【赤黒色の過剰愛】


 七戸君に腕を掴まれ、引っ張られるままに走った。しばらくして立ち止まり、勢いのまま七戸君にぶつかってしまう。


「……とりあえずA棟の前に着いたけど……どういうこと?」


 どうやらA棟の前に着いたようで、七戸君が息を切らしながら私に問いかける。ここまで来れば大丈夫だろうとは思うが、とりあえず七戸君に「ちょっと待ってね」と伝え、目を開けてゆっくりとB棟の方に視線を向けた。そこにはいつもと変わらない玄関があり、ただ何人もの人がこちらを見て指差したり笑ったりしている。そんな人達の周りには、嘲笑や好奇を示す赤茶のもやが揺らめいていた。

 青に近い水色のもやも見えるので、本気で心配している人も一定数はいる。さらには白や黒やピンクと様々な色が見え、ズキンと頭が痛む。力が上がっているせいで常に色が見え、脳が圧迫されるような不快感に思わず「うぅ……」と声を漏らしてしまう。足元がふらふらとして、気を抜けば倒れてしまいそうだ。


「だ、大丈夫、橙野さん? 具合悪いなら診てもらったほうが──」


 そう言って私の体をそっと支えてくれた七戸君の周囲には、相変わらず赤黒いもやが渦を巻いている。だが今は、それほど怖いとは思わない。私が七戸君を怖いと思っていたのは、その得体の知れなさからだったのだろう。赤黒いもやの意味も分かったし、おそらく七戸君は悪い人ではないと思い始めている。ただ思い始めてはいるのだが、本当に信用していいのか確認しなければならない。私は「七戸君」と名前を呼びながら、視線を合わせた。


「あれ……?」


 しっかりと目を合わせているのだが、記憶の映像が流れ込んでこない。いや、流れ込んではきたのだが、真っ白で何も見えないのだ。奥村遥人の記憶も正しく見ることが出来なかったし、もしかすれば特殊な力を持つ人物の記憶は見れないのかもしれないと思う。それに加え、もう一つ疑問が浮かぶ。視線を合わせた七戸君の瞳、その虹彩が霧のように蠢いてはいないのだ。普通の、至って普通の虹彩。となれば特殊な力はないのだろうかと思うが、そうなると記憶を正しく見ることが出来ない意味が分からない。ここに来て私の頭はまた混乱する。そんな私に、「と、橙野さん? きゅ、急に見つめられたら照れるって……」と七戸君が呟いたので、慌てて視線を外した。


「ご、ごめん七戸君」

「い、いや、いいんだけど……、本当に大丈夫? なんだかいつもの橙野さんじゃないみたいだけど……」

「う、うん、大丈夫。友達が倒れてちょっと精神的に参ってるのかも」

「友達って冴島さえじまさん? 昨日運ばれたって聞いたけど……」

「うん。まだ何も分かってないみたい。原因不明って」

「そっか……、原因が分かればいいね。僕には何も出来ないけど、回復を祈ってる」

「うん……」


 どういうことだろうか、と思う。口ぶりから七戸君は、何も知らないように感じられる。私の考えでは、七戸君は何となく奥村遥人の犯行に気付いていて──と思ったのだが、違うのだろうか。


「七戸君、奥村遥人って知ってる?」

「ん? 知ってるよ。僕が橙野さんを口説いてる時に割って入った人だよね? ああ、いや、口説いてるってなんだか軽いな。一目惚れってのも軽いし、これじゃ警戒されるよね」

「う、ううん。大丈夫だよ。私がちょっと警戒心強めなだけだから」

「でも今こうして話してくれてるってことは、少しは心を開いてくれたってことだよね?」

「ま、まあ……」


 私のその言葉に、七戸君はガッツポーズをして「っし!」と力強く声を出した。その姿がなんだか面白くて、私は少し笑ってしまった。もしかすれば七戸君は、本当に私に一目惚れしただけなのかもしれないと思ってしまう。


