【迷走思考の決意行】


 長い睫毛に縁取られた、人形のように大きな糸生いとうさんの目が見開かれ、「なんであなたがそれを……? それにやっぱりって言ったわよね……?」と疑心と猜疑のもやを揺らめかせて私に迫る。糸生さんが口にしたというのは奥村遥人おくむらはるとのことだとして、というのはという言葉に対してだろうか。思わず呟いてしまったが、特殊公安という言葉は聞いたことがない。いや、漫画かなにかで見た架空の警察組織にそんな名称があった気がするが、おそらく私が知る限りの知識では、現実の警察組織に特殊公安というものはないはず。ただ、記憶の中の結束ゆいつか君と呼ばれた男性は、「確かに怨霊の類はこの世に存在してるんだろうが」と言っていた。つまり特殊公安とは、有り得ざるナニかを捜査する部門かなにかなのでは──と、それこそ有り得ないことを考えてしまう。


 なおも糸生さんは「ねえ、橙野とおのさん、どういうことか説明──」と私に迫って来る。そんな中、病室の扉が勢いよく開け放たれた音がした。驚いてそちらを見るが、眼前にはゆらゆらと揺れる柔らかい白。ベッドの周りを囲むカーテンが邪魔をして、入口側は見えないが──

 扉を開けた人物が「おいおいやっぱり異常事態だよ糸生さん! 奥村と同じ大学に通う七戸鳴海しちのへなるみの妹も一年前に同じ症状を発症していた! しかも地元も奥村の地元の隣町だ!」と声を荒らげてこちらに向かって来る。その人物に向けて「ちょっと結束君!」と制止するように糸生さんが声を上げて立ち上がるが、結束君と呼ばれた人物は聞こえていないのか、「これが誰か──いや、奥村のしてることなんだったら許せねぇっ!!」と怒気を孕んだ声を上げ、ベッドのカーテンを勢いよく開けた。その瞬間、私の目には信じられないものが映り込み、「あ……、あ……」と言葉を失ってしまう。

 カーテンを開いた人物は、糸生さんの記憶で見た男性だったのだが──

 その男性の周り、赤黒いもやが纏わりついていたのだ。濁った血液のような赤と、墨汁のような黒が渦を巻く、七戸鳴海の周囲や、奥村遥人の白いもやを侵食しているのと同じ、赤黒いもやが。と言っても、男性が纏うそれは七戸鳴海よりは勢いが弱い。


 男性は私の姿を見咎めると、「ああ、くそ……」と呟き、やってしまったというようなバツの悪い表情をして、頭をガシガシと掻きむしった。私がまだ目を覚ましていないと思っていたのだろうか、男性は頭を掻きながら「いや違うんだ」「なにか聞いたかお嬢ちゃん?」と、明らかに動揺している。そんな男性に「結束君、ちょっと廊下に出るわよ」と糸生さんが声をかけ、廊下に連れ出した。

 そんな二人の背中を見送った訳だが、やはり男性の周りには赤黒いもやが渦を巻いている。のだが、男性の赤黒いもやは、糸生さんに声をかけられた辺りから勢いを弱めていた。


「赤は激情性や攻撃性や怒り……、黒は嘘や悪意や敵意……」


 思いがけず赤黒いもやを見て動揺した私だったが、だがまてよ──と思い、もやの表す性質や感情について思考を巡らせるように呟いていた。

 正直もやについては私の経験則でしかなく、はっきりとした正解なんて分からない。それこそ七戸鳴海や奥村遥人に出会うまで、渦を巻くような赤黒いもやなんて見たことがなかった。そうして考えられるのが、この二人は性質や感情が強すぎるが故に見えていただけで、もしかすれば他の人にも同じように赤黒いもやは発生していたのではないか──ということだ。

