第17話
言葉の意味するところを理解した直後、僕は身体を全力で制御した。
この馬鹿もっと早く言えアンタも保菌者じゃないか、と汚く罵りそうになった口も、飛び退きそうになった足も、礼を失した反応をしそうになる全身を宥めすかす。
どおりで街に人気が無かったはずだ。ここは今──ペスト流行域なのだ。
いや厳密にいえば、彼が保菌者である確証はない。
ないが──ペスト罹患者と同じ家に住んでいるのなら、保菌していると見るべきだ。
いや、落ち着こう。まだ慌てるような状況ではない。
従来のペストであれば僕には多少の抗体があるし、予防薬の持ち合わせもある。万が一伯爵から僕に感染したとしても、発症しないか、軽症で済む。最悪の場合でも、僕には治療のノウハウがあり、伯爵には器材を揃えるだけの資金と人脈がある。
何も焦る必要は無い。
「……容体は?」
「教会医師にも見せたが、良くならない。ジョンならもしかしてと思って、手紙を出したんだ」
もしかして、とは悲観的なことだ。
父が健在であれば、7割か8割の確率で治療できる。患者の体力や体質次第ではあるけれど。
まあ、それも今は関係のない話。僕がやること、やるべきことは一つだけだ。
「……僕が診ます。中に入っても?」
「っ! しかし、君は……いや、お願いするよ」
伯爵は一瞬だけ躊躇い、頷いた。
君はまだ子供だ、とでも言いたいのだろう。ペストは一般的には死病──大抵の医者の手に余る、致死率の高い病気だ。医者の弟子とはいえ十歳そこらの子供がどうこうできるような、生温いものではない。
後ろでウルスラも何事か否定的な言葉を呟いていたが、聞き取れなかったし、聞き返す前にジャンヌが止めた。
ライヒハート家が、これまで数千万を殺したペスト相手にどれだけの研究を重ねたか──どのような手段で研究を重ねたか、彼女は僕に聞かされている。懺悔という形で、ではあるけれど。
幸い、ウルスラは僕が治療を試みること自体を止めはしなかった。
まあ、彼らの考えも正しくはある。
子供のお医者さんごっこに付き合っている暇はないと、そう言いたい気持ちも分かる。
だが──僕に言わせれば、当代の医師の八割はそれこそお医者さんごっこだ。
人体の構造を絵に描いてみろと言って、大まかな内臓の配置や骨格さえ描けないような蒙昧ばかり。病気を治すのに十字架は要らないし、悪魔払いの知識も必要ない。精神的アプローチが必要な場面では有用な小道具だが、手助け程度だ。
そんなことを考えて、僕はふと思いついた。
薄く口角が上がったのを自覚する。
全く──酷い冗談だ。
「伯爵」
「なんだい?」
振り返った伯爵に、僕は内心の自嘲をどうにか抑え、穏やかな笑みを取り繕った。
「まずは笑ってください」
「は?」
何もないのに笑えと言われ、伯爵はきょとんとした顔で首を傾げる。
表情の制御なんか社交界では基本中の基本、僕でも多少の心得があるくらいだ。伯爵ともあろう人が出来ないはずはないが、そもそも理由が分からないといったところか。
「仰る通り、僕は子供だ。この見た目では「僕が治す」という言葉に説得力は生まれない。勿論、患者の前では防護服を付けますが、体格は誤魔化せない」
いや正確には仰ってはいないのだけれど、まあ、それはいい。
彼が僕を侮っているのは分かっているし、友人の後嗣とはいえ12歳の子供に何が出来るのかと考えるのは自然なことだ。ふざけるなと怒っていないだけ冷静だろう。
それでも、僕は僕に出来ることを全てやる。
小道具、小細工、大変結構だ。
「でも貴方が自信満々に、「もう大丈夫だ」と笑っていれば、ご令嬢も安心されるでしょう。病気で弱っていなくても、人間は「死んだ」と思ったせいで本当に死んでしまうことがある。でも、その逆もあるんです。「全然大丈夫」と信じ込ませると、普通は死ぬような状態でも持ちこたえることもある」
まあ、この手の偽薬効果的な手段は、「最後の一押し」程度に見ておいた方がいいのだけれど……それでも馬鹿に出来ない影響はある。
かつて、「思い込みで人は死ぬか」という実験をしたことがある。
目を塞いで拘束した検体の指に針を刺して血を流させ、トレイに水滴を落として「これは血の落ちる音だ」と教える。針で空けた穴なんか、自然の治癒力で数分もせず血は止まるが、水の滴下は止めず、「血が出ている」と言い続ける。
十分、十五分と続ける中で、父は検体にあることを教えた。
「人間はトレイから溢れる量の血が出たら死ぬ」と。
それからトレイにどれだけの血が入っているか、数分おきに教える。勿論、指の血はとっくに止まっているし、検体も指を怪我したことくらいあるだろうから、「血が止まらなくなる蛇の毒」と称した、ただ苦いだけの粉を飲ませて信憑性を高めて。
「トレイ半分に血が溜まっている」「トレイの七割」「八割」「九割」カウントを続け──数人に実験して、一人だけがここで死んだ。残りは至って健康だったので、まあ、そういうことだ。
逆に「思い込みで人は死を遠ざけられるか」という実験もした。
体重や体質、体力が近しい検体のペアを同じ病気に感染させ、同じ薬を投与し、同じ看病をする。ただし片方には努めて明るく接し、「すぐに治るよ」と言い聞かせ、もう片方には深刻そう接し「死ぬかも」とまで言う。こちらは単純な比較実験だが、それなりに有意な結果が出た。
勿論、こんな実験に本物の死病は使わない。普通なら三日で治る喉の炎症や熱発程度の、なんてことのない病気。薬は補助程度に使い、自然の抵抗力に任せて治癒させた。
前者は概ね二、三日で治り、後者は一週間ほどかかった。複数のペアで実験して、半分以上のペアで有意差があった。
つまり──「もうダメだ」と思ってしまうと、なんてことのない風邪でも酷くなる。
ペスト級の疾病ともなれば、患者本人の根性、もとい免疫力と精神的体力にも頼りたい。いくら薬があるとはいえ、
「貴方は笑っていてください。「ジョンの弟子が来た。だからもう大丈夫だ」と、まずは貴方自身が信じ込んで、それをご令嬢にも信じさせてください」
「シャルル君……。あぁ、分かった!」
伯爵はにっと、僕を出迎えたときのように朗らかな笑みを浮かべた。
……全く恐ろしい話だ。僕と、いると思っていた父を出迎えたときの喜びでさえ演技だったのでは、なんて怖い想像をしてしまうほど、彼の表情は自然だった。
「……それはそれとして、貴方とご家族、それと使用人にも薬は飲んでもらいます」
伯爵のおかげで患者も安心できるだろうが、それはそれ。予防薬の接種は大前提だ。
ニコニコ笑っていれば抵抗力が上がって無敵、とはいかない。ライヒハート家がペストの治療薬製造や処置のノウハウを持っているとはいえ、そもそもペストの感染力と毒性は尋常ではないし、僕一人では出来ることにも限界がある。患者の数は少ない方がいいに決まっているのだから。
「病気になっていないのに薬?」
伯爵は怪訝そうに首を傾げた。
疑問は尤も……世間一般の常識に照らせば尤もなものだ。薬は病気になってから飲むもの、という認識は、絶対的な間違いというわけでもない。
予防薬、というか「予防」の概念が、世間には今一つ浸透していない。
ペスト患者を診る医師の一部は、患者からの感染を防ぐため特徴的な鳥のようなマスクを着ける。……残念ながら、一部だ。ペスト患者と直に触れ合う臨床医でさえ、ごく一部にしか「予防」という観念が無い。
父曰く、中には「医者は神聖なので汚れない」なんて言う輩までいるそうだ。
伯爵が胡乱なことを言う僕に不信感を抱き、突っぱねられた場合の説得方法を考えながら待つこと数秒。
彼は不思議そうにしていたが、しっかりと頷いてくれた。
「……分かった。ジョンの言うことはいつも変だったが、実際、あいつは母の病気を治してくれた。信じるよ」
「賢明な判断です。では、まずはご令嬢を診察します。それから、幾つか用意していただきたいものが」
「あぁ、なんでも言ってくれ。無茶ぶりはジョンで慣れっこだ」
僕の知らない父のことを語る彼に、機会があれば昔話を聞いてみたいという小さな好奇心が生まれた。
屋敷の中は外観に負けず劣らず絢爛だったが、窓を閉め切り、カーテンまで閉じ切っているせいで空気が停滞していた。香