【不俱戴天のティーシポネー】


 病院へ向かう途中、そういえば──と、七戸鳴海が力を手に入れた経緯のことを考えていた。ホワイトボードには二〇一〇年四月に、七戸鳴海が家族旅行で訪れた中国で太歳たいさいという肉状のを食べ、時間を巻き戻す力を得た、と書かれていた。鷹臣たかおみさんや奥村君の記憶の中には、太歳に関する調査、及び考察の記憶もある。

 それによれば太歳とは、中国の民間信仰や日本の陰陽道で祀られる神の名。木星の鏡像であり、仮想の天体。祟り神でもあり、木星と呼応して土中を動くだと伝えられている。食べることで不老不死の力を得られるとも。祟りを信じず、一族滅亡となった家の説話もある。言ってしまえば災いを齎す凶神であり、ろくでもないものなのは確かだ。日本では太歳神たいさいしんとも呼ばれ、八将神はっしょうじん方位神ほういじんと呼ばれる方位の吉凶を司る八神の一人。

 ああそういえば、神様だから一柱ひとはしらと数えるのか、どうでもいいけど、と余計なことを考える自分に、少し笑ってしまう。

 そのうえこの太歳神は、仏教で言うところの本地仏ほんじぶつ、つまり正体が薬師如来やくしにょらい。凶神で方位神で、正体は人々を苦痛や業から救う如来だということにさらに笑ってしまう。国や時代で名前も性質も変わり、神仏習合や神仏分離で合体したり分離したり。私の口からは、呆れたように神様も大変だなと声が漏れた。


 ただ、鷹臣さんの考察には面白いものがあった。まず一つ目は、粘菌ではないか──というものだ。粘菌とは、菌と表記されてはいるが、菌類ではなく、植物や動物でもない独立した生き物。アメーバの仲間。粘菌は単細胞生物なのだが、複数個体が集まって集団で行動している。条件によっては巨大化も。その巨大化したものが肉状に見え──というもの。ただこれでは不老不死になるという伝説や、実際に七戸鳴海が特殊な力を得た答えにはなり得ない。


 二つ目が、実際に特殊な力を持った人間の肉なのではないか──ということだ。七戸鳴海の得た特殊な力は時間の巻き戻し。つまり時間に干渉する。その力を持った者が過去に死亡し、肉塊となった。そうして時間に干渉する力が肉塊に作用し、時間経過による腐敗を防いでいた。中国には実際に太歳と呼ばれる正体不明の肉状の食材もあるようで、そこへその肉塊が紛れ込み、七戸鳴海が食べたことで時間の巻き戻しの力を得た──というもの。

 私にはこっちの考えの方がしっくりくる。

 ただ、そもそも私だったらそんな怪しい肉状の物体なんて食べないけどと思う。だが七戸鳴海はカニバリズムの性質を備えている。肉状の物体が魅力的に見えてしまったのだろう。

 奥村君の記憶によれば、七戸鳴海は中国で出会った同い年くらいの男の子に太歳を渡されたようだ。男の子は「これを食べれば不老不死になるらしいぜ」と言って渡してきたのだが、顔はニヤケていたし、「食ってみろよ」と割と強引だったようだ。まあつまり、男の子は手に入れた気持ちの悪い肉状ので七戸鳴海をからかったのだろう。男の子は太歳の伝説も信じていないだろうし、七戸鳴海がまさか食べるとも思っていなかったはず。まあ食べれば面白いか程度の悪ふざけ。だが七戸鳴海は食べた。近くに両親がいれば止めただろうし、たまたま一人になった僅かな時間で起きた出来事。そうして七戸鳴海は時間を巻き戻す力を手に入れ──

 最悪な方にしか傾かない偶然に、乾いた笑いしか出てこない。この最悪な流れでいけば、もしかすれば奥村君の無罪を証明する証拠なんてないのかもしれないな、とも思ってしまう。その時はどうしようか──と考え、考えたくもない嫌な考えが浮かぶ。いや、考えたくもないなんて嘘か。ぞくりと嫌な感覚がして、後ろから抱きしめられるような生暖かい感触。

 

「殺そ。みんな殺そ。クズは殺すしかないの」


 私の言葉かそれとも言わされたのか。肩の上に重みが載る。そちらに視線を移せば、原型を留めない程に顔が腫れ上がった女性が、じっとりと私を見ていた。女性は私を背後から抱きしめたまま、耳元で「ころそ、ころそ」と囁く。


「殺されたの?」

「なぐ……られて……なんど……も……なん……ども……」

「怖かったね」

「いたかっ……た……くるし……かった……あのクズ……が……」

「そうだね。なんでクズばっかりなんだろうね」

「ころ……そ……ころし……て……ころし……」


 ふっと、女性が私を抱きしめる生暖かい感触が消える。認識しないようにしたのだ。もしかすれば私は、成仏などをさせてあげられるのかもしれないが、今はやり方が分からない。周りを見てみれば、そこかしこに恨みがましい目をした霊の姿が朧気に見える。耳には怨嗟の声も響き、まとめて認識しないようにした。頭が痛み、鼻血が出そうな感覚。おそらく乱用すれば、また血を吐いて倒れるのだろうなと思う。


