【異常性質の追跡者】


「大丈夫、きっと大丈夫……」


 病院の玄関から外に出た私は、自分に言い聞かせるようにそう呟いた。私の目ならと勢いで行動してしまったが、これまで見た記憶や経験した出来事を考え、自然と足が震えてしまう。怨霊蠢く中で多くの人が死に、ただの学生でしかない私に何が出来るというのだろうか。自分ごときでは何も出来ないと頭では分かっている。特殊な力を持っているとはいえ、怨霊と戦う力などは持ち合わせていないし、ましてやそこに殺人鬼も加わるとなればなおのこと。もちろん奥村遥人おくむらはるとが殺人鬼だと決まった訳ではないが、私の心はすでにそうだと思っている。


 覗き見た記憶で残酷に殺された奈々。だが現実の奈々は生きていて、かといって心は壊れている。生田いくたさんに関してもそうだ。これがどういうことかは正直分からないが、奈々や生田さんは何らかの方法で一度奥村遥人に殺されたのだと思う。そうして心が壊れ、今の状態になったのだと。そう考えればこれまで奈々や生田さんと同じ症状で倒れた子達も、一度奥村遥人に殺されたということだろうか。それはどうやって──そんなの無理だ──だけど何かしらの特殊な力で──と、様々考えを巡らせている中で、一つの考えに思い至る。


「時間を戻せる……?」


 思い至った考えが自然と口から漏れた。時間を戻せると考えれば、ばらばらだった点と点が繋がるように思える。奥村遥人はターゲットを殺した後で時間を戻し、だが殺された人物の心は壊れたまま。いや、もしかすれば激しい拷問によって心が壊れたからなのかもしれないな、とも思う。なぜなら日本では数十秒に一人、人が亡くなっていると何かで見た記憶があるからだ。奥村遥人が時間を戻すタイミングでも、必ずどこかで人が亡くなっているはず。となれば死んだだけであの症状になるのならば、奥村遥人が関係していない場所でも同じ症状の人が発生していることになる。これまで何度時間を戻したのかは分からないが、かなりの頻度で時間を戻しているはず。なぜなら過去青森でも、同じ症状の患者が多数発生しているからだ。何より私の大学でも、三週間で四人も同じ症状で入院している。


「はは……、時間を戻すってそんなわけ……」


 色々と考えを巡らせてはいるが、私の口からは乾いた笑いと否定の言葉が漏れる。確かに私は人の性質や感情を色で見ることが出来る特殊な力を持ってはいるが、だがだからといってそれは時間を戻す力が存在するという証明にはならない。

 じゃあ時間を戻す以外で何か──いや、やっぱり時間を戻す以外には──そもそも奥村遥人は本当に私を──と、再び思考の迷宮にハマった私に、「橙野とおのさん?」と唐突に言葉が降ってきて、私は思わずひっと短い悲鳴を上げて硬直した。顔を上げてみれば、そこには奥村遥人の姿。奥村遥人は怪訝な表情で「何かぶつぶつ言いながら歩いてたけど、大丈夫?」と、続けて私に問いかけた。

 私はしまった──と思い、一瞬で血の気が引く。気付けば奥村遥人の車の目の前で、どうやら考えていることを呟きながら歩いていたようだ。それを聞かれてしまった。もしかすれば奥村遥人に関することも──


「わ、私、なんて言ってた?」

「いや、内容までは分からなかったよ」

「そ、そっか」


 今だ、今しっかりと目を合わせれば、奥村遥人の記憶を読める──と思うのだが、奥村遥人がその銀縁の丸眼鏡越し、私をじっと観察している気配を感じて、背中を嫌な汗が伝う。目を合わせようとは思うのだが、言いようのない恐ろしさから視線を下げてしまう。


「震えてるね。本当に大丈夫?」

「う、うん……」

「大変なことになったね。でも橙野さんが無事でよかったよ」

「う、うん……」


 視線を下げる私の目には、奥村遥人の白いTシャツの裾や、黒いパンツとスニーカー。その後ろに駐車しているワゴン車のナンバーしか映っておらず、顔は見えない。いったい奥村遥人は今、どんな顔をしているのだろうか、何を考えているのだろうか。目の前にいるのは殺人鬼かもしれない。私を狙っているのかもしれない。だからこそ「橙野さんが無事でよかったよ」という言葉が怖くてしょうがない。「無事でよかった」とは、「獲物が無事でよかった」という意味ではないだろうか、そうなると奥村遥人は私を連れ去って、犯して、拷問して──

 ふぐぅと変な声が出て、涙が地面に滴った。今のこの状況を今更になって後悔する。記憶の映像で見た、およそ人のすることとは思えない残虐な行い。はたして人はあれほど残酷になれるのだろうか。目の前で泣き叫ぶ相手を辱め、悲鳴を楽しむように解体していく。あの映像を思い出して吐きそうになり、足から力が抜けてその場にへたり込む。眩暈がして、喉からはひっ、ひっ、と勝手な音が漏れる。


