【博愛加虐のデュアリティ】
「
探るような私の問いかけに「そうですね」と鷹臣さんが答え、眼鏡をかちゃりと上げた。そう、そうなのだ。それだけではだめなのだ。道具が見つかったとしても、時間を巻き戻した後では当然使用した形跡などない。それはつまり七戸鳴海が犯罪を犯した証拠はないし、となれば奥村遥人が七戸鳴海の犯罪を止めようとしていたという図式は成り立たない。そもそもその図式が成り立つのならば、奥村遥人が七戸鳴海を殺して犯罪を止めたという図式も成り立たせることが可能になってしまうし、ここだけを考えたところで先には進めそうにない。
ではどうすれば奥村遥人の無実を証明出来るのかと問われれば、やはり裏で蠢くもう一人の犯人の罪を暴かなければならないということになる。もう一人の犯人──と考えたところで、今のところ思い浮かぶのは医者の横浜さんくらいだ。おそらく横浜さんは奥村遥人と繋がっているし、娘が七戸鳴海の被害に遭っているので恨みもあるはず。もしかすれば二人は協力関係にあったのかもしれないし、そうなれば横浜さんが七戸鳴海を殺害して奥村遥人に罪を着せ──という流れも考えられる。
ただそんな簡単なことなら警察もすぐに気付いて──いや、そもそも警察も世間も七戸鳴海が猟奇殺人犯だとは気付いていないはずなので、横浜さんに疑いは向かな──いや、横浜さんと奥村遥人が繋がっていたなら連絡を取っていただろうし、そこから何かしらの怪しいやり取りが──その日の横浜さんのアリバイは──いや、そもそも横浜さんではなく──
と、私の頭の中はぐちゃぐちゃに迷走する。そんな困惑する私を見てだろうか、鷹臣さんが「ある程度今の状況を話しましょうか?」と問いかけてきた。自分で考えたいと言った私だったが、手持ちの情報だけでは限界がある。そのうえ私はニュースやネットをあまり見ないようにして事件から逃げていたので、正直今現在の状況がどうなっているのかをほとんど知らない。
「お願いします。ニュースやネットも見ないようにしてたので、知らないことも多くて……」
申し訳なさそうに答えた私に「分かりました」と鷹臣さんが応じ、ふらふらとホワイトボードの前を行ったり来たりと歩き始めた。その姿を見た
しばらくして話し始める合図なのか、鷹臣さんが眼鏡をかちゃりと上げる。
「……とりあえず時間を巻き戻されているので、七戸鳴海所有のワゴン車に血痕などの遺留物は見つかっていません。それはつまり七戸鳴海のこれまでの犯行を証明出来ないということになりますね。被害者には被害の痕跡も残っていないですし、この巻き戻された時間軸では被害者は突然倒れただけということになります。もちろん同じ大学で倒れた五人との因果関係を訝しむ流れもありますし、過去に同じ症状で倒れた人物が複数いるという噂がネットで流れ始めてもいます。ですがそれらを掘り下げたところで決定的な証拠や繋がりなど一つもないですし、それもあってこの事件は様々と謎を残したまま、奥村遥人が怨恨による殺人を犯し、その後に自殺を図って失敗した──という簡単な構図で幕引きになろうとしています。七戸鳴海の殺害、及び奥村遥人の自殺未遂現場である旧北館には二人の痕跡以外がありませんしね。七戸鳴海の体を損壊させるために使用した道具は旧北館に放置されていた道具を使ったようで、奥村遥人の指紋しか残っていません。監視カメラは旧北館の取り壊しが決まってから作動していませんし、奥村遥人が侵入した非常口の鍵は以前から壊れていて、どうせ取り壊すのだからと報告されずに放置されていたようです。さらに奥村遥人の配信した動画で『僕が七戸鳴海を殺した』とはっきり明言していますし、動機は『交際していた
「え……?」
鷹臣さんの言葉に思わず反応し、声を漏らしてしまう。私は奥村遥人の配信した自殺の実況動画も見ていなかったし、その後は事件に関する情報を見ないようにしていた。なので動機で生田さんの名前が上がっていたことを知らなかったのだ。困惑する私の様子を見て鷹臣さんが「大丈夫ですか?」と問いかけてきたので、とりあえず今は話を聞こうと「大丈夫です。続けて下さい」と応じた。
「では続けますね。生田さんというのはもちろん被害者の生田さんで、フルネームは
どんどんと出てくる新しい情報に眩暈がするが、私に視線を合わせて「続けても?」と問いかける鷹臣さんに「お願いします」と応じる。
「ここまでで疑問点は複数残りますが、奥村遥人の配信した動画での自白や複数の証拠を元に、『奥村遥人が交際相手の生田彩音を七戸鳴海に取られ、恨みから起こした犯行』ということで決着しそうになっています。実は奥村遥人のパソコンから七戸鳴海の犯行に関するデータなども出てきたのですが、いかんせん時間の巻き戻しという非論理的なデータですからね。警察は『奥村遥人の妄想』で片付けるつもりです。裏では
「鷹臣さん達は誰がやったかの検討はついてるんですか?」
「今のところ怪しいのは飛鳥中央大附属病院勤務の
思いがけず飛び出した新里さんの名前に「え……?」と声を漏らしてしまう。横浜さんに関しては考えていたが、まさかここで新里さんの名前が出てくるとは思っていなかった。正直新里さんには、怪しい様子など一つもなかったように思う。
「新里明里が被害者達のお見舞いに頻繁に通っているのは知っていますか?」
「はい。そう聞きました」
「新里明里がお見舞いに訪れたあと、患者の着衣に乱れが多いように感じるとの証言が看護師から上がっています。確証はなく、気のせいかもしれないと看護師の方は言っていましたが……」
「そういえば……」
奈々の患者衣が乱れていたことを思い出す。私が奈々の病室を訪れる前、新里さんがお見舞いに来ていたとも聞いた。
「そんな……、まさか……」
「新里明里について調べたのですが、彼女には前歴が複数ありました。前科ではなく前歴。全て示談による不起訴になっています」
「なにをしたん……ですか?」
「女性に対する強制わいせつ及び傷害です。今から一年前、二〇一七年に法改正はなされたのですが、現段階で女性同士での強姦は成立しない。強姦よりも軽い強制わいせつなのが歯がゆいですね。と言っても示談になっているので、法律上では罪ではないということになりますが」
鷹臣さんの言葉に頭が混乱する。全然分からなかった。新里さんはいい人だと思っていた。純粋に奈々を心配し、お見舞いに来てくれているのだと思っていた。
「傷害というのは……?」
「行為中、被害者に噛み付いて怪我を負わせた──といった内容ですね。調書によれば、『美味しそう』『食べてしまいたい』と言っていたということで、噛まなければ性的に満たされないと本人も供述しているようです。行為中の過度な暴力もあったようですね。新里明里はパラフィリア障害群、いわゆる性的倒錯者だったようです。パラフィリア障害群に関しては?」
「まだ本で読んだ程度ですが、臨床心理学を専攻しているのである程度なら……」
パラフィリア障害群。それは私の専攻する臨床心理学や精神医学、精神病理学でも取り扱う病理的な精神疾患の総称。一般的な性道徳や社会通念から外れた性的嗜好のことを総じてパラフィリア障害群と呼ぶのだが、性道徳や社会通念というのは曖昧なものである。個人の価値観によっても解釈や定義は多様に存在しているし、それによって偏見や差別の原因となる場合もある。それらを踏まえ、慎重に診断しなければならない精神障害である──と、前に読んだ本に書かれていた内容を思い出す。
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