【拘泥呪縛のインディファレンス】
──二〇一八年、五月一日
昨夜の暴行事件から一夜明け、体調の回復した私は
「風、気持ちいいわね」
「はい……」
この日の東京は五月にしては暑く、最高気温が二十八度。体調が回復したとはいえ実はまだ少し気持ち悪く、暑さはこたえる。糸生さんはそんな私の様子を察して、「外の風の方が気持ちいいから」と、クーラーではなく窓を開けてくれていた。
糸生さんはとても優しく、昨夜からずっとそばにいてくれる。警察署に行く前も私の家に寄ってくれ、着替えやシャワーを済ますことも出来た。病院も糸生さんの知り合いの病院だったらしく、とにかく糸生さんの世話になりっぱなしで、事情聴取でも迷惑をかけた。
「色々とありがとうございます」
「仕事をしたまでよ」
「事情聴取……、迷惑かけましたよね?」
「そんなことないわ」
糸生さんはそう言うが、実は事情聴取は糸生さんが担当してくれた。その際、警察署の職員が「管轄外で好き勝手やられても迷惑なんですが」と糸生さんに嫌味を言っている場面を見てしまったのだ。私としては暴行の詳細を話すことになるので、糸生さんでよかったなと思うが、迷惑をかけたことは申し訳なく思ってしまう。
ただ、聴取の相手が糸生さんで安心したからか、暴行の内容や思い出したカラオケ店に入るまでの流れなど、しっかり話せたとは思う。糸生さんに聴取されている間に朧気だった記憶もはっきりとし、居酒屋の店名や時間、お酒を何杯飲んだかや男性達との会話内容なども思い出した。これが他の警察官であったらこうはいかなかっただろう。だが聴取中、少し気になることもあった。糸生さんが何度も「その時の時間は分かる?」と聞いてきたことだ。カラオケの室内には時計がなかったので分からなかったが、居酒屋では壁掛けの時計が視界に入っていたので、聞かれる度に答えはした。それについて「なんでそんなに時間を聞くんですか?」と聞いてはみたが、「後で分かるわ。でも悪いことじゃないから心配しないで」と言われ、ひとまず保留中だ。
「でも私のせいで糸生さんが嫌味を言われて……」
「元から私が嫌われてるだけよ。気にしないで」
「特殊公安……だからですか?」
「ふふ、その名前、あんまり口に出したらダメよ?」
今言ったように、糸生さんは「特殊公安」という部署に所属しているようで、警察組織の中でもかなり自由に動ける──らしい。らしいと言ったのは、詳しく教えて貰えなかったからだ。むしろ特殊公安だと明かす行為も本来ならばしていないようで、明かした理由は「これから捜査協力してもらう事になるから」ということだ。
私が「やっぱり幽霊とか怨霊とか、特殊なことを捜査する部署なんですか」と聞いた際には、「非論理の中の論理性を確定する感じね。まあ受け売りだけど」と、微笑まれてうやむやにされた。
それにしても糸生さんは綺麗だなと思う。時間を戻す前に会った際は、黒く艶やかな長い髪を後ろで一本に縛っていたのだが、今は「本当は今日、休みだから」と下ろしている。風で乱れる髪をかき上げる仕草も綺麗だなと思うし、真剣に運転している横顔も綺麗だ。タイトな黒いスーツに雪のように白い肌が映え、人形のように大きな目と長い睫毛に見とれてしまう。小ぶりな唇は艶やかで──
私がじっと見つめていると、「そんなに見つめてどうしたの?」と問いかけられ、焦った私は「き、綺麗な人だなって……」としどろもどろで答えた。会うのは二度目だが、私は糸生さんのように綺麗でかっこいい女性になりたいなと思う。
「そ、そういえば、昨日私を助けてくれたのって……」
「ああ、
「そ、そうです。なんで私の居場所が分かったのかなぁって。聞いてなかったので」
言いながら私は、黒髪の短髪に金縁の丸眼鏡をかけた男性を思い出す。酔っていたのと暗かったのでよくは見えなかったが、切れ長──と言えば聞こえはいいが、まるで鋭利な刃物のように鋭い視線の男性だったように思う。そうしてこれも朧気でよくは覚えていないが、鷹臣さんは私に自分の着ていた上着をかけ、「怖かったですよね。遅くなってすみません」と謝っていた──気がする。助けてくれたことに感謝しかないのに、謝られたのが印象的だった。
「鷹臣君は昔から勘がいいのよ」
「勘……で見つけたんですか?」
「ああいえ、桜子先生に相談したでしょ? 会話を録音するって言われなかったかしら?」
「そういえば言われたような……」
「その録音データを鷹臣君に送ったんですって。そしたら彼、『
「特徴だけで私を……?」
「顔が広いのよ、鷹臣君。色々な人の相談に乗ってるから。この辺のオフィスや飲食店で、彼のことを知らない方が珍しいんじゃないかしら。すごい数の目撃情報が集まったみたいよ」
そんな会話をしながら、車は川越街道を進み、山手通りに入る。そこから少し進んだ先、板橋区役所近くに桜子先生の事務所はある。山手通り沿いの途中、有名なラーメン屋だろうか、三十人くらいの列が出来ていた。
「そんなに有名な人なんですね」
「いい意味でも悪い意味でもね」
