絶対に──と、この段になってようやく私の心が警鐘を鳴らす。この場から立ち去ろうとするが、足が震え、腰が抜けてその場にへたり込む。目を逸らしたいが、時すでに遅く、おそらく私が見つめ続けたことでもやの塊が形を成していた。ずず、べちゃり、ずず、べちゃり、と階段を下りながら、う゛あ゛ぁ゛と苦しげな呻き声を上げ、気付けばは、


 血に塗れた長い髪。

 皮膚が半分ほど剥がれた顔に、裂けた口角と半分ほど削げた鼻。

 左目は潰れているのか空洞で、右目は真っ赤に充血している。

 腕や脚は骨が見えるほどに肉が抉れ、這うようにしてべちゃりと階段へ叩き付ける手には、指が数本しかない。

 ひっ、と私の口から短い悲鳴が漏れる。その間もは苦しげな呻き声を上げながら、確実に私に向けて進む。呻き声に混じり、──と、身の毛もよだつ笑い声を上げ、いたい、ゆるさない、ころさないで、ころしてやる──と、苦悶と怨嗟の言葉を交互に呟く。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいぃぃぃ……」


 なんに対しての謝罪なのかもよく分からないが、とにかく私は声を絞り出した。だがそんな言葉が通じるはずもなく、気付けばの顔が私の目の前に迫る。裂けた口角がにぃ、と上がり、血走った目がじぃ、と睨む。あまりの恐怖で私の声帯は、「あ、あ、あ」と壊れた人形の様な音しか出せなくなっていた。は私を睨みつけたまま、数本しか指が残らない手で、私の首をギリギリと締め始める。

 痛い、苦しい、助けて──と叫びたいが、凄まじい力で首を絞められて声が出ない。恐怖と苦しさでじわりと小便を漏らし、何とか首を絞める手を引き剥がそうとするが、の首を絞める力はどんどんと増していく。

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