第30話
白騎士は陥落した。
ジャンヌの魔術によって生み出された炎は鉄すら溶かす。強靭な鎧に守られているとはいえ、人体が長時間耐えられるような代物ではない。
その、はずだった。
きいきいと金属の軋む音がする。
勝ちを確信し、ウルスラと共にジャンヌの援護に向かおうとしていた僕たちは、熱された鎧の音には気を留めなかった。
しかし──がしゃん、と、ひときわ大きな音がした。
弾かれたように目を向けると、炎上する純白の騎士が幽鬼の如き足取りで立ち上がり、身体に纏わりつく炎を、腕を振って打ち払った。
「っ!?」
彼は首筋の辺りをまさぐると、何かを取って放り捨てた。
ぱりん、と涼やかな音を立てて砕けたものが何なのか、僕の動体視力では見切れなかった。だがガラス製の何か。
恐らくはアンプルか注射器。
「くそっ!? ドーピング!? まずいまずいまずいよウルスラ……!」
「大丈夫、もう死に体、瀕死だよ。いくら薬があっても──」
僕は過去一かもしれないくらい焦っていたが、ウルスラは能天気だった。
勿論、彼女も追い詰められた獣に止めを刺すつもりで身構えてはいるし、相手が捨て鉢になることも考えて僕を守る位置に居る。
だが、その警戒では足りない。全く足りない。
「まともな薬のワケがない! どうせ覚醒剤とかその類のブースタードラッグだ! 人間を生きたまま解剖するのに使おうとしてた、死ぬまで戦わせる──地獄を作るような薬だよ!」
手足を失くそうと、腸が零れ落ちようと、たとえ心臓が止まろうとも、身体が物理的に動かなくなるまで戦い続けるようになる。
そればかりではなく、身体能力の大幅な向上──肉体が自傷自壊しないよう付加されているリミッターを解除し、潜在能力の全てを解放する。ブースタードラッグとはそんな薬だ。
我が偉大なる曽祖父のみならず、もっと古い時代の医者や薬師たちが「不死の薬」として研究していたもの。実用量産化が叶えば、かのスパルタ兵すら凌駕する無敵の軍隊が作れるだろう。
しかし、曽祖父は手稿の中で、量産を行わず研究を破棄したと記した。
より解剖に適した、強制的に意識と痛覚を遮断する麻酔薬の開発に成功したから、という理由ばかりではない。
戦に係わる一方だけが使うならまだしも、双方がそれを使えば、戦場は今以上の地獄になる。無限の士気、どれほど血を流そうと止まらない戦闘、互いが互いの死を確定させるまで延々と攻撃を続けることになると、そう予見したのだ。
加えて、強力な効能には代償が付き物だ。
代価は使用者の魂。
正確には脳や神経系への重大なダメージ。譫妄などの精神障害、頭痛や四肢の震え、幻覚といった神経障害。内臓や血管、脳へのダメージは寿命すら縮める。
だが──人類を守るためとなれば、話は別だったのだろう。
白騎士は人類の守護者であり、人を殺すために薬を使うことはない。そして魔女を殺すため、人類も守るためであれば、如何なる代償でも支払う。
そういう存在にであれば、曽祖父も薬を作り、与えたに違いない。
「死ぬまで戦う、ねえ? 殺せば止まるってんなら、変わんないよ。どうせ殺すんだ!」
「っ……!」
ウルスラが戦意を、そして殺意を滾らせ、吼える。
位置関係的に顔は見えないが、声を聞くだけで獰猛な笑顔を浮かべているのだろうと分かった。
「……腕を千切ろうが心臓を貫こうが止まらないよ。背骨か頭を狙って」
「オーケー!」
ウルスラは片手を白騎士に向け、慎重に照準を定める。
白騎士は立ち上がっているが、どう見ても死に体で足元すら覚束ない様子だ。
薬が本格的に効き始めるまでの猶予期間なのか、それとも、炎によって脳や神経にダメージがあるのか。
頼むから後者であってくれという僕の願いは都合が良すぎるし、甘すぎる。現実が見えていない。彼はさっき、纏わりつく炎を振り払うほど機敏な動きを見せたのだから。
「──魔女のいない、人々が外敵に脅かされることのない世界。互いを疑わず迫害することもない楽園を作る。そのためになら、私は喜んで地獄に落ちる!」
爽やかな空気を霧散させ、ヴォルフ卿は獰猛に吼える。薬の影響でハイになったのもあるだろうが、僕にはそれだけではないように思えた。
迸る激情に、僕は納得すら覚えた。
あぁ、そうか。そういうことか。
彼もまた、自分の演技で自分を騙そうとしていたのだ。
明るく爽やかな性格を演じ、魔女に対する苛烈な憎悪を薄れさせ、感情的にならないように。冷静に、そして確実に魔女を殺すために。
