【改過断決のストラグル】
「や……いやぁ……」
恐怖で床にへたり込んでしまった私の目の前には、
自分で望んだ状況なのだが、私の口からは情けない声が漏れる。少し前、事務所に到着した私は糸生さんに「少しの間、事務所で一人にしてくれませんか」と頼んだ。なんでそんなことをするのか──と言われれば、これまで現実から目を逸らし続けた自分と決別するために、だ。糸生さんは私の考えを尊重してくれ、優しく抱きしめた後で事務所から
鷹臣さんはと言うと、相変わらずの目つきの悪い鋭い目で、ただ私と視線が合うとその目が柔らかく微笑んだ。私が昨夜助けてくれたお礼を伝えると、「いえいえ」と短く答え、金縁の丸眼鏡をかちゃりと上げて「事務所内は監視カメラで見ることが出来ます。異変があれば僕と
そうして今のこの状況なのだが、自分で望んだくせに、私は情けなく震えている。前に七戸鳴海の幽霊を怖いとは思わないと言っていたのだが、あれはそう自分に言い聞かせていただけ。七戸鳴海は被害者で、私を頼って現れているのだと。そう思わなければ、心が壊れてしまいそうだった。違和感や不自然を浮上させてしまえば、七戸鳴海がなぜ私の元に現れているのかを確定してしまうから。
思い返してみれば、奈々を襲った犯人が時間を巻き戻した後、七戸鳴海は時間を巻き戻す前と違う行動、いや、セリフを言った。奈々と同じ教室にいた人達が、奈々が倒れたことで時間を巻き戻す前と違う行動をすることは理解が出来るし、その後の流れが変わるのも理解は出来る。だが七戸鳴海は違う。
私の記憶の差異から算出した時間の巻き戻しは四時間。一度目の四月二十一日は、おそらく午後二十時四十五分に時間を巻き戻されている。そこから四時間。つまり二度目の四月二十一日は四限目の授業が終わる時間、午後十六時四十五分からスタートしたことになる。そのおよそ五分後には、七戸鳴海は私の教室にいた。午後十六時四十五分に奈々が倒れたとして、時間的に七戸鳴海が奈々が倒れたことを知るのは難しいように思う。つまり七戸鳴海は時間の巻き戻しによる影響をまだ受けていなかったことになるはずだし、時間の巻き戻し前と同じ行動をするはずだ。私も時間の巻き戻しに気付くまでは、まったく同じ行動、同じセリフを言っていたので、その法則は間違っていないと思う。
にも関わらず、七戸鳴海は一度目と二度目でセリフが違うのだ。私の「何回言えば分かるんですか? 私はあなたと親しくするつもりはないですし、諦めて下さい。しつこいです」という言葉に対して、一度目は「冷たいなぁ。なんでそんなに僕のことを嫌うのかな」と言い、二度目は「はは、
そもそも、だ。私は訳の分からない状況に翻弄され、気付けば
変装に関しても疑問に思う。黒ずくめで徹底的に容姿が分からないようにしているくせに、特徴的な色の髪だけは出している。これに関しても、七戸鳴海が犯人だと考えれば理解出来る。なぜなら七戸鳴海の場合は「七戸鳴海だ」と分からなければそれでいいからだ。いや、むしろ七戸鳴海だからこそウィッグを被っていたと考えた方がしっくりくる。時間を巻き戻せるのになぜ変装するのかに関しては、被害者の呟きに起因するように思う。被害に遭った人達は皆、被害時の苦痛を呟いている。つまり犯行時に姿を晒せば、後で名前を呟かれてしまう可能性がある。それで時間の巻き戻しや犯行がバレることはないとは思うが、全員が犯人の名前を呟いていたら怪しく思う者も出てくるだろう。
