【≒赤黒色の大赤斑】


 ──二〇一八年、四月二十一日、午後十六時五十分


 四限目の授業を終えた私は、ため息を吐きながら帰り支度をしていた。今日はが来なければいいなと淡い期待をしていたところで──


橙野とおのさーん! これから帰りなら一緒にご飯でも行かなーい?」


 来た。彼──七戸鳴海しちのへなるみだ。彼はいつも私の四限目が終わった頃に姿を現すのだが、正直私は彼が怖い。基本的に私は朝活派で夜はゆっくりしたいタイプ。なので大学の授業は一限から四限でほとんどまとめているので、帰る時間がある程度決まっている。誰かに聞いたのか自分で調べたのかは分からないが、そうやって私の行動をいつの間にか把握しているところも怖いし、だが怖い理由は他にちゃんとある。

 今も笑顔で手を振りながら近付いてくる七戸鳴海の周囲には、赤黒いヘドロのような重苦しいもやが、渦を巻くように纒わり付く。


 そう、私はのだ。大雑把に言えば、黒は嘘や悪意や敵意、赤は激情性や攻撃性や怒り、白は慈愛や正しさ、ピンクは友愛や親愛──と言った感じに。と言っても、大抵の人は無色で何もなく、たまにゆらっと色が見える程度。時折性質が強すぎるのか、常時はっきりと見えるタイプの人がいる。目の前の七戸鳴海もそのタイプで、常に赤黒いヘドロのように重苦しいもやが纒わり付いている。

 正直こんな色は見たことがないし、もはや禍々しくもあるもやに恐怖すら覚える。心なしか昨日見たもやよりもぐねぐねと不気味に蠢いているようで、鳥肌も立ってしまう。


「何回言えば分かるんですか? 私はあなたと親しくするつもりはないですし、諦めて下さい。しつこいです」


 正直ちょっと冷たいかな、とは思うが、私はとにかくこの七戸鳴海が怖いし、関わりたくないのだ。


「はは、。なんでそんなに嫌うのかな?」

「それは……」


 あなたに纒わり付くヘドロのようなもやが──とは言える訳もなく、適当に「よく知らない人にぐいぐいこられても怖いだけなので」と冷たく、出来るだけ冷たく言う。


「これから知って貰う……のもダメなのかな? もちろん友達からってことでいいし、僕はもっと橙野さんのことが知りたいし、知ってもらいたい」


 そう言って微笑む彼の笑顔はとても素敵なのだが、周囲に纏わる赤黒いもやのことを考えると怖くなる。彼は内面に赤くどす黒いを秘め、そうしてそれらをねじ伏せて笑っているのだと。

 話せば話すほどに心の内から恐怖が込み上げ、自然と体が震え出す。そんな私と七戸鳴海の間に、「あれ、もしかして七戸君ですか?」と一人の男性、奥村遥人おくむらはると君が割って入る。奥村君とはまだ話したことがないのだが、彼のことはよく知っている。いや、よく知っていると言えば語弊がある。彼も私達と同じ一年生──学部や学科は違う──なのだが、実は彼も彼で特殊な色をしているのだ。

 私が彼を初めて見たのは入学してから一週間くらいの時だったと思うのだが、彼は雪のように真っ白なもやを身に纏っていた。容姿も色素の薄い長めの髪で、切れ長の目と長いまつ毛が印象的な中性的な顔。雪のような真っ白なもやと相まって、綺麗な男の人だなと思った覚えがある。かけている銀縁の丸眼鏡も知的で、どこか物憂げな雰囲気が目を引く。

 ただそれだけならば、慈愛や正しさの白いもやを纏った知的で綺麗な男性というだけで終わるのだが、奥村君が纏う白いもやの周り、赤黒いもやが端からぐずぐずと、まるで彼の善性をじわりじわりと侵食していくように侵していた。今では赤黒いもや


