【赤黒色の大赤斑】


 ──二〇一八年、四月二十一日、午後十六時五十分


「ふぅ──」


 午後の授業を終え、私はため息をきながら帰り支度を始めた。パタンと閉じたノートパソコンには、慎重な性格を表すように「文学部心理学科一年、橙野桜とおのさくら」とシールが貼ってある。大学に入学して三週間。なんとなく慣れてはきたし、やりたかった臨床心理学は楽しい。何人か気の許せる友人も出来たし、今のところ上京しての大学生活に不満はな──

 いや、不満がないと言えば嘘になるのだろう。だからこその先程のため息だ。


「一目惚れって……」


 つい思っていることを呟いてしまう。そう、ため息の原因である一目惚れ。どういった訳か私は、他学部の男子学生に一目惚れされたらしく、連日の猛アタックに疲弊していた。なんで私なのだろうか、と思う。一目惚れと言っていたけれど正直怖いし、勘弁して欲しいな、とも思う。

 噂によれば、私に猛アタックする男子学生、七戸鳴海しちのへなるみは、頭脳明晰でスポーツ万能。とても誠実で正しく、高校時代には何度となく人助けをして表彰されているような、まるで漫画やアニメの登場人物のような存在──らしい。

 見た目も涼やかな切れ長の目に、清潔感のあるサラサラの黒髪短髪。アップバングにした前髪も好印象で、まあ、正直な話で言えば見た目はタイプだ。

 だけどと言ったのには訳がある。実は私は──


橙野とおのさーん! これから帰りなら一緒に帰らなーい?」


 来た。彼──七戸鳴海だ。彼はいつも私の四限目が終わった頃に姿を現す。基本的に私は朝活派で夜はゆっくりしたいタイプ。なので大学の授業は一限から四限でほとんどまとめているので、帰る時間がある程度決まっている。誰かに聞いたのか自分で調べたのかは分からないが、そうやって私の行動をいつの間にか把握しているところも怖い。と言っても、怖い理由は他にちゃんとある。

 今も笑顔で手を振りながら近付いてくる七戸鳴海の周囲には、赤黒いヘドロのような重苦しいもやが、渦を巻くように纒わり付く。


 そう、私はのだ。大雑把に言えば、黒は嘘や悪意や敵意、赤は激情性や攻撃性や怒り、白は慈愛や正しさ、ピンクは友愛や親愛──と言った感じに。

 と言っても、大抵の人は無色で何もなく、たまにゆらっと色が見える程度。時折性質が強すぎるのか、常時はっきりと見えるタイプの人がいる。目の前の七戸鳴海もそのタイプで、常に赤黒いヘドロのようなもやが纒わり付いている。

 正直こんな色は見たことがないし、もはや禍々しくもあるに恐怖すら覚える。


「何回言えば分かるんですか? 私はあなたと親しくするつもりはないですし、諦めて下さい。しつこいです」


 正直ちょっと冷たいかな、とは思うが、私はとにかくこの七戸鳴海が怖いし、関わりたくないのだ。


「冷たいなぁ。なんでそんなに僕のことを嫌うのかな」

「それは……」


 あなたに纒わり付くヘドロのようなもやが──とは言える訳もなく、適当に「よく知らない人にぐいぐいこられても怖いだけなので」と冷たく、出来るだけ冷たく言う。


「僕には橙野さんに知って貰うチャンスもないのかな? 確かに一目惚れ──っていうのはちょっと軽い気がするけど、本当にそうなんだ。なんだろ、橙野さんの雰囲気……なのかな?」


 そう言って微笑む彼の笑顔はとても素敵なのだが、周囲に纏わる赤黒いもやのことを考えると怖くなる。彼は内面に赤くどす黒いを秘め、そうしてそれらをねじ伏せて笑っているのだと。

 話せば話すほどに心の内から恐怖が込み上げ、自然と体が震え出す。そんな私の肩に「お待たせさくら。一緒に帰ろ?」と優しく手を置き、同じく文学部一年──学科は地理学科なので別だが──の冴島奈々さえじまななが声をかける。奈々ななは大学に入学して初めて出来た友人で、同じアーティストが好きだということでよく話す仲。ミルクティー色のショートヘアは高校時代から染めているようで、ちょっと派手めのメイクをした、世間一般ではギャルと呼ばれる部類の子。

 だけど今日の朝会った際には、一緒に帰る約束なんてしなかったけどと思っていると、奈々が私の手を取って「それじゃ七戸しちのへ君、桜は私と約束してるから連れていくね」と、強引に歩き出した。


「ちょ、ちょっと奈々。どういうこと?」

「いいからいいから。事情は歩きながら話すよ」


 有無を言わさず奈々に引っ張られ、教室を後にする。振り返って七戸鳴海の様子を確認しようとも思ったが、なんだか背後からただならぬ気配を感じて振り返るのをやめた。そのまま廊下の突き当たりの階段を二階分下り、玄関ホールを抜け、校舎の外へと出る。

