【負荷可変の虹彩模様】


 ──二〇一八年、四月二十二日、午前十一時二十四分


 カチ……カチ……カチ……。

 病室に設置された時計が刻刻と時の流れを告げる中、私は奈々が眠るベッド脇に座っていた。だらりと放り出された奈々の手を握り、何も出来ずにただ時間だけが過ぎていく。

 本来であれば面会時間は午後の十三時からなのだが、どうやら奈々の両親が「橙野とおのさんは奈々の大切な友人なので、奈々に声をかけてほしい」と主治医の先生に頼んだようだ。と言っても、決まりは決まりなので普通はそんな申し出は通らないのだろうが、この病院は。そう、大学の医務室に勤務する新里さんが言っていた三人だ。


 細菌でもウイルスでも毒でもなく、原因も、奈々を含めた四人の因果関係も分からない。つまり病院も困っているのだ。おそらくどうしていいのかも分からず、やりようがない中での特例として私は面会時間を優遇して貰えたのだろう。

 かといって私に出来ることがある訳でもなく、無力な自分に涙が滲む。泣きすぎだろうと自分でも思うが、どうしても涙が止まらない。少し前も泣いたばかりで──

 それというのも「大学で親友が出来た」「大好きな友達」「桜がいるから大学が楽しい」と、奈々は私の話をよく両親にしていたようで、そのことを聞かされた際、私は膝から崩れ落ちて思い切り泣いてしまった。


 思えば私は、人の性質や感情が色で分かるという特殊な力のせいで、他人に対して壁を作り続けて生きてきたように思う。これまでも友人はいたのだが、一定の距離を保ち、深入りせず、手を繋ぐことや抱き合うなんてこともしたことがない。そんな中でも何度か他人に心を許し、その度に打ちのめされてきた。

 私は人が怖いのだ。話していても時折ゆらっと嘘や悪意の色が見え、これまでも教室や街中、様々な場所で嘘、悪意、劣情、憎悪と、見たくもない色を見続けてきた。

 だが奈々からはそういった色が見えたことがない。時折ゆらめく色は、慈愛や正しさの白や、友愛や親愛のピンク。そんな奈々に私は癒されていた。おそらく初めて出来た本当に心を許せる友人。だけど奈々は今──

 ベッドの上、焦点の合わない虚ろな目でブツブツと何事かを呟いている。あまりに変わり果てた大切な友人の姿。そんな奈々に、「奈々のお母さんも大丈夫だから、今はゆっくり休んで」と、声をかける。

 実は先程まで奈々の両親もいたのだが、奈々のそんな姿を見るのが辛かったのか、母親が過呼吸のようになって倒れ、運ばれて行った。父親はその付き添いで、つまり今この病室には奈々と私の二人。

 だからこそ、誰も見ていないからこそ、私は初めて出来た本当に心を許せる友人の手を思い切り握る。大学の医務室でも自然と奈々の手を握っていたし、私はおそらく本当に初めて、自分から親族以外の他人の手を握っている。

 なんで奈々が、いったい何が起きて、殺されるってどういうこと──と、頭の中を様々な考えが駆け巡り、思考がまとまらない。私にも何か出来ることはないかとも考えるが、病院で調べても分からないのならば、私に出来ることなんて一つもないのだろう。

 悲しい、悔しい、なんで、嫌だ、と負の感情が頭の中をぐるぐる回る。まるで頭の中にヘドロが堆積していき、脳を圧迫するような不快感。


 そんな中、ポタリと一滴の赤い雫が奈々の眠るベッドに滴り、じわりと滲む。それはポタリ、ポタリと数を増やし、真っ白なシーツに赤い花を咲かせていく。どうやら私の鼻から血が滴っているようで──


「え、鼻血……?」


 そう呟いた次の瞬間には、私は意識を失っていた。



---



 カチ……カチ……カチ……。

 規則的な秒針の音で目を覚まし、時計を確認する。時刻は午前十一時五十二分。精神的な疲れからなのだろうか、どうやら二十分ほど気を失うように眠ってしまったようだ。病室内は静かで、まだ奈々の両親は戻ってきていない。