 そんな奥村君が私と七戸鳴海の間に割って入り、目の前に立っているのだが──

 七戸鳴海からは見えないように左手を後ろ、つまり私の目の前に持ってきて、一枚のメモ用紙をぴらぴらと見せてくる。そこには「早く逃げろ。自然に『それじゃ私はこれで──』のような感じで余計な理由は付け加えるな。僕に質問も禁止だ。すぐに立ち去れ。それと冴島奈々さえじまななを医務室へ運んだ」と書いてある。

 冴島奈々──奈々は大学に入学して初めて出来た友達で、学科は違うが同じアーティストが好きだということでよく話す仲。正直メモの意味も訳も分からないし、奈々が医務室? なんで奥村君が? 私と奈々が友達だって奥村君知ってたの? 早く逃げろってことは、私が七戸鳴海に怯えてるって知ってたの? と、頭の中が混乱する。


 奥村君のメモには「質問禁止」と書かれているが、正直聞きたいことしかない。だがひとまず奈々が心配な私は、「それじゃ私はこれで──」と、二人に背中を向けてその場を立ち去る選択をした。立ち去る瞬間、七戸鳴海が「あっ! ま、待って橙野さん!」と私を追いかけようとするが、奥村君が再び七戸鳴海の前に立って「あのバス事故回避の時から七戸君のファンなんです。よければ少し話したいんですが──」と強引に絡んで制止した。その瞬間、「ちっ」と七戸鳴海が舌打ちした気がするが、奥村君はそれを気にする様子もなく、七戸鳴海の前に立って足止めしてくれている。


 とにかく訳も意味も分からないが、奥村君ありがとう、と心の中で感謝し、私は急ぎ医務室へ向かう。医務室ということは、奈々は倒れたのだろうか、朝に会った際は元気そうだったが、もしかすれば私が知らないだけで、何か持病でもあるのだろうか、そんなことを考えながら廊下を走る。

 医務室は玄関ホールの横、階段を二階分下り、廊下をまっすぐ行って玄関ホールを過ぎた位置。玄関ホールに向かう廊下の窓から外を見れば、構内に植樹されたソメイヨシノが葉桜へと変わり、これから初夏が訪れることを告げていた。日差しはそれなりに強いが風は心地よさそうで、もし奈々が少し休んで元気ならば、お互いに好きなアーティストであるruinルインのことでも話しながら一緒に帰ってあげようか──

 などと考えているところで、医務室の前へとたどり着いた。


「冴島さーん? 聞こえますか冴島さーん?」


 医務室の扉は開け放たれていて、中からは学校保健師である新里明里にいざとあかりさんの声が聞こえてきた。その声を聞いた私は、もしかして意識がない!? そんなに危ない状況なの!? と、医務室へ転がり込むように入る。

 医務室の中は清潔な印象を受ける明るい空間で、入口から入ってすぐの正面には、二つのテーブルセット。その後ろに受付カウンターがあり、左手の壁際に合計四つのベッドが並ぶ。ベッドや壁紙などは真っ白なのだが、窓やベッドを仕切るカーテンは柔らかい桜色。その並ぶベッドの奥、窓際のベッドに奈々は寝かされていて、新里さんが何度も名前を呼んでいる。


「新里さん! 奈々は! 奈々は大丈夫なんですか!?」


 大声に驚いたのか新里さんが驚きの声を短く上げ、すぐに「分からないわ」と首を振る。私は泣きそうになりながらも奈々が横になるベッド脇へと移動し、「奈々ぁ……」と情けない声を上げながら手を握った。近付いてみて分かったのだが、奈々は意識がない訳ではなかった。ただ、目は開いているのだが焦点は合わず、聞こえないくらい小さい声で何かをブツブツと呟いていた。奈々の口元に耳を近付けてみると、聞こえづらくはあるのだが、「ごめんなさい」「痛い」「やめて」「なんで」「殺さないで」と言っているように聞こえる。