「ははっ、笑顔まで貰えちゃったよ。具合が悪かったけど、一気に回復した気分だ」

「ふふ、七戸君って変な人なんだね」

「そう?」

「うん、そう。でも持病って言ってたけど、聞いても平気?」

「原因不明の頭痛だね。昔から定期的にひどい頭痛に襲われるんだ。治しようがないし、頭痛薬が欠かせなくてね。酷い時は鼻血や吐血もあるんだけど、原因不明だからどうしようもないって」


 私の症状に似ているなと思う。やはり七戸君は特殊な力を持っていて──と考えてしまうし、聞いてしまおうかとも思う。ただもし仮に特殊な力を持っていなかった場合、「特殊な力とかある?」と、直球で聞けば変な感じになってしまう。困った私は、「七戸君自身も思い当たることないの?」と、問いかけた。それに対して七戸君が、「病院で調べて分からないのに、僕に分かるわけないって」と笑う。

 私の問いに対する「ある」「ない」を掘り下げれば、ある程度色々と探れると思ったのだが──

 困ったことに、渦を巻く赤黒いもやのせいで、七戸君が嘘を吐いているのかが分からない。常に赤いもやや黒いもやが蠢いて渦を巻き、よく分からないのだ。これではどんな質問をしたところで、嘘の判別が出来ないことになる。それならと、少し踏み込んだ質問をすることにした。もしかすれば七戸君の傷を抉ってしまうことになるかもしれないが、これから協力するかもしれない相手のことを、きちんと知らなければならない。


「そういえば七戸君、妹さんが入院してるって……」


 ぶわりと七戸君の纏う赤黒いもやが、これまでより大きく揺らめく。やはり妹さんのことに起因する怒りや敵意を示すもやのようだ。「誰に聞いた」と聞き返す視線も鋭く、先程までの軽さが感じられない。まさかそれほど反応するとは思っておらず、言葉に詰まって沈黙してしまう。

 

「……ああいや、変な空気になっちゃったね。ごめん橙野さん。睨んでしまって。大事な妹だったからさ、過剰に反応しちゃうんだよね。だからだろうけど、僕の親しい人はその話題を避けるんだ。……ってことは面白半分で話してる人でもいるのかと思って。ごめん」

「ううん、こっちこそ無神経なこと言ってごめんなさい」

「いや、気を使わせちゃったね。それよりもしかしてだけど、橙野さんに妹のこと教えたのって、奥村?」

「ち、違うけど……」


 一瞬、奥村遥人の名前にどきりとしてしまったが、何とか平静を装って「なんでそう思うの?」と問い返す。


「そう言われると……、なんとなくかな。あっちは一方的に僕のこと知ってたみたいで、ほら、僕が橙野さんを口説いてた時も、『バス事故回避の時から七戸君のファンなんです』とか言ってただろ? その後で少し話したんだけど、実は地元が近いらしくて、会うのも二回目? って言ってたな。僕は全然覚えてなかったんだけど、ファンって言ってるのに目が怖くて──って話が逸れたね。僕を知ってて、なおかつ橙野さんとも知り合いみたいだから、なんとなく奥村が話したのかなって思っただけだよ」


 もやでの嘘の判別は出来ないが、淀みなく話す様子は嘘を吐いているようには見えない。そうなると七戸君は奥村遥人を疑ってもいないし、私に対してもただの一目惚れという線が現実味を帯びる。そう思えるほどに、七戸君の話し方には嘘を吐いているような違和感がない。ただそうなると赤黒いもやの意味が分からなくなる。

 いったい七戸君は誰にすさまじい怒りや敵意を向けているのだろうか。考えがまとまらず、思考が散り散りになる。何を聞けばいいのか分からず、黙ってしまった私に「橙野さん?」と、心配そうに七戸君が声をかける。