 目覚めの気怠い脳が覚醒を始め、そうだ鼻血──と思い出す。視線をベッドに落としてみれば、やはりシーツには自分の鼻から垂れたであろう血の跡。鼻の下も触ってみるが、固まった血のガビガビとした感触がする。

 鼻血なんて出したのいつ以来だっけと考えながら、とりあえず立ち上がり、病室に備え付けられた洗面台へ向かう。

 他人の病室で顔を洗うなという話だが、私は蛇口を捻り、ジャバジャバと吹き出す水で顔を洗った。 元からメイクをバッチリする方ではないのだが、色々とありすぎたせいで今日はノーメイク。なので、遠慮なくゴシゴシいく。冷たい水が肌に触れる感覚が、重たい脳内をクリアにしてくれる。


 そうして鼻血落ちたかなと顔を上げ、鏡に映った自分の顔を見て、私は少し違和感を覚えた。髪は胸が隠れるくらいのノーバングロングでいつも通りだし、有難いことに美人な母親に似て、小ぶりだが通った鼻筋と薄めの唇もいつも通りだ。長い睫毛やハッキリとした二重もいつも通りだし、右目の下の縦に二つ並んだ小さな泣きボクロもいつも通り。違和感を感じているせいで眉間に皺がより、眉毛は少し形を変えてはいるが──

 いつも通り整っている。


「んん……?」


 と違和感を探るように鏡に顔を近付け、今度は違和感の正体に気付いた「んん……?」という声を漏らす。

 鏡に映った自分の顔、ハッキリとした二重と少しぷくっとした涙袋に囲まれた濃褐色の瞳、その瞳の中の虹彩が──


「う、動いてる……?」


 そう、虹彩がゆらゆらと蠢いている。それは瞳孔の大きさを調節し、網膜に入る光の量を調節するための収縮運動ではないように見える。虹彩が霧のようになり、ゆらゆらと揺らいでいると言えばいいのか、とにかく通常では有り得ない動きだということは分かる。

 見間違い──などではない。


「なんなのこれ……、もう訳わかんないよ……」


 思わずそう声を漏らしてしまう。

 性質や感情が色で見えてしまう私。

 赤黒く禍々しい、渦のようなもやが纒わり付く七戸鳴海しちのへなるみ

 雪のように白いもやを、赤黒いもやに侵食される奥村君。さらに奥村君は、おそらく私が七戸鳴海に恐怖心や苦手意識を持っていることを知っている。

 急におかしくなってしまった奈々と、奈々と同じ症状の三人。

 そうして霧のように蠢く私の虹彩。


 色々なことがありすぎて、頭が破裂しそうなほどに混乱する。鏡の中の自分の顔も、この世の終わりのような酷い顔をしていて、思わず「何この顔……」と呟いてしまう。

 酷い顔だ。

 昨日から泣き過ぎて目は充血して少し腫れているし、ストレスで熟睡出来ていないせいか、目の下にはくまもある。


 はは、と少し自嘲気味に笑いながら、もう一度虹彩を見るため、鏡の中の自分と目を合わせる。

 それと同時、頭の中に知らない記憶の映像が朧気に浮かんで「うわっ!」と驚いた。

 なに今の記憶? え? 白昼夢? と戸惑ってしまう。本当に記憶にないし、だけどという変な感覚。

 頭に朧気に浮かんだ記憶は、というものだ。怯える私の視線の先には、木星の大赤斑のような、巨大で赤黒い目玉のようなナニか。映像はそんな場面を俯瞰したような視点なのだが、大学に入学しておよそ三週間、こんな経験をした覚えはない。


 ぽたり──と、また鼻血が滴る。心なしか少し頭痛もして、とりあえず鼻血をペーパータオルで拭く。


「なんなの……、もう訳が分からないよ……」


 私は先程と同じようにそう呟くと、ふらふらと奈々が眠るベッドへ向かう。何かが起きているのは確実で、だが不確かな事象に心がざわつく。


「奈々ぁ……、元に戻ってよ奈々ぁ……」


 ベッド脇へとやってきた私が、奈々の手を握りながら泣きそうな声で呟く。そうして「お願いだからまた笑ってよぉ……」と顔を覗き込み、焦点の合わない虚ろな目をする奈々に視線を合わせたところで──


 またしても知らない記憶の映像が流れ込む。それは私の記憶ではなく、おそらく奈々の。

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