 私の性質や感情を見る力は、おそらく昨日からのストレスなのか何なのかは分からないが、虹彩の変化と併せて精度が上がっているように思う。それによって目を合わせることで、記憶を俯瞰した映像として覗き見ることも出来るようになったのだと考えられるし、頭痛や鼻血はそれに伴った副作用のようなものなのかもしれない。と言っても、実際には起きていない記憶の映像も見えている訳だし、分からない部分はまだ多々とある。だがとりあえず現状で考えられることに頭を巡らせれば──

 初めて見た七戸鳴海の赤黒いもやが禍々し過ぎて、しっかりと考えずに嘘や悪意、激情性や攻撃性が混じりあって渦を巻いているのだと思い込んでしまったのではないだろうか。


 よくよく考えれば赤は激情性や攻撃性や怒り、黒は嘘や悪意や敵意であり、つまりだけでも色としては成立する。先程結束さんは「これが誰か──いや、奥村のしてることなんだったら許せねぇっ!!」と、奥村遥人に対して怒りや敵意を剥き出しにしていた。そうして纒わる赤黒く渦を巻くもや

 そうだ、そうだったんだと一人合点がいき、呟く。七戸鳴海は周囲の評判がすこぶるよく、これまで人助けも多くしてきたと聞く。もし仮に七戸鳴海が私の怯えているような嘘や悪意、激情性や攻撃性を秘めた人間ならば、少なからず悪い噂も聞くはずだ。だがそんなことはなく、皆一様に「七戸鳴海はいい人だ」と言う。つまり私は見えてしまった赤黒いもやのせいで、七戸鳴海の人間性を誤解したのかもしれない。

 ではあの赤黒いもやは何なのかと考えた時に、やはり結束さんと同じ怒りや敵意なのではないかと思い至る。周囲からその人柄を褒められ、普段から人助けをしてきたであろう七戸鳴海。そんな正しく真っ直ぐな七戸鳴海が纏う、怒りや敵意が禍々しく渦を巻く赤黒いもや

 そう、おそらく七戸鳴海は何者かに激しく怒り、敵意を向けているのだ。それも生半可なものではない怒りや敵意を。それは誰に対してなのか今の段階では判断出来ないが──いや、私の心は七戸鳴海が怒りや敵意を向ける相手を思い描いてしまっている。


 覗き見た糸生さんや奈々、生田いくたさんの生霊や看護師の浜辺さんの記憶。そうして先程結束さんが話していた内容が、否が応でもその人物を想起させる。そう──


 奥村遥人だ。


 大学で原因不明の精神疾患を起こした四人と接触しており、生田さんの生霊や奈々の記憶で見た、黒ずくめの男と同じ髪色をしているように思える奥村遥人。同じく黒ずくめの男と同じだと思われる黒いワゴン車にも乗っているし、奥村遥人が冷たい目で生田さんを睨んで、生田さんが「死にたくない」と泣いている映像も見た。浜辺さんの記憶では、入院中の生田さんが「奥村君」と呟いていたとも言っている。

 糸生さんの記憶では、奥村遥人の地元、青森でも謎の精神疾患が過去に多数発生していたと言っているし、その精神疾患で娘が倒れた横浜さんという医者が、奥村遥人に対して「これはどういうことだ!」と掴みかかって病院を指差している。そのうえ倒れた娘がいるのは青森であり、つまり奥村遥人の地元。叫んでいた内容からも、横浜さんは奥村遥人が関わっていると確信している様子。

 結束さんが話していた内容では、七戸鳴海の妹も一年前に謎の精神疾患で倒れており、さらに七戸鳴海と奥村遥人の地元が隣町だということも分かった。


「偶然じゃないよね……」

 

 ここまでくれば偶然なんかではないと思う。青森と東京で起きている原因不明の精神疾患の背後、その全てに奥村遥人がいる。そうして七戸鳴海も、確証はないが薄々そのことに感付いているのではないか。

