終話

赤黒い渦


 ──二〇一八年、五月五日、東京都北区


「今日は天気がいいね。最高気温も二十四度くらいだって」


 返答がないのは分かっているが、つい問いかけてしまう。今日は担当の医師から外出の許可を貰い、車椅子を押しながらの散歩。


「ちょっとミニスカートだと寒かったな。でも可愛いから我慢我慢」


 久しぶりに履いたミニスカートに気分が上がり、道すがら、ガラスに反射する自分の姿を見て嬉しくなる。


 横浜久嗣よこはまひさつぐが逮捕、勾留されてから四日。容疑は奥村君の殺人未遂容疑。奥村君は一命を取り留めた。私が横浜久嗣に飛び付いたおかげで、振り下ろされたナイフが心臓から逸れたのだ。ただ、予断を許さない状態ではある。元から意識不明のうえに出血多量。死ななかったのは奇跡だと言っていた。

 車椅子を押して歩きながら、「助かって欲しいよね……」と自然と言葉が漏れる。その問いかけが届いたかは分からないが、なんとなく「うん」と聞こえた気がする。

 吹き抜けた日陰の肌寒い風が頬を撫で、「やっぱりミニスカートは寒いなぁ」と呟いた。


 横浜久嗣の逮捕は奥村君の殺人未遂容疑だが、他にも容疑はかかっている。そう、七戸鳴海の殺人及び死体損壊。その他にも多数の強制性交等罪の疑いに、致死傷罪も。その中には娘である横浜妃奈よこはまひなへの虐待、及び強制性交等罪も含まれる。危惧した時間の巻き戻しもまだ使えないようで、透明化の力は再使用までまだ時間がかかりそうだ。やはり特殊な力には個人差があるようで、横浜久嗣は生田いくたさんより透明化の能力が弱い。そのうえ私が掴みかかった際は、能力の副作用で頭痛や吐き気に襲われていたようだ。素手の私が横浜久嗣に勝てたのは、そういうことなのだろう。

 覗き見た記憶によれば、透明化の効果時間はおよそ五分。七戸鳴海の肉を食べたすぐ後で使えるようになったようで、一度勝手に発動している。七戸鳴海が殺害されたのは四月二十三日の深夜。奥村君を襲ったのは五月一日。それらを踏まえれば、おそらく使用回数は九日間で二回。再使用までの時間は、次に使用出来るようになるまで確認のしようがない。ただ困ったことに、再使用出来るようになれば、留置場から簡単に逃げ出せるだろう。

 あの後で糸生いとうさんに無理を言って横浜久嗣に会わせてもらい、目を合わせて記憶を覗き見たが、横浜久嗣も逃げ出そうと考えていることが分かった。そのうえで時間の巻き戻しも使用出来るようになってしまったら──と、糸生さんや鷹臣たかおみさんが頭を抱えていた。今現在、糸生さんはと掛け合って、横浜久嗣の体、自分では取り出せない位置にGPS機能搭載のマイクロチップを埋める案を押し通そうとしているが、通るかどうかは定かではない。いや、通ったとしても能力の再使用には間に合わないだろうなと思う。そうなれば横浜久嗣は逃走してまた──


「ほんとクズだよね。それに救いようのない馬鹿」


 横浜久嗣に多数の容疑がかかったのは、これまでの犯行をほぼ全て撮影し、データに残していたからだ。幼い頃からの横浜妃奈に対する行為や、これまで何度も行ってきた強姦行為。それによってこれまで二人殺してしまっていた事も判明。さらには七戸鳴海を殺害する様子もしっかり撮影していた。そうして運よくここまで逮捕されずに来ていたのだ。恐ろしいほどの強運に、またしてもいるかいないか分からない神を呪いたくなってしまう。

 肝心のデータがどこにあったのかだが、これも運よく見つかることなく、これまで逃れてきていた。データは基本的にずっと横浜久嗣の家にあった。だが横浜久嗣が新里明里にいざとあかりと出会った後で、保管場所が変わる。新里明里が自由に出入りできる、都内にいくつもあるマンションの一室へと。