「悪い意味……?」
私のその言葉に、「モテるのよ、彼」と糸生さんが呟いてため息を吐き、初めてその綺麗な顔が少し歪んだ。
「もしかして糸生さん、鷹臣さんのこと?」
「ふふ、どうかしらね」
「ちょっと意外です」
「意外?」
「糸生さん、なんでも完璧にこなしそうだから……、恋愛も上手くいってるのかなって」
「完璧なんかじゃないわよ。ただ完璧でありたいって望んでるだけの凡人ね。失敗もするし、悔しくて泣くこともあるわ。一人で出来ないことは誰かに頼るし、縋ることだってある。だから……」
糸生さんが片手を伸ばし、「橙野さんが誰かを頼ることを覚えてよかったわ。頑張ったわね」と私の頭を優しく撫でる。その瞬間、私の目からは涙が溢れた。どうしようもなく馬鹿で、いつも判断を間違える私だが──
糸生さんは信頼出来るし、それは断言出来ると強く思う。
これまで誰にも頼らず、一人で頑張ってきたつもりでいた。ただそれは、強がりでしかなかったのだと今は思う。だからいつもいつも寂しくて、寂しさに負けて絆されて、裏切られて強がって──
私はいつも一人でいいんだと自分に言い聞かせ、結局は誰かにそばにいて欲しいと思っていたのだ。心の底の方で、寂しさを埋めてくれるなら誰でもいいとさえ思っていたかもしれない。誰も信用出来ないなら誰でもいい。誰でもいいけど嫌なことはして欲しくない。そんな考えだから、酷い目に遭う。今思えば、高校の担任もその後にできた彼氏も、
赤だから怒ってるな、黒だから嘘吐いてるな、こんなことで怒るならいいや、嘘吐いたからいいやと、話し合うことだってしなかった。私に性的な感情を向けたからとふった彼氏だって、ちゃんと話し合えばよかった。思春期で異性に興味を持つのは普通なことなのに、劣情や情欲の
そんな私に、糸生さんの言葉が響く。まだ昨日のお酒が抜けていないせいなのか
「たくさん泣くのね」
「す、すみません……。糸生さんの優しさが嬉しくて……」
「あら、桜子先生も優しくなかったかしら? 橙野さんが泣いたとは報告を受けていないけど」
「それは……、絶対に桜子先生に言いませんか……?」
「ええ」
「桜子先生って……、なんだか頼りなくないですか?」
その言葉に「あはは」と糸生さんが笑い出す。とても楽しそうな顔で、その笑顔が魅力的で、私はじっと見つめてしまう。私は今まで相手が笑ったとしても顔を見ず、相手の周囲に現れる
「橙野さんってけっこう毒吐くのね」
「そうですか?」
「人間らしくて好きよ、そういうとこ」
「私も糸生さんの笑った顔、人間らしくて好きです」
「あら、笑わないと人間らしくないかしら?」
「人形みたいだなぁって思ってました。完璧すぎて感情あるのかなぁって」
「ふふ、調子が出てきたみたいね」
相手の顔をしっかり見て話すのが、こんなにも楽しいとは思わなかった。そうして思うのが、奈々にもこうして接していればよかったなという思い。私が奈々の大切さに本当の意味で気付いたのは、奈々が倒れた後。よくある失った後で気付く大切さ──という最低な気付き。奈々のことは好きだったし、一緒にいて楽しかった。だがやはり私は、
「そろそろ到着するわ」
「ありがとうございます。事務所には
「彼はいないわ。捜査で出てるから」
「お礼、言いたかったです。結束さんが電話で鷹臣さんの名前を出してなかったら、私はここにいませんから」
「時間を戻す前の話?」
「そうです。糸生さんが『ちょっと結束君、私の電話なんだから大声で唾を飛ばさないで』って呆れてました」
「ふふ、結束君は声が大きいし、よく唾を飛ばすのよ。電話ではどんな話をしてたの?」
「あれ? 桜子先生にも言いましたけど、聞いてないですか?」
「聞いたけれど、ちょっと私も確かめたいことがあって。なるべく詳しくがいいんだけど、だめかしら?」
「いえ、大丈夫です。ええと確か……、『ちょうどこっちに向かってるだと? ニュースで見たのか? ──たまたま? ならテレビでも携帯でもいいからニュースを見てみろ。大変なことにな──ああ、そう、そうだ。私達の出番ってわけだが、お前にも手伝って貰おうと思ってな。それよりなんでたまたまこの病院に向かっていたんだ? ──前から調べてた? ──ああ、そういうことか。相変わらずの情報網だな、お前は。それで? 七戸の母親はなんて? ──ああ、そうか。まあそりゃ心当たりなんてあるわけないだろうさ。その情報が本当なら、七戸には同情するよ。溺愛する妹がおかしくなって一家離散なんてな。──ああ、ああ、そうだ。今のところこっちは何も分かっていない状況だ。だが少し怪しいやつがいてな。時間があったら調べて欲しい。名前は奥村──』ってところまでしか聞こえなかったです」
いったいこれで糸生さんは何を確認したいのだろうと思いながら話したのだが、聞き終えた糸生さんが「ほぼ確定よね……」と呟いたところで、事務所の駐車場に到着した。
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