赤黒い渦

鋏池 穏美

【妄執のプロローグ】


 夜明け前の薄闇に薄明が差し、淡く紅色が溶けてゆく。見上げた空がゆっくりとだが、日の巡りを見せつけていた。吹く風は春の訪れが近くとも、身を切るように寒々しく、踏みしめる足元にはいまだ残る雪。

 ああ、こうして時間は過ぎ去っていくのだなと、柄にもなく感傷に浸る。

 感情などとうに捨てたと思っていた。いや、壊れたと言った方が正しいだろうか。

 僕にはなにもない。

 そう、なにも。

 まるで眼前の銀世界のように、全てが白で埋め尽くされた──

 そう考えたところで、ははっ、何が眼前の銀世界のようにだと、一人駅のホームで笑ってしまう。

 黒だ。黒。心は真っ黒に塗りつぶされている。降り積もる白い雪などではなく、心の内にあるのはヘドロのように堆積した、コールタールのような黒。

 視線をあげれば刻刻と日が上り、徐々に辺りは白んでいくが、心はそれと反比例するように暗く澱んでいく。時が進むならば進まなければならない。この何もない、いや、僕にとっては憎悪という闇しかない、狂った世界を進まなければならない。


「あの悪魔だけは……」


 思わずそう呟き、拳を握る。

 悪魔、そうは悪魔だ。嘲笑し、蹂躙し、徹底的に人を弄ぶ悪魔。

 握りこんだ拳には、自然と力がこもる。ギリギリと噛み締めた口元からは、凍てつく風によってひび割れたのだろうか、ぽたりと血が滴った。落ちた一滴の血の雫が足元の雪に溶け、じわりと薄い紅色の点を刻む。


「あ! いたいた鳴海なるみー!」


 息を切らし、幼なじみの藤島雪穂ふじしまゆきほが駅のホームへと駆け込んでくる。急いで出てきたのだろうか、寝巻の上に厚めのダウンジャケットを着ているだけのように見える。黒く長い髪を雑に後ろで一本に束ね、ぱらぱらと顔に纒わり付く後れ毛からも、彼女が急いで家を出てきたことが伺えた。


「出発する日教えてって言ったよね!?」

「……誰に聞いた」


 出発の日時は誰にも教えていなかったはず──と、藤島の質問には応じずにそう答えると、彼女がかける赤縁の眼鏡越し、泣きそうな瞳と目が合う。


「駅に向かうには平田ひらたの家の前通るでしょ。さっき平田から『鳴海の出発今日みたいだ』って連絡きたの」


 平田──平田俊哉ひらたとしやは、藤島と僕のクラスメイトだった男。クラスメイトだったというのも、僕はこの春、この東北地方の寂れた町から東京の大学へと進学する。誰にも言わず、ひっそりと全てを終わらせるつもりだったのだが、この平田の余計なお節介に思わずちっ、と舌打ちが出る。


「なんで……? なんでそんなに変わっちゃったの……? あの日から鳴海おかしいよ! 平田だって本当は見送りたいけど最近の鳴海が怖いって! 人でも殺しそうな目をしてるって!」

「なにも知らない奴がなんて軽々しく口にするな」


 突き放すような僕の言葉に、藤島がぼろぼろと涙を流す。手は悔しそうにダウンジャケットの裾を握りしめ、声にならない声で嗚咽する。


「私だって……、私だって言いたくて言ってるんじゃない! 鳴海が……、鳴海があの日に囚わ──」


 藤島はそこまで言うと、「ふぐぅ」と言葉に詰まり、その場に崩れ落ちた。それと同時、ホームに電車がやってくる。二〇一八年、三月十八日、午前四時五十二分。僕はこの電車に乗って二週目を始める。

 に僕の心は一度死んだ。大切な人を失い、家族はバラバラになり、心はひしゃげ、潰れて死んだ。

 一年。

 ここまで一年だ。

 準備はほとんど終わっている。たとえ仮説が間違っていたとして、これ以外に方法はない。これまでの自分を捨て去り、悪魔に魂を売り払ってでも目的を遂げてみせる。

 そうして僕は泣き崩れる藤島に、「もう藤島の知ってる鳴海はいないんだ」と視線も向けずに告げ、電車に乗り込んだ。


 出発を報せるベルが鳴り、がたんと電車が動き出す。叫ぶ藤島の声も遠ざかっていき、ふと、窓の外を見る。

 切り取られた景色は加速度的に進み、見慣れた世界を後ろへと追いやる。

 そう、進むんだ。

 過去や何もかもを置き去りに、優しさも同情も切り捨て──


 終わりへと向け、進むんだ。

 


 

 

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