 外に出てみれば、構内に植樹されたソメイヨシノが葉桜へと変わり、これから初夏が訪れることを告げていた。日差しはそれなりに強いが風は心地よく、先程までの底の知れない恐怖が和らいできたところで、ぞくり──と、唐突な悪寒が私を襲う。

 

 言語化は上手く出来そうにないが、背後を絶対的な捕食者に取られたような、そんな感覚。振り返ってはダメだ、を見てはダメだ──と思いながらも、確認せずにはおられず、振り返って校舎を見る。それと同時、私は腰を抜かしてその場にへたり込んでしまった。

 先程までいた三階の教室の窓、まるで濁った血液のような赤と、墨汁のような黒が渦を巻いていた。渦はぐねぐねと勢いを増し、気付けば天体望遠鏡で覗く木星の大赤斑のような、赤黒く巨大な目玉が私を睨む。

 あまりの恐怖で体はガタガタと震え出し、歯の根が合わずにカチカチと音を立てる。そんな私の手を奈々がしっかりと握り、抱き起こした。


「大丈夫?」

「う、うん……」

「とりあえず家まで送るよ」

「あ、ありがと……」

 

 奈々と二人、しっかりと手を握って歩き出す。いまだ膝はがくがくと笑っているが、奈々の手の温かさが恐怖を和らげてくれる。


「桜の家こっちだっけ? あれ、こんな道通った?」

「ふふ、方向音痴って本当だったんだ。地理学科なのにね」

「じゅ、十回くらい通えば覚えるよ! まだ三回目だから!」


 私の家は大学から歩いて十五分程度の女性専用マンション。オートロックで管理人さんも常駐し、防犯はしっかりとしている。心配性な両親が「少し高いけど──」と借りてくれた部屋。申し訳ないので新生活が落ち着いたらバイトでもして、自分でもいくらか負担しようとは思っている。


「そういえば奈々、さっきのって七戸鳴海から私を助けてくれたの?」

「うん、そうだよー。迷惑だった?」

「ううん。困ってたからすごく助かった。けど──」


 そう、私が七戸鳴海に言い寄られて困っていることはまだ誰にも言っていない。もちろん連日のように七戸鳴海が私の元へ訪れているので、言い寄られていることは周囲に知られている。だが誰もとは思っていない。むしろ完璧超人のような七戸鳴海に言い寄られて羨ましい──といった嫉妬の目で見られていることは感じていた。それもあっておいそれと迷惑だとは言えない。私を守ってくれた奈々も少し前、「あんなイケメンに言い寄られて羨ましい」と言っていたはず。


「──けどなんで困ってるって分かったの?」

「正直イケメンに言い寄られて羨ましいって思ってたけど、桜って苦手な人のことフルネームで呼ぶ癖があるでしょ?」

「なんだ、気付かれてたんだね」

「これでも桜とは仲良しのつもりだからねぇ。まあ、それもあるんだけど、桜が困ってるって教えて貰ったの」

「教えて貰った? 誰に?」

「理学部の奥村遥人おくむらはると君って分かる?」

「なんとなく知ってる……くらいかな」


 なんとなくとは言ったが、彼──奥村おくむら君のことはよく知っている。いや、よく知っていると言えば語弊がある。彼も私達と同じ一年生なのだが、実は彼も彼で特殊な色をしているのだ。私が彼を初めて見たのは入学してから一週間くらいの時だったと思うのだが、彼は雪のように真っ白なもやを身に纏っていた。容姿も色素の薄い長めの髪で、切れ長の目と長いまつ毛が印象的な中性的な顔。雪のような真っ白なもやと相まって、綺麗な男の人だなと思った覚えがある。掛けている銀縁の丸眼鏡も知的で、どこか物憂げな雰囲気が目を引く。

 ただそれだけならば、慈愛や正しさの白いもやを纏った知的で綺麗な男性というだけで終わるのだが、奥村君が纏う白いもやの周り、赤黒いもやが端からぐずぐずと、まるで彼の善性をじわりじわりと侵食していくように侵していた。今では白と赤黒いもやが半々くらいまでの割合になっている。


「なんとなく? え? そうなの?」

「う、うん」

「そうなんだ。いや、奥村君がね、『橙野さんが七戸に言い寄られて困ってるみたいなんだ。僕が行ったら角が立ちそうだし、女友達の君に頼めないかな』って。口ぶりから桜とそれなりの仲なんだろうなと思ったんだけど……」

「ま、まだ奥村君とは話したこともないよ」


 奈々が「うーん、これはミステリーだねぇ」と言って眉間に皺を寄せて難しい顔をし、すぐさま「だけど……」と言ってニヤリと笑う。そうして「謎は全て解けたよワトスン君!」と、少しいい感じの発音で某有名探偵の相棒の名前を叫んだ。