 例えば、例えばだが、理由は分からないが奥村遥人が私を狙っている──と考えれば、色々と合点がいく。これも理由は分からないが、七戸鳴海はどうにかしてそれを知り得て、私を奥村遥人から守ろうとしていたのではないか──と。そうなれば七戸鳴海が私に執着していたことも理解出来るし、奥村遥人が私のことを一方的に知っていたことも納得出来る。七戸鳴海が詳しいことを言わずに私に近付いていたのも、確証がないからだと考えれば──


 ただ気になるのは、奥村遥人の善性を示すような白いもやだ。経験則でしかないが、白いもやは慈愛や正しさであり、それが違っていたことはないように思う。思うのだが──

 私の専攻は臨床心理学。精神障害や心身症など、様々な心の問題を研究しているのだが、精神医学的観点から、原因解明や治療法が確立されていないものも数多くあり、いまだ不明瞭な部分も多々とある分野。私はまだ学び始めて間もないし、確定的でもないことにこの言葉を使うのは不適切なのだとは思うが、例えば奥村遥人がサイコパスだったとしたら──

 と考えてしまう。確かサイコパスには言語性知能や認知機能に優れ、自身の攻撃性や衝動性を調節出来るというタイプがあったように思う。それがどういうことかと言えば、このタイプは頭の回転が早いうえに口も上手く、自身の攻撃性や残虐性を上手く隠し、普段は良い人を演じている──といった感じだ。そうして思うのが、このタイプは感情もコントロール出来るのではないか、ということである。上手く隠し、演じるのではなく、能動的で正確性のある制御。それを私は特異な力によって可視化し、目撃した。

 つまり奥村遥人の場合の赤黒いもやは、怒りや敵意ではなく、であり、私はが善性を示す白いもやを侵食していると思ってしまった。奥村遥人の性質は善であり、何らかの外的要因で赤黒いもやがその善性を侵食しているのだと。

 だがそれはおそらく違ったのだ。逆だったのだ。奥村遥人の性質は赤黒く渦を巻く悪であり、それを類まれなる感情コントロールの力、内的要因でねじ伏せていたのだ。

 考えれば考えるほどに奥村遥人がこの異常事態の黒幕に思えてくる。それこそ生田さんの生霊や、現実には起きていない記憶の映像。七戸鳴海は本当に私を守ろうとしていたのか、奥村遥人を疑っているのか──など、分からないことだらけではある。

 

「確かめなくちゃ……」


 私は体勢を変え、ベッドから降りようと床に足をついた。挫いた足首がズキンと痛み、肋骨や肉を抉られた二の腕も涙が滲むほどに痛む。だが確かめるならば今しかない。もし仮に奥村遥人がこの異常事態の黒幕であり、危険な相手だったとしたら、私一人ではどうにも出来ない。ただ、今なら──

 警察が大勢いるこの病院の敷地内でなら──

 奥村遥人が黒幕だったとしても、下手に動けないはず。だが問題は廊下にいるであろう糸生さんと結束さんだ。正直に私の力やこれまでの流れを話したとして、信じて貰えるのだろうかと思う。糸生さんの記憶を見た限りでは、どうやら結束さんは怨霊の類を信じているようだが、それはあくまで結束さんの言葉。糸生さんが信じているかどうかはさっきの記憶の映像では分からない。特殊公安が怨霊に対する部門かもしれないというのも私の想像でしかないし、となれば正直に話したところで信じて貰えない可能性は高い。そうして説明に時間をかけ、その間に奥村遥人が帰ってしまえばそれまでだ。もはや今のタイミング以外で、奥村遥人に近付くのは怖い。

 ただもしかすれば私が何もしなくとも、糸生さんや結束さんが真実に辿り着くのかもしれないが、私の目なら、私の記憶を覗き見ることの出来るこの目なら、この訳の分からない状況を終わらせることが出来るのかもしれない。何より私自身が、どうして奈々がこんな目に遭っているのかを知りたいと思っている。

 この行動は愚行かもしれないし、他にやりようはあるのかもしれないが──

 私は怪我の痛みに耐え、病室の入口へと向かう。

 


 

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