 ごめんなさい? 痛い? 殺さないで? どういうことなの? と、困惑する私の目に、ある変化が映りこんだ。奈々の周り、くすんだ灰色のようなもやが纒わり付いていたのだ。


 そのもやを見た私は、なんで奈々に……? と思わず呟いてしまう。なぜならくすんだ灰色のようなもやは、これまで何度か目撃したことがあったからだ。

 高校時代、酷いいじめによって自殺まで追い込まれた同級生がいたのだが、その同級生がくすんだ灰色のようなもやを纏っていた。このもやは街や駅など、人が多いところで見かけることもあり、皆一様に表情は虚ろで、死んでしまうのではないかという印象を受ける。なので私はこのくすんだ灰色のようなもやは、人に現れるものだと判断していた。

 だけどなんで奈々がとは思う。朝は元気そうだったし、これまで奈々にこんなもやが見えたことはない。となれば朝に会ってからのどこかのタイミングで、唐突に過度なストレスを受けたということだろうか。もう何もかもが分からなくて、救いを求めるように「新里さん、奈々は……」と声を絞り出す。


「全然分からないの。一緒に授業を受けていた子達の話だと、四限目の授業が終わった直後、突然机に突っ伏して動かなくなったらしくて……」

「突然……?」

「そうね。隣に座っていた子によれば、本当に突然らしいの。机に突っ伏すその瞬間まで、普通にノートパソコンを操作していたみたいなのよね」

「原因は……」


 そう呟いたところで、新里さんの困った顔が目に入る。新里さんも先程「全然分からないの」と言っていたし、私がここで新里さんを問い詰めたところでなんにもならないのだろう。奈々は相変わらず焦点の合わない目でブツブツと呟いていて、私の目からは涙が溢れる。

 そんな中、新里さんが「でもね……」と深刻な表情で話し始めた。


「でもね、

「四件目……?」

「そう、四件目。ついさっきまで元気だった子が、突然倒れちゃうってことが今年度に入って三件起きていたの。今回の冴島さんで四件目。全員が女性ね。これまでの子も病院に運ばれたけど、誰一人回復していないの。今年度に入ってまだ三週間よ? ちょっとおかしいわ」

「病院でも原因は……」


 帰ってくる言葉は分かっている。これまでの三件を知っている新里さんが「全然分からないの」と言ったということは、病院からの連絡でも原因が分かっていないということだ。


「分かっていないわ。細菌でもウイルスでもないみたいだし、かといって毒物でもない。病院の先生によれば、過度のストレスじゃないかってことなんだけど……」


 そこまで言うと新里さんは力なく首を振り、「そんな一瞬で心が壊れちゃうようなストレスなんてある? 直前まで美味しそうにご飯を食べていた子や、友達と楽しそうにゲームしていた子もいるのよ?」と、本当に分からないと言った様子で話した。


「このことは公にしないんですか……? 今聞くまで全然知らなかったです」

「私も一連の出来事は異常だと思うけど、大学の判断は『倒れた子達に因果関係が認められない上に、原因が分からない以上、様子を見るしかない』って感じね」

「そんな……」


 そんなと呟いた私だが、確かになとも思う。精神的な疾患はいまだセンシティブな扱いであるし、三週間で四人という数は異常だとは思うが、細菌でもウイルスでも毒でもなく、原因も、四人の因果関係も分からないのであれば、公にしたところで好奇の目で見られて終わるだけの気がする。


「奈々はこの後は……」

「とりあえず救急車の手配と親御さんへの連絡は済ませたわ」

「そうですか……。あの……、救急車がくるまで奈々の側にいてもいいですか……?」


 新里さんは「そうね」と頷くと、「本当にどうなってるのかしら……」と頭を抱え、ベッド脇に椅子を持ってきて腰掛けた。そうして奈々の手を握り、私と一緒に救急車がくるまで声を掛け続けた。


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