「……本当に大丈夫?」


 そう言って奥村遥人がしゃがんで私の顔を覗き込むが、目を合わせることが出来ない。


「怨霊に襲われたって聞いたけど……、なんで橙野さんが襲われたんだろうね?」


 知ってるくせに! あなたが! あなたが! と叫びたいが、声は出てこない。


「何か身に覚えとかある?」


 ぞくり、とかけられた言葉に震えてしまう。先程から奥村遥人は。そう、つまり奥村遥人は怨霊を信じているということになるのではないか。事件が起き、警察が到着してから二時間と少し。何が起きたかなんて誰も理解していない。それこそ「怨霊が」「化け物が」という声は聞こえてくるのだろうが、普通は人が起こした事件だと思うのではないだろうか。それはやはり奥村遥人が特殊な力を持ち、怨霊の発生した背景も知っているということではないだろうか。


「ねえ、橙野さん」


 奥村遥人が私に手を伸ばす。その手には──


「血……、血が……」


 血の跡だ。私に向けて伸ばした手に、血が付着している。何かで拭いて血が伸びた形跡があるが、所々にはっきり残っているし、それは腕にまで及んでいる。奥村遥人は糸生いとうさんに会っているはずだ。となれば横浜さんの言葉で奥村遥人に違和感を覚えた糸生さんが、この血の跡を見逃すわけがない。つまりそれは糸生さんと会った後で、手に血が付着するような出来事があったということになるのではないだろうか。少し視線を上げてみれば、口元にも乾いた血の跡のようなものが見える。


「ああこれ? ちゃんと拭けてなかったみたいだ」


 そう言って奥村遥人が自分の手を見た瞬間、私は駆け出していた。恐怖と困惑と後悔と、訳が分からなくなって駆け出したので、どこに向かっているのかも分からない。景色がぐるぐると周り、まっすぐ走れているのかも定かではない。

 気付けば私は、取り壊しが決まっている旧北館の前にいた。無我夢中で走ったので、今更になって挫いた足や肋骨に激痛が走る。とりあえず人がいるところに逃げなければと歩き出すが、もはや足は限界だった。近くの壁に倒れるように背中を預け、座り込む。


「橙野さーん。橙野さーん」


 それほど遠くない場所から、奥村遥人が私を呼ぶ声が聞こえる。それがまるで獲物を追いかける捕食者の声に聞こえ、私の頭の中にはよくない考えがどんどんと浮かぶ。

 奥村遥人の手や口に付着した血。例えば、例えばだが、奥村遥人は今日、既に誰かを黒いワゴン車で拉致していたのではないだろうか。そうしてどこかで凶行に及ぶ前に病院の近くを通り、パトカーが集まっていることが気になって確認しに来たのではないだろうか。警察が多い中、大胆すぎる行動には思えるが、それは時間を戻せると考えれば不自然ではない気がする。なぜなら警察にバレたら時間を戻せばいいのだ。

 とりあえず奥村遥人は全身黒ずくめから普通の服装に着替え、病院の玄関辺りまで様子を見に行き、その後で車に戻り──

 拉致した相手を強姦し、拷問し、殺害した。血はその時に付着したのだろうと思うし、だがそう考えると更に奥村遥人が恐ろしい存在に思えてくる。なぜなら奥村遥人は糸生さんに疑念を持たれた状態で、二時間近くも堂々と凶行に及んでいたことになるからだ。警察が多くいる中での常軌を逸した行為。もしかすれば奥村遥人は、そのスリルを楽しんでいたのではないか──とさえ思ってしまう。


「こんなところにいたのか。突然走り出したから心配したよ」


 座り込む私の視線の先、奥村遥人がゆっくりと姿を現す。


「怪我してるんだよね? 痛くて歩けないなら、僕がおぶろうか?」


 もはや恐怖に支配された私の頭は正常に機能せず、や、や、と短い言葉しか選んでくれない。体はがたがたと震え、またじわりと漏らしてしまう。そんな私に奥村遥人が近付き、顔を覗き込んだ。私はその顔を震えながら見つめ、目が合う。

 それと同時、奥村遥人から凄まじい量のが私の頭に流れ込んだ。それはおそらく奥村遥人の記憶の映像なのだが、情報量が多すぎるせいか、何一つ正しい映像として理解出来ない。まるで粉々に叩き割った鏡の一つ一つに映像が映し出されていると言えばいいのか──

 とにかく何も分からない。だがそんな中でも一つだけ分かったことはある。それは奥村遥人の銀縁の丸眼鏡の奥、私を見つめる瞳の虹彩が、霧のようにぐねぐね蠢いていたという事実。

 やっぱりだ、やっぱり奥村遥人にも特殊な力があるんだ──

 そう思った次の瞬間、私は耐え難い頭痛に襲われて鼻血を吹き出し、口からもびしゃびしゃと血を吐いて倒れた。倒れて見上げた視線の先にはモニュメントクロックが見え、時刻は午後十五時五十二分を指し示している。奥村遥人に視線を移せば、「橙野さんも……」「バレて……」と、微かに聞こえるくらいの小さい声で、ぶつぶつと呟いてい

──────

────

──



 ---



 ──二〇一八年、四月二十二日、午前十一時五十二分


 カチ……カチ……カチ……。


 規則的な秒針の音で目を覚まし、時計を確認する。時刻は午前十一時五十二分。精神的な疲れからなのだろうか、どうやら二十分ほど気を失うように眠ってしまったようだ。病室内は静かで、まだ奈々の両親は戻ってきていない──

 

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