「大丈夫?」

「う、うん。なんだか昨日から色々あって疲れちゃって。そ、それより『バス事故回避』ってなんのこと?」


 まとまらない思考をひとまず諦め、前から気になっていたことを訊く。私が七戸君に言い寄られ、間に割って入った奥村遥人も言っていた「バス事故回避」という言葉。七戸君は周囲から「高校時代には何度となく人助けをして表彰されているような、まるで漫画やアニメの登場人物のような存在──」などと言われているので、おそらくそれに関してのことだろうとは思う。前から気になっていたとは言ったが、今更になって気になったと言ったほうが正しいだろうか。前までは七戸君が怖かったし、関わりたくなかったのだ。


「ああそれは……、一年前かな。たまたま乗ったバスの運転手が失神して、僕が代わりに運転して──ってやつだね。ゲーセンで鍛えたドラテクが火を吹いたのかもね?」


 そう言ってハンドルを回す仕草をする七戸君に、「何それ」と笑ってしまう。


「それでテレビに取材されたり、新聞に載ったりで一時期ヒーロー扱いだったね。ああ、テレビって言っても地方局だよ? 訛り全開の。奥村もそれを見て僕のこと知ってたみたい。奥村とはその後、街で一度会ってるらしいんだけどぜんぜん覚えてない。ほら、僕ってかわいい女の子の顔しか覚えられないから」


 七戸君の軽い言葉に、またしても私は「何それ」と笑ってしまう。


「今のでいい話が台無しだよ」

「ごめんごめん。まあ、いい話……なんだろうけど、僕にとってはいい思い出じゃないんだよね」


 そう言って少し俯いた七戸君の周り、赤黒いもやが激しく揺らめく。


「どういう意味……?」

「……その日に僕の妹が倒れたんだ。朝に会った時は元気だったんだけどね。バス事故の件で帰りが遅くなって、家に戻ったら妹が倒れてた。うちは両親が共働きでね。いつも帰りが遅いから、発見が遅れたんだ」


 そこまで言うと七戸君は一度黙り、ため息を吐いてから「……変なこと言うかもだけど、続けていい?」と問いかけてきた。それと同時、七戸君の赤黒いもやがこれまで以上に大きく、激しく揺らめく。その様子に動揺してしまうが、私は「うん」と答えた。


「……妹が倒れた日はちゃんと鍵もかかっていたし、家を荒らされた形跡も、乱暴された形跡もないから警察の介入はなかった。その後の検査で毒物やウイルスなんかも検出されなかったし、原因は分かってない。だけど妹が『痛い』『やめて』『殺さないで』って呟いてるんだ」


 やはり奈々と同じ状態なんだと思い、やるせない気持ちになる。


「それにね、たまに『お兄ちゃん』って呟く時があって、それを聞くとなんだか妹に助けを求められてるみたいで……」

「仲良かったんだね……」

「そうだね。周りからはよく『付き合ってるだろお前ら』って茶化されてたかな。それに対して僕はいつも『まあ鳴紗めいさを食べちゃいたいくらいには好きかな』って答えてた。それで『シスコンきもっ!』って言われるまでがお決まりの流れ──って、話が逸れちゃったね。ああ、鳴紗は妹の名前。そうだ、見る? 鳴紗の写真」


 そう言って七戸君がスマホをポケットから取り出したので、私は「うん」と頷いた。七戸君が見せてくれた写真は微笑ましいものだった。鳴紗ちゃんは七戸君の一個下で同じ学校。長い黒髪のポニーテールで、目元が七戸君に似た美人だ。写真は七戸君のクラスだろうか、鳴紗ちゃんが椅子に座る七戸君に後ろから抱き付いていたり、膝の上に座ったりしている写真がたくさん。中には七戸君の頬にキスしている写真まであった。確かに恋人同士に見え、二人の笑顔が眩しい。ただ微笑ましいとは言ったが、もしかすれば二人は本当に──とは思ってしまう。そうして保存された写真は途中から、虚ろな目で横になる鳴紗ちゃんの写真だけになった。


 

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