 そう、新里明里の父親、飛鳥中央大学附属病院の理事長、新里弘明にいざとひろあきの所有するマンションに。新里明里は父の新里弘明からいくつもマンションの部屋を与えられていたのだ。しかも新里弘明の所有するマンションとは言ったが、名義は新里弘明の母、つまり新里明里の祖母でもある新里明美にいざとあけみ。新里明美は認知症で施設に入っており、実質マンションは新里明里のものだった。そのうちの一つを横浜久嗣に使わせていたのだ。横浜久嗣はそこにデータを保管していた。だからこそ横浜久嗣が新里明里への傷害で捜査された際も、データは発見されなかった。その後すぐに被害届は取り下げられたし、もし仮に捜査していたとしても、祖母名義のマンションには辿り着かなかったかもしれない。なぜならそのデータには、新里明里が自身のサディズムや性欲を満たす映像も含まれていたからだ。横浜久嗣に過度な暴行を加えている映像や、これまでいくつか行った強制わいせつの映像が。それをわざわざ新里明里が言うとも思えないし、やはり新里明美名義のマンションに辿り着くのはなかなかに難しそうだ。と言っても、鷹臣さんや糸生さんなら、そのうち辿り着いただろうな、とも思う。


 そんなデータの在り処をあの日、横浜久嗣が奥村君を殺そうとした日、意識を失う前の私が目を合わせて知ったのだ。私が次に目を覚ましたのはその日の深夜だが、その際、病室にいた糸生さんに伝え、すぐにデータは見つかった。結局全てが明るみになってはしまったが、横浜久嗣は本当に悪運が強いように思う。撮影やデータを残していることに関しても、一度目を合わせたことがある奥村君なら知っていたはずだ。そうなれば、奥村君の記憶を全て把握した私も知り得そうなものだが、そうはならなかった。なぜならやはり特殊な力は個人差がある。私は他者の記憶が覗き見れるし、一度見たものを忘れない。だが他者の記憶を覗き見た際、実は全てを把握出来てはいなかったのだ。ところどころが歯抜けの記憶。記憶を覗き見た対象の、その時々の感情などはある程度分かるが、何を考えているかを全て知れる訳ではない。

 そうして横浜久嗣にとっては運良く、こちらにとっては運悪く、撮影していたことやデータがあることを私が把握出来なかっただけ。今回の事件は、私の力が中途半端だったために真相到達まで時間がかかってしまった。奥村君を疑い、右往左往し、泣いて漏らしていた自分を思い出し、また少し笑ってしまう。

 ただ、今は私がいたからこそ終わらせられるとも思っている。クズは、もう。

 

「しつこいなぁ」


 スマホが着信を知らせて振動し、表示された名前には佐伯鷹臣さえきたかおみの文字。無視していると着信が切れ、今度はすぐに糸生冬湖いとうとうこと表示されて振動する。とりあえず「後で出るから」と呟いて、スマホと財布くらいしか入らない小さな可愛いバッグに捩じ込んだ。

 

「そういえば新里弘明も馬鹿だったよねぇ」


 相変わらず返答はないが、かまわず問いかけてしまう。新里弘明も様々な容疑で逮捕、勾留されていた。叩けば埃しか出ないクズで、罪状が多過ぎて笑うしかない。糸生さんが鬼のように追い込んでいるのだが、実は新里弘明は警察にも圧力をかけていた。あの日、七戸鳴海が殺害されたことを知った新里弘明は、すぐに横浜久嗣も関与しているのだろうなと思い至った。だからこそ、「奥村遥人おくむらはるとの単独犯だということで終わらせろ。証拠もそうなっているんだろ?」と圧力をかけたのだ。まあつまり、やはり不自然はあったが圧力によって目を瞑り、警察は奥村君が犯人と断定して動いていたということだ。