「──ッ!」
一度は鉄をも溶かす炎に巻かれ、ぐったりと脱力していた身体が掻き消える。
僕とウルスラが目を瞠った直後、僕の眼前からウルスラの姿も同じように消え、殆ど同時に重いものを殴ったような、ドスッという鈍い音がした。
「嘘だろ……!?」
苦しげな声は、少し離れたところで上がった。
反射的に目を向けると、五メートルほど離れた瓦礫の上にウルスラが倒れ、白騎士がその腹を踏みつけていた。
「っ!?」
ウルスラは反撃できず、僕も目を瞠るばかりだった。
速すぎる。
戦闘開始直後の万全な状態よりなお速い。
いくらブースタードラッグを使ったとはいえ、そもそも彼の筋肉は強烈な炎によって甚大なダメージを受け、まともに動くかも怪しい状態だったはずだ。
「薬品を使ったのは失敗でしたね、ライヒハート卿。おかげで炎が直接私に触れることは無かった」
「っ! なるほど……! ですが熱によるダメージはあったはずです。そこにブースタードラッグなんて使った以上、すぐに処置しないと二度と立って歩けなくなりますよ」
僕は努めて硬く、強い声を作って言う。
──ブラフだ。
実際、本当に二度と起き上がれなくなるレベルの後遺症が出る可能性はあるが、断言はできない。
見つめる先で、白騎士は全身の関節を同時に動かすような奇妙な動きをした。
単に動作の確認だったのだろうが、殺したつもりだった人間にしてほしい挙動ではなく、白騎士の性能とは関係なく化け物のように見えた。
「では、すぐに手当てをしないといけませんね。……貴方たちを殺して」
「……っ」
ヘルム越しの一瞥。
目が合っているかどうかも分からないそれだけで、手も足も竦んで動かなくなった。
視線には魔力があった。
敵対者を殺すという絶対的な殺意。人類のために戦うという崇高な決意。そして、そのためなら死をも厭わないという、貫徹した意志──殺気ならぬ死気とでも言うべきもの。
魔女の、何十人も何百人も一絡げに殺す殺戮の意志とは別種のものであり、僕が生まれて初めて浴びるもの。
「……っあ、」
不味い。呑まれる。
護身術の先生は、敵に対するときのメンタルセットは『自分本位』だと教わった。
一応、僕には殺人──敵を殺すことへの忌避感はない。正確には「何を今更」と自己解決できる。だが、刃を鈍らせるのはそればかりではない。
最も危険なのは同情だ。
追いはぎや盗賊相手に「生きるに困っているのだな」とか「可哀そうに」とか思ってはいけない。同情したところで、相手の刃が鈍るわけではないのだから。
次に陥りやすいのが、気迫負け。
相手の殺意や敵意に呑み込まれ、或いは相手の主張に正当性を認め、冷静さを失ってしまう。逃げ腰になっても、逆に攻撃的になってもいけない。勝てる相手に怯まず、勝てない相手からは逃げる方法を考えることが、生存への道だ。
敵が何を言おうと、どんな行動原理を持っていようと、どれほど誇り高かろうと、『うるせえ死ね。僕を殺そうとするならお前が死ね』と言い返すメンタル。
それが殺し合いに臨む上で、最低限必要な気概だと。
そして今、僕は白騎士の気迫に怯み、同時に、彼の在り方もまた正しいものなのだと思ってしまった。
人類を守るために戦う彼は正しく、虐殺者である魔女に与する僕が間違っているのだと。
いま襲い掛かられたら、僕は成す術も無く、きっと一手の反撃も出来ず死んでいた。
しかし──そうはならなかった。
ヴォルフ卿がその人間離れした素早さを発揮する前に、彼の同僚が戻ってきたからだ。
「──シュルーダー卿! ここは不味い! すぐに離脱を!」
らしくなく焦ったようなリチャード卿の声は、同僚の殺意を完全に抑え、困惑へと転化させたらしい。僕も同じく、空白化寸前だった思考の中に疑問が生まれ、放心せずに済んだ。
「“ライヒハート”を殺すべきではない」なんて主張には耳を貸さなかっただろうヴォルフ卿だが、いつも冷静な同僚の珍しい焦燥には、興味以上に危機感を煽られたらしい。
そしてヴォルフ卿は白騎士──神聖騎士団の中で最精鋭だった腕利きだ。殺意に飲まれて状況を読めなくなるような間抜けではない。
「っ……!」
彼は即座に跳躍し、建物の上に飛び乗る。
そして警告の理由なのだろう、僕たちからは見えない位置の路地に目を向けると、慌てた様子で踵を返した。
家の屋根を飛び渡り、その姿は一瞬で見えなくなる。気が付くと、リチャード卿もいなくなっていた。どこかの路地に身を隠したのだろう。