「謎って大袈裟だなぁ」


 ふふっと笑いながら私はそう言ったが、だが確かに謎ではある。私はまだ奥村君と話したことがないし、だけど奥村君の口ぶりからは、まるで知り合いかのように感じる。


「桜ぁ! モテモテだねぇ? そのセクシーな泣きボクロが男を虜にするのかなぁ?」


 奈々はそう言いながら、私の右目の下、縦に二つ並んだ泣きボクロを指差しておどける。「それとも長い睫毛に囲まれたこのハッキリ二重かな?」「いやいや涙袋もえっちですねぇ」「薄い唇もチューしちゃいたい」「通った鼻筋もいいですねぇ」と、続けざまにおどけてみせる奈々。


「え? どういうこと?」

「二人のイケメンに愛されてるってことだよ! このこの!」

「ん?」

「だからぁ、奥村君も桜のことが好きで、でもまだ仲良くないから私に頼ったってこと! まあつまり、初心村うぶむら君、もしくは弱村よわむら君ってこと!」


 奈々の例えはよく分からないが、そういうことなのだろうか。確かにあの場で奥村君が私に話しかけ、私が初対面のような対応をしていたら、よく分からない状況になっていただろう。だけど──とは思う。なぜ奥村君は私が困っていると知っていたのだろうか。助けてくれたのは、私に好意があるということなのだろうか。そもそも七戸鳴海のあの禍々しいもやはなんなのだろうかと考えているところで、私のマンションへと着いた。

 奈々も少し時間があったようで、そこから一時間ちょっとくらいだろうか、七戸鳴海のこと、奥村君のこと、それと途中からは好きなアーティストであるruinルインについて話し込んだ。もちろん私が人の特性や感情が色で見えることは話していない。話して気持ち悪がられるなんて経験は何度もしてきた。


「今日はいっぱい話したねぇ。とりあえず七戸君の件については分かった。これからは私もちょくちょく桜のこと見てるね」

「ありがとね」

「あとは奥村君だねぇ。たぶん桜にぞっこんだと思うけど」

「そう……なのかな?」

「だってすごい真剣な目で『橙野さんが──』って言ってたからね。あれは愛だね愛」

「うーん……」

「まあ今度奥村君と話してみなよ。ちょっと初心村で弱村だけど、話を聞いた感じだと七戸君より断然奥村君だね」

「そう……だね。今度話してみるよ」

「眼鏡男子ってところもポイント高い」

「奈々って眼鏡フェチ?」

「私は眼鏡外す瞬間フェチだね」


 そう言って眼鏡を外す仕草をする奈々に、「なにそれ」と私が笑い、奈々も「桜にはまだ早かったか」と笑う。


「よし、それじゃあ私は帰るね」

「今日はバイト?」

「ううん。今日は休みだけど、大学に課題忘れて来ちゃったから取りに行って、その後で家族と焼肉ぅー」

「えー! いいないいな焼肉!」


 奈々が「じゃあ今度桜も誘うよ。私の家、すぐ焼肉するから」と言いながら玄関に向かう。


「今日はありがとうね奈々」

「いえいえ。でもいつでも頼ってね。今日の奈々の怯えっぷり凄かったから」

「ごめんごめん。男の人に言い寄られるの慣れてなくて」

「よく言う! 今現在二人のイケメンに言い寄られてるくせに!」


 奈々が玄関の扉を開け、「それじゃまた明日ね」と言って手を振ったので、私も笑顔で手を振り返した。バタンと扉の閉まる音。それと同時、私は床にへたり込む。本当は帰って欲しくなかった。今もあの赤黒い渦を思い出して体が震える。そうして私は逃げるようにベッドへと潜り込み、気付けば眠りに落ちていた。



 ---



 どのくらい経っただろうか、しばらくして目を覚まし、ベッドボードへと置かれた時計を見る。時刻は午後二十時四十三分。とりあえず奈々に、今日はありがとうね、焼肉いいなぁとメッセージを送ろうとスマホを手に持つ。スマホの上部には、奈々からメッセージが届いている事を知らせる通知が表示されていた。届いた時刻は午後十八時五十七分。

 とりあえずその通知をタップすると、そこには「てすけて」という短いメッセージ。


「てすけて……?」


 意味不明の文字に、一瞬ぞわりと悪寒が走った。

 とはなんだろうかと思ったところで、同時に嫌な考えが浮かぶ。もしかすればこれは、フリック入力を間違えてになったのではないか、焦って入力ミスし、かといって打ち直す余裕もないほどに焦っていたのではないか──と。

 すぐに通話履歴から奈々の番号を探す。とても嫌な予感がし、言いようのない焦燥感に駆られてスマホを上手く操作出来ない。時刻は午後二十時四十五分。奈々が帰った時間をはっきり覚えている訳ではないが、おそらく二時間と少し経過してい

──────

────

──



 ---



 ──二〇一八年、四月二十一日、午後十六時五十分


 午後の授業を終え、私はため息をきながら帰り支度を始めた。パタンと閉じたノートパソコンには、慎重な性格を表すように「文学部心理学科一年、橙野桜とおのさくら」とシールが貼ってある。


 


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