【業因業果のアービトレイター】
どれだけ走っただろうか、私を追っていた
気付けば私は、町を見下ろすことが出来る小高い丘の上の公園に辿り着いていた。王子駅を見下ろせる大学の近くにある公園で、東北新幹線が走る姿を見ることが出来る、見晴らしのいい場所。
ひとまずトイレで顔を洗って鼻血や吐血の跡を綺麗にし、展望台のようなスペースのベンチに腰掛けて町を見下ろす。町には様々な色が揺らめいていた。強いストレスを受けたからだろうか、私は今、自分の力を完全にコントロールしている感覚がある。見下ろす町には白やピンクなどの色が揺らめいているが、それよりももっともっと多く、黒や赤、赤みを帯びたピンクや赤紫などの負の色が大きく揺らめいていた。
「気持ち悪い色」
そう呟いた私の肩に、生暖かい感触がして重みが載る。ちらりと視線をやれば、目元が赤黒く腫れた女性の顔が載っていた。「もうなぐら……な……いで……」と懇願するように私を見て、どろりと眼球が落ちる。そうして私を覗き込むように前に進み出た顔の下、首が長く伸びていた。
ああ、殴られたうえに首を吊らされたのか。
正直その見た目に恐怖を覚えはするが、いつの間にかそれほど怖いと思わなくなっていた。怖いのはぐずぐずに腐れたような悪意であって、肩の上に載る彼女からは悪意が感じられない。
私はそんな女性の頭を撫で、「怖かったよね、痛かったよね」と語りかけた。女性の崩れた顔が少し穏やかになり、ふっと肩の重さが軽くなって、消えた。いや、消えたのではなく、私が認識しないようにしたのだ。そう、今の私は霊的な存在に簡単に干渉できる。周囲に数え切れない程の霊的な存在が蠢いているが、見えるようにも見えないようにも。私が望めば他の人にも見えるようになるのだろうし、触れられるようにもなるだろう。中には怨嗟に塗れた怨霊の姿も見受けられるが、私が干渉して他の人にも見え、触れられるようにしたらどうなるのだろうと思う。
「もっと早く力を使いこなせてたら……」
すでに私は、覗き見た奥村君の記憶を全て認識していた。事務所から逃げ出す際、一瞬目が合った鷹臣さんの記憶も全て把握した。もちろん糸生さんや
そうして思うのが、
特殊な力を持った人が恨みを持って死んだ場合は、強力な怨霊になる確率が高そうだ、という考察を奥村君の記憶で知った。生田さんの生霊があれほど恐ろしい力を持っていたのは、つまり生田さんが特殊な力を持っていたからだ。姿を消したり、物体をすり抜けられる力を。
その力で生田さんは奥村君のストーカーをしていた。その中で、奥村君のパソコンに保存されていた七戸鳴海の犯行やその全てを知る。そこから生田さんは勝手に奥村君に協力していたのだ。東京に来てからもそれは続き、生田さんは七戸鳴海の家から「美味しそうな人リスト」というデータを見つけ、奥村君に報告する。もちろん美味しそうな人というのは性的にも肉的にもという意味だろうし、今後の犠牲者となる人。七戸鳴海は
そうして奥村君は、リストに書かれた人物に接触することにする。殺害計画では、ひとまず七戸鳴海に五回時間を巻き戻させ、任意で時間を巻き戻せなくなってから殺すつもりでいた。つまりそれは、五人見捨てるということになる。五人見捨てた後で殺害計画の仕上げを──と考えていた。
ただ、全てを犠牲にしてでも七戸鳴海を殺すと決めた奥村君だったが、やはり根は正しい人間。犠牲にしてしまう人達を、自分の罪として心に刻むために接触したのだ。生田さんが奥村君の前で「死にたくない」と泣いていた映像の意味も知った。あれは生田さんの特殊な力に、回数制限や時間制限があったことによるものだった。勝手に七戸鳴海を探ったり、家に侵入したりしていた生田さんに、奥村君が釘を刺したのだ。「七戸鳴海の前で能力が切れたりしたら殺されるよ」と。そのうえで七戸鳴海がこれまで被害者にしてきた行いを、細部に渡って生田さんに伝えたのだ。ドライバーやペンチ、
もちろん生田さんも七戸鳴海の犯行は盗み見た奥村君のパソコンのデータで知っていたが、そこに書かれていたのは強姦や拷問、肉を食べたという簡単な文字のみ。それ故に怖いなとは思ったとしても、深くは想像していなかったのだろう。奥村君に細部まで語られ、途端に怖くなったのだと思う。ようやく被害者の苦痛をしっかりと想像し、それが自分に向けられるかもしれない可能性を想像し、「死にたくない」と泣いたのだと考えられる。
奥村君の名前を呟いていたり、名前に反応したのは、ストーカー行為をするほどの恋慕の情や執着心がそうさせたのだろう。憎悪や怨嗟の赤紫色の
「いい人なんだね、奥村君……」
こうして考えれば、難しいことなど一つもなかったのだと思う。そのうえでもっと早くに私が力を使いこなせていたら──と思ってしまう。実は私は、入学して一週間後にはすでに奥村君と話していたのだ。奥村君は七戸鳴海の「美味しそうな人リスト」の全ての人物に接触するつもりだったので、それもそうだろうと思う。だがそのすぐ後で七戸鳴海が犯行を行い、時間を巻き戻して私の記憶からはそれが消えた。いや、厳密に言えば消えていないのだが、力を使いこなせていなかったせいで認識出来なかったのだ。仮にその時、私が力を使いこなせていたら──
奥村君に協力出来たのかもしれないし、もしかすれば奈々を守れたかもしれない。その後も私の力が中途半端なせいで、限定的な記憶の映像や、霊的なものに干渉する力で右往左往した。信じられないほどの遠回り。そうしてこれもややこしい話だが、私だけではなく、誰の魂にも時間の巻き戻し前の記憶が刻まれている。だからこそ時間を巻き戻す前の奈々や生田さんの記憶を見ることが出来、私はそれらの記憶も含めて奥村君を疑う判断材料にしてしまった。全てが噛み合わず、迷走に迷走を重ね──
全てを知った今だからこそ、奥村君があんなことになるのを防ぐ未来もあったはずなのにと、悔しく思う。
「あ、七戸鳴海もいる」
視線の先、七戸鳴海が私に向かって這い寄って来ていた。私に対する地縛霊なのか、それとも浮遊霊なのか──
ただ、七戸鳴海も特殊な力を持っている。つまり強力な怨霊になっているはずだ。
危なかったなと思う。少し前の私は、弱ってあまり力を使えなくなっていた。これまで七戸鳴海が現れていた際に、力を使えてその姿を確定してしまっていたら、私は殺されていたのかもしれない。
そんなことを考えながらベンチから立ち上がり、「今行くから」と呟いて七戸鳴海に向かって歩き始め──
這い寄る七戸鳴海の背中を踏みつけた。
今の私は霊的なものをどれだけ見つめようと、「姿を確定させる」と念じなければ何も起きない。つまり七戸鳴海がどれだけ強力な怨霊だろうと、
今も私の踏みつける足元では、身動きの取れなくなった七戸鳴海が、四肢の失われた体で蠢いていた。
「ほんと、気持ち悪い」
吐き捨てるような私のその言葉とともに、七戸鳴海が消え去る。と言っても、存在は感じるので消滅した訳ではないのだろう。私が認識しないようにしただけ。いずれ成仏、いや、苦しんで消滅させられればなと思う。安らかに成仏なんて、絶対にさせてやらない。
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