「た、助かった……?」
困惑も露なウルスラが起き上がり、僕の方に歩いてくる。
初めの数歩ほどはふらついていたが、すぐにしっかりとした足取りになったのは流石の一言だ。
白騎士がなぜ撤退したのかは彼女も分からないようで、彼らが最後に見ていた方向を、二人揃って見つめる。
そして──角を曲がって現れたのは、漆黒の装束を纏った死神だった。
その気配、存在感は総毛立つようなもの。異質な、人間ではない存在のもの。
肌の露出が一切ない、黒い着衣。
独特の光沢をもつ防水繊維のツナギに、同じ素材のロングコート。前腕部をぴったりと覆う手袋。つばの広い帽子に、鳥のくちばしを模したようなフルフェイスのマスク。
手には杖──いや、黒い、レース編みの傘を持っている。日傘だろうか。
ペスト医師。
本物か、医者モドキか。最早そんなことは気にならなかった。
未だ燻ぶる地面を進む、悠々たる足取りには見覚えがある。
ジャンヌとウルスラと同じもの。自らの無敵性を知り、目に付いた人間全てを殺す魔女のものだ。
「まさか……“病死”の魔女!? あいつはヤバいよシャルル、逃げよう!」
ウルスラは白騎士に対するような戦意でもなく、同族に巡り合えた歓喜でもなく、化け物らしからぬ──化け物に怯える人間のような反応を示した。
「え、なに、知り合いなの?」
リチャード卿を撒いていたのだろうが、いつの間にか瓦礫の山の裏側に居たジャンヌが顔を出す。
ウルスラは仲間と合流できたことにほっと息をつき、すぐに僕たちの前に立って「下がれ」というジェスチャーをした。
いや、さっき言った通り「早く逃げろ」という意味か。
「噂だけは! 殺した数じゃあたしも敵わないような奴! ……シャルル、急げって! あたしらは殺し合いにならないけど、あんたは死ぬ!」
いつになく動きの鈍い僕に、ウルスラが苛立ちを露にする。
しかし、僕はもう逃げるどころではなかった。
意思疎通が取れるかどうかも分からない魔女がどれほど危険か、少し考えれば分かる。白騎士の言も併せると、魔女は基本、人間を見るや嬉々として飛び掛かり、殺し尽くす動物だと考えていい。
ジャンヌとウルスラが、二人の魔女が一緒に居るとはいえ、僕は殺意の対象である人間。そして、どんな死因でも死ぬ──山のような死因を持つ生身の人間だ。
だが、僕の足を止め、思考を空白化させたのは恐怖ではなかった。
「──まさ、か」
あの防護服。あのデザイン。あの生地。
体格は記憶にあるものとは違うが、何より、それが手にした日傘に見覚えがあった。
──あれは、僕があげたものだ。
父の出張に付いて大きな街に行ったとき、僕が担当した患者がテーラーで、お礼と治療費を兼ねて作って貰った
間違いない。
だが、だとすれば。
「姉、さん……!?」
それは。あれは。……彼女は、つまり。
「シャルル!? 待って、駄目!」
「馬鹿! 前にも言ったけど、魔女は家族だろうと何だろうと、世界の全てを呪って生まれるんだ!」
ふらふらと歩き出した──“病死”の魔女に向けて歩き出した僕を、二人の魔女が掴んで止める。
しかし、少女二人の腕力など、白騎士の拘束とは比べるべくもない。
簡単に、投げたり傷つけたりすることなく、すり抜けるように逃れられる。
「っ!?」
「あんた死にたいのか!?」
意表を突かれた二人は動かない。
腕だけは辛うじて伸ばしてきたが、二歩ほど足りない。
魔術を使って杭や炎の壁でも作れば僕も止まらざるを得なかったが、二人とも、誤って僕を傷つけることを危ぶんでくれた。
数歩ほど離れた位置で止まると、少し違和感があった。
当然の──喜ばしい違和感だ。彼女は記憶の中よりも背が高く、体つきも女性的な起伏に富んだものになっている。
手袋に包まれた手が動き、鍔の広い帽子を脱ぐ。
その下に押さえられていた、長い銀髪が風に靡いた。
もう一方の手がマスクを外すと、透き通るような白い肌と、涼やかな光を湛えた赤い双眸が露になる。
「──久しぶり、シャルル。今日はいい天気ね」
日の陰った曇天の下で、彼女──我が姉、イヴ・ライヒハートは、記憶にある通りの慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
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