【悲観自暴のイントキシケーション】


 ──二〇一八年、四月三十日、午後二十一時十三分、板橋区カラオケ店


「んー! んんー!」


 ブラックライトが照らす薄暗い室内。ギラギラと光るLEDのミラーボール。頭が割れそうな程に響く大音量の音楽。そんなカラオケの個室で、私は馬鹿みたいに呻いていた。

 口には無理やり剥ぎ取られたブラジャーが捩じ込まれ、三人の男に体を押さえつけられている。すでにお気に入りのスキニーパンツは脱がされ、もうすぐ下着も剥ぎ取られそうだ。Tシャツも捲り上げられて胸は露出し、乱暴に掴まれる。

 男達は四人組で、一人が室内の異変を悟られないようにだろうか、流行りのアップテンポの曲を扉を背にして熱唱している。狂ったように片手でタンバリンを鳴らし、一つも悪いことをしているつもりのない笑顔が気持ち悪い。

 この最低最悪の状況に涙が溢れるが、全部自分のせいだと後悔し、どうしようもない自分の浅はかさに嫌気がさす。溢れる涙や嗚咽とは裏腹に、もうこのまま乱暴されてもいいとさえ思ってしまう。アルコールを飲んだせいで思考がまとまらない。酔いが回って上気した体や、恐怖で少しだけ漏らしてしまった下着を見られ、「興奮してるよ、こいつ」と笑われる。なぜこんなことになってしまったのか──

 それは自分の馬鹿さ加減が招いた事態。


 今からおよそ四時間前、私は桜子おうこ先生に霊障の相談に乗ってもらっていたのだが、途中で本来の会いたかった相手、鷹臣たかおみさんから「事務所に戻るのは二十時過ぎになりそうだ」という連絡が入った。連絡が入った時間は十七時少し前で、鷹臣さんが戻って来るまで三時間近くある。なので私は二十時頃にまた事務所を訪れる約束をして外に出た。その際、桜子先生には「事務所で待っててもいいよ」と言われたのだが──

 七戸君は私が一人になると現れる。それは例えば、桜子先生がトイレで席を外した僅かな時間でも。

 明確な法則を知る術などないが、おそらく壁で隔てられた空間に一人でいる時に現れるのだと思う。七戸君を怖い──とは思わないが、もう疲れたのだ。何も考えたくないし、かといって七戸君が目の前に現れれば考えてしまう。罪悪感から七戸君を抱きしめてしまうし、そうなればさらに深く考えてしまう。とにかく今は事件のことを考えたくなかった。事件は警察に任せ、霊障は鷹臣さんに任せ、考えることをやめて楽になりたかったのだ。


 桜子先生と連絡先を交換し、私はふらふらと外に出た。外にいる限りは人が途切れることがなく、七戸君が現れる心配がない。二十時までどう過ごそうかと考えながら、とりあえず近くのコンビニに入る。その後、事務所近くの道路沿いにベンチを見つけ、腰掛けた。手には初めて買った缶のお酒。少し前、手軽に嫌なことが忘れられるとSNSで話題になった、アルコール度数が九度のロング缶。元から大人っぽいと言われていた私だったが、レジのタッチパネルの年齢確認だけで簡単に買えてしまった。


 そんなお酒を、好きなアーティストの曲を聴きながら一口飲んだ。きつい炭酸と強めのアルコールのせいだろうか、喉が少し熱くなる。ただ、甘さが売りの商品を選んだので、思ったよりも飲みやすいと感じた。

 それを一口、二口と飲み、気付けば体がふわふわとしてくる。景色も少し動いているように感じられ、なんだか楽しい気分で飲み続け──

 そこからはよく覚えていない。確か四人組の男性に話しかけられ、気分がよくなっていた私は誘われるがまま、近くの商店街にある居酒屋に行った──ような気がする。なんとなく覚えている印象は、悪い人達じゃなさそうということ。なぜなら黒や赤、赤みを帯びたピンクのもやなどの悪い性質の色が見えなかったから──な気がする。これまでも街でナンパされることなどはあったが、その際は必ずそれらの色が見えた。中には直球で「ホテル行こうよ」と声をかけてくる男性もいたが、そういう時は赤みを帯びたピンクのもやが大きく揺らめく。

 ただこの時の私は、初めて飲んだお酒でおかしくなっていたのだろう。その時に気付けばよかったのだが、もやが見えなくなっていたのだ。朧気な記憶を辿ってみれば、酔いが回ってきた辺りから、街行く人の周囲にももやが見えなくなっていた──ように思う。


 居酒屋でも勧められるがままにお酒を飲み、いい人達だと思い込んでいる馬鹿な私は楽しんだ──ように思う。そうして今から少し前、このカラオケに入った。ここでもお酒を飲んだ──気はする。

 その結果が今の状況だ。

 私はもやが見えていようが見えていまいが、いつも判断を間違える。どうしようもなく浅はかで、どうしようもなく馬鹿なんだと悔しくて涙が止まらない。考えるのが嫌だからと安易にお酒を飲んだのもそうだし、七戸君の事件から目を背けているのもそう。私のせいで七戸君が殺されたと思った方が楽。楽なのだ。

 七戸君はいい人で、奥村遥人は残酷な殺人鬼。警察も世間もそう判断する。それで終わり。七戸君が殺されたことに他に理由なんてないし、不自然なんてない。私は何も気付いていないし、判断したのは周り。逃げた。逃げたのだ私は。本当は不自然に気付いて──


 この状況は「それでいいの?」という私の心の声を無視し、そうやって楽な方へと逃げた罰。七戸君という罪悪感を作り上げて抱きしめ、同時に他力本願でどうにかしてもらおうとしている罰。犯されたくなんてないが、私なんて犯された方がいいんだと自暴の思いが膨らむ。


 胸や下腹部を這う舌の感触が気持ち悪く、耳に響く下卑た言葉や獣のように荒い息遣いに嫌悪しかない。「俺からでいいか?」「またお前からかよ」「いいけど中に出すなよ」と手馴れた会話が聞こえ、普段から同じようなことをしているクズなんだと思う。だけど私もクズだ。クズの私には相応しい初体験。気付いている。不自然にはすでに気付いていて、目を背けている私もクズだ。もう疲れた。考えたくない。終わらせたい。このままめちゃくちゃに犯され……、いや、いっそ殺してくれないだろうか──


 そう思ったところで、信じられない程に涙が溢れた。自分に対する罰だと言い聞かせ、目の前の理不尽な暴力を受け入れようとしていたが、やっぱりこんなのは嫌だ。気持ち悪いし、苦しいし、痛いし、怖いし、こんなのは絶対に嫌だ。だがそう思ったところで、もうどうしようもない。無理やり足を広げられ、「じゃあお先に」と──


 私は思い切り叫んだ。口に捩じ込まれたブラジャーが邪魔をして「んー!」としか音は出ないが、とにかく思い切り叫んだ。叫んで身を捩り、なんとか挿入を逃れることは出来たが──

 それに腹が立ったのか、私に挿入しようとしていた男性の顔が怒りに染まり、拳を振り上げた。

 ああ、殴られるんだ、そう思った私は反射的に目を閉じた。すぐに襲ってくるであろう痛みを想像し、体が強張る。


 だが痛みはやって来なかった。変わりに「離せよ!」「なんだおめぇ!」「に、逃げろ!」という男性達の声がして、それに被せるように「すぐに警察が来るので暴れないで下さい」という落ち着いた男性の声もする。目を開けてみれば、私に覆い被さっていた男性の腕を捻り上げている知らない男性の姿。室内は暗く、酩酊しているせいで顔はよく見えないが、黒髪の短髪で、金縁の丸眼鏡をかけているように見える。そこで私の意識はいったん途切れた。



 ---



「んん……気持ち……悪……」


 酷い頭痛と吐き気で目を覚ます。頭はがんがんと痛み、なんだか視界がぐらつく。胃もむかむかとして気持ち悪く、気を抜けば吐いてしまいそうだ。ベッドに横になっていたようで、とりあえず上体を起こして周りを見渡してみるが、暗くてよく見えない。ただ、暗い中でも微かに見える室内の様子に、ここが病室だということは分かった。

 なんで病室に? あれ? 私何してたんだっけと考えたところで、断片的に記憶が蘇る。慣れないお酒を次々と飲み、暗いカラオケの室内で私は──


 おそらく最後まではされていないはずだが、あの四人組の男性の悍ましい行為に震えてしまう。そんな震える私に、「大丈夫? まだ具合悪いでしょ」と聞き覚えのある声がかけられて、背中をぽんぽんとさすられた。隣を見てみれば、ベッド脇の椅子に腰掛けた、人形のように綺麗な女性。


「いと……、糸生いとうさんだぁ……」


 私はそう呟くやいなや、糸生さんに抱きついて思い切り泣いてしまった。自分でも何を言ったか覚えていないが、おそらく「怖かった」「嫌だった」「よかった」というようなことを叫びながら泣いたように思う。なんでここに糸生さんがいるのかは分からないが、糸生さんはそんな泣き叫ぶ私を、落ち着くまで優しく抱きしめていてくれた。



 ---



「な、泣きすぎですよね……」

「いいのよ。それより具合は大丈夫?」

「頭痛と吐き気はしますがなんとか……」

「そう。でも今日はゆっくり休みなさい。急性アルコール中毒一歩手前だったんだから」

「怒らないんですか……? 私、未成年なのにお酒……」

「それはまた今度ね。お水、そっちの机に置いてあるから飲める分は飲んで寝てちょうだい」

「はい……」


 糸生さんに促されるまま、サイドテーブルに置かれたペットボトルの水を飲む。水を飲みながらなんだか無性に悲しくなり、私はまた泣いた。


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