 横浜久嗣が殺した──と新里弘明が思っていたかは定かではないが、横浜久嗣が逮捕されるようなことがあれば、そこから自分の罪が暴かれる可能性もある。

 警察内部には、新里弘明にお世話になっている人物が多数いるようで、それも含めて糸生さんが鬼になっていた。ただ、怒った糸生さんの顔も可愛かったなと思う。あの顔でなら、怒られてもいい気がする。


「ふぅ、ようやく着いたぁ」


 車椅子を押す手を止め、目の前の建物を眺める。相変わらずバッグの中でスマホが振動していたので、電源を切ろうとして間違えて通話ボタンを押してしまう。電話の向こうで糸生さんが、「橙野とおのさん、お願いだから戻ってきて」と懇願するように声を絞り出す。


「すぐ戻ります。それより糸生さん。新里明里は見つかりましたか?」

「いえ、それはまだよ」


 今現在、新里明里は行方不明となっていた。おそらく七戸鳴海の肉とともに。

 実は横浜久嗣がデータを保管していたマンションの冷凍庫、一口大に小分けした七戸鳴海の肉片も保管されていた。その数が、横浜久嗣の証言と合わないのだ。マンションやエレベーターの監視カメラを確認したところ、新里明里の姿が五日前の映像に映っていた。おそらく新里明里は部屋で横浜久嗣の撮影データを見たのだ。七戸鳴海殺害の映像には、「この肉を食えば私もタイムリープの力を……」と、馬鹿みたいに興奮して呟いている横浜久嗣の姿が映っている。つまり映像を見た新里明里も七戸鳴海の肉を食べ──

 

「そうですか。じゃあ私も探すの手伝いますね。幽霊、割と自由に干渉出来るので、役に立つと思います。終わったら連絡しますね」

「終わったらって──」


 糸生さんの言葉を最後まで聞かず、通話を切って電源を落とす。おそらく、すぐに糸生さんは来るだろう。その前に。

 私は車椅子に座る人物ではなく、少し先、歩道の上に視線を向け、「ここに奥村君に酷いことした人がいるみたいだよ」と話しかける。

 そう、生田さんの生霊に、だ。

 車椅子には虚ろな表情の生田さんが座っている。

 今日は生田さんの担当の医師から外出の許可を貰い、車椅子を押しながらの散歩。担当の医師は、浜辺さんと不倫関係にある村田先生。バラされたくなかったらと提案したら、あっさり了承してくれた。生田さんの両親が来たとしても、上手く説明してくれるだろう。


 私の言葉に反応し、朧気な生田さんの生霊が、ずず、べちゃりと這い寄る。私はしゃがみこみ、そんな生田さんの生霊の頭を撫でた。そうして生田さんの生霊に横浜久嗣の写真を見せ、「この人以外はだめだよ」と言って送り出す。

 今の私は霊的な存在と魂の糸のようなもので繋がりを持ち、ある程度行動に干渉し、視覚も朧気に繋ぐことが出来る。私の目には、朧気な警察署内、留置場の映像が映る。


「魂の繋がりが切れれば、奈々や生田さんも……」


 この魂の繋がりだが、横浜久嗣からもうっすらと無数に伸びていた。おそらくは七戸鳴海が殺害し、肉を食べた相手との。つまり横浜久嗣が死ねば──


「クズはみんな、死んじゃえばいいんだ」


 そう呟いたと同時、警察署内が慌ただしくなった。理解できなくて、殺したくて、めちゃくちゃにしてやりたくて、感情が昂る。繋いだ朧気な視界は、真っ赤に染まっていた。だがそのことには何も感じない。引き千切られているのは、気持ちの悪い、人の形をしただけの欲に塗れた醜悪な


「じゃあ行こっか。次は新里明里だね。それが終われば奈々も、生田さんも」


 そう声に出し、歩き出した私の姿が、隣のビルのガラス扉に映る。そうしてガラス扉に映る私の上には、あの赤黒い目玉。

 まるで濁った血液のような赤と、墨汁のような黒が赤黒い渦を描いていた。



(了)




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赤黒い渦 鋏池 穏美 @tukaike

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