「クズは殺すしか……」


 漏れ出す言葉を止められない。心が憎悪で支配されていくのが分かる。私は──



 ---



 病院へと到着した私を、ぞくりと嫌な感覚が襲う。まるで絶対的な捕食者がこちらを見ているような。視線を辿ってみれば、病院の新南館、五階の窓。そこにはまるで濁った血液のような赤と、墨汁のような黒が渦を巻いていた。渦は天体望遠鏡で覗く木星の大赤斑のような、赤黒く巨大な目玉に見え、ひどく禍々しい。

 あの時のだ──と自然に声が漏れ、体が震える。

 そう、時間を巻き戻す前、奈々が私の手を取って七戸鳴海から助け出し、大学の玄関で見たあの赤黒い目玉。

 この目玉のような赤黒いに関する考察は、鷹臣たかおみさんや奥村君の記憶にあった。それは特殊な力を持つ者の悪意や敵意、激情性や攻撃性が高まった際に現れるのではないかというもの。そのうえ、自分の行う行為になんの罪悪感も抱いていない、サイコパスのような人物にしか現れない変化なのではないか──と。

 目玉のように見えるのはたまたまなのか、それとも理由があるのかは分からないが、そう考えれば確かに納得はいく気がする。大学の玄関でを目撃した際は、おそらく七戸鳴海は奈々に邪魔をされて感情が昂ったはず。さらにこれは奥村君の記憶だが、時間を巻き戻した後で奥村君が私を助けた際は、七戸鳴海が舌打ちをした後で赤黒い目玉を奥村君が目撃していたようだ。その他にも奥村君の記憶には、七戸鳴海の上に赤黒い目玉が発生した映像がいくつかある。

 それに殺したいほどに憎い七戸鳴海を目の前にして、奥村君には赤黒い目玉は現れていない。奥村君の記憶を把握した今だからこそ知っているが、あの時の奥村君は七戸鳴海を殺したくて殺したくて仕方がなかった。だが奥村君は自分の行為に罪悪感を覚えることが出来る人間。まだ確定するには検証数が少なくてなんとも言えないが、やはりあの赤黒い目玉はサイコパスかつ、特殊な力を持った者の悪意や激情性などのなれの果て──なのかもしれない。

 おそらくこちらを睨んでいるように見えるのは、どこから見てもそう見えるのだろう。

 そうして赤黒い目玉を見て思うのが──


「奥村君が危ない!!」


 そう、横浜久嗣よこはまひさつぐだ。おそらく横浜久嗣が奥村君を殺して肉を食べようとしているのだ。そうなれば横浜久嗣は時間を巻き戻せるようになったということだろうか──最悪の流れだ──

 と、私は無我夢中で駆け出していた。考え得る限りで最悪の展開。横浜久嗣が時間の巻き戻しを使えるようになり、奥村君の力も継承し、これで七戸鳴海殺しの証拠すらなかったら──


 新南館の五階にたどり着いた私は、赤黒い目玉が見えた窓の病室を目指す。そこはすぐに判明した。警察官が警備する病室があり、そこから禍々しく赤黒いもやが盛れ出している。だが警察官は何も気付いてないようで、ただ病室の前に立っているだけ。

 生田いくたさんだ! 生田さんの姿を消す力だ! とすぐに思い至る。おそらく横浜久嗣は七戸鳴海の肉を食べたことで、生田さんの特殊な力を継承したのだ。そう考えれば、やはり特殊な力の継承と発現までの時間は個人差ということになるのだろう。姿を消し、物体をすり抜けられる力があるのなら、警察官が警備していたところでなんの意味もない。そのうえこの力は、服や手に持ったものにも能力が作用する。つまり凶器を持ったまま透明になり、任意で壁などの物体をすり抜けられる。だが人などの命あるものはすり抜けられなかったはずだし、間に合いさえすれば止められる。


「どいて下さい!!」


 私は駆ける勢いのまま、奥村君の病室の扉を開け放った。それと同時、警察官に羽交い締めにされたが──


「お願い! 助けて!!」


 私の叫びに呼応するように、女性の霊が警察官に纒わり付く。私は原型を留めない程に腫れ上がった顔の女性に「ありがとう!」と伝え、転がり込むように病室へと入った。そこにはベッドの上、無数の管に繋がれた奥村君の姿だけ。だが──


「見えてるんだから!!」


 そう、姿は見えないが、赤黒く渦を巻くもやは見えているし、もやのおかげで人の形の空間が浮いて見える。その人の形をした空間が、奥村君のベッドの横で腕を振り上げ──


「だめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」

 

 叫びながら人の形をした空間、横浜久嗣に飛び付いた。だが一歩遅く、横浜久嗣の腕が振り下ろされ──

 奥村君の体、心臓の位置にぷつりと穴が開く。ナイフも透明になっているせいで、裂けた肉の中がよく見える。


「ふざ! ふざけるなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

 そこからはよく覚えていない。姿の見えない横浜久嗣を、めちゃくちゃに殴った気はする。拳の皮が捲れ、血が吹き出してずきずきと痛んだ気もする。首を絞め、口汚い言葉を叫んだ気もする。気付けば横浜久嗣は私の下で息も絶え絶えにぐったりとし、姿も見えるようになっていた。そうして私は駆け付けた警察官に取り押さえられ、それと同時に気を失ってしまう。気を失う瞬間、「時間を巻き戻されてしまう──」と絶望し、どろんと淀んだ横浜久嗣の目と私の目が合う。そのまま沈む意識を浮上させることは出来ず、私の視界は暗転した。


 

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