他にも不自然や違和感はどんどんと出てくる。例えば奥村遥人が、今月被害に遭った人物全員と接触していたこともそうだ。犯人の行動様式から言えば、奥村遥人が犯人だと考えればこの行動は無駄なことのように思う。むしろ事前に声や雰囲気を知られることで、犯行時に奥村遥人だとバレる可能性がある。そうなれば時間の巻き戻し後に名前を呟かれる可能性もあるし、やはり変装した意味が薄れる。そう考えれば生田さんが奥村遥人の名前を呟いていたことが矛盾するように思うが、それに関してはまだ分からない。この後で糸生さんや鷹臣さんと話すことで判明するのかもしれないが、私はその前に決着をつけたいのだ。自分の判断だけで行動し、決着をつけたいのだ。
他にも時間を巻き戻す前、糸生さんが奥村遥人に対して言っていた「今日は冴島さんや橙野さんと面会出来ないって伝えたんだけれど、なんで待ってるのかしらね? わざわざあんな車まで……」の「わざわざあんな車まで……」の部分や、七戸鳴海が今月被害に遭うのが五人までだと断定しているようなセリフ。奥村遥人の蠢く虹彩や、仮に七戸鳴海に特殊な力があるのだとして、なぜ虹彩が蠢かないのか。
考えれば考えるほどに、七戸鳴海が犯人だと示している。そうして今、それを確かなものにするために一人で七戸鳴海と対峙しているのだが──
「や……やめ……」
七戸鳴海が私の下腹部に顔を押し付け、必死に上顎しかない口で愛撫し、噛もうと藻掻く。そのまま四肢の切断された体でへたり込む私の体を這い上がり、今度は胸に顔を押し付けて藻掻く。そうして首、唇と貪るように顔を押し付け、今は私の顔の正面で涎と血を垂れ流していた。口からは「う゛あ゛ぁ゛」とくぐもった呻き声を上げ、目や下顎がないせいで表情はよく分からないが、興奮していることは分かる。
私は七戸鳴海のこの呻き声も、なんと呻いているのかは分からないと
「トオノ……サン……オイシ……ソ……」
その呻き声に恐怖し、私の口からはひっひっと短い悲鳴が漏れる。そう、七戸鳴海は私を食べに来ているのだ。強姦し、拷問し、肉を喰らう。肉を喰らうというのは突飛な発想にも思えるが、そう思う理由が私にはある。もし私の考えている通りなら、私の特殊な力によってそれを知ったことになる。そう考えれば、糸生さんがしつこく時間を確認したことや、一度聞いたはずの相談内容を聞き返した意味もなんとなく分かる。それらに関しても後ほど糸生さんや鷹臣さんに確認しようとは思うが──
七戸鳴海が私を食べに来ていることは間違いない。そのうえ七戸鳴海は、相手の肉を食べることで性的に興奮をするのだと思う。だからこそ悪夢の中で七戸鳴海は、私の唇や首、胸や陰部など女性性が多く感じられる部分を食べていたのだ。七戸鳴海にとってセックスと拷問と肉を食べる行為は同じ。見ないようにしていたが、七戸鳴海の下腹部が大きく反応している。それを私の下腹部に押し付け、そのまま這いずるように登ってきて、私の口に押し付ける。姿は朧気で生暖かい感触がする程度だが──
怖くて、気持ち悪くて、涙が溢れる。恐怖で体は硬直し、逃げようにも上手く動けない。覚悟を決めたくせに、恐怖で漏らしそうになる。口からは嗚咽が漏れ、開いた口に七戸鳴海が下腹部をねじ込もうとする。もう十分だ。もう理解した。やはり七戸鳴海は私を犯したいのだ。拷問したいのだ。食べたいのだ。
それを理解した私は、震える体で拳を握り、高く掲げた。一人で事務所に入る前、鷹臣さんと合図を決めていた。手のひらを開いて手を上げれば「助けて下さい」という意味。拳を握って上げれば「終わりました」という意味。そうして玄関の扉ががちゃんと勢いよく開くと同時、七戸鳴海は消え去り、私は駆け込んできた糸生さんに思い切り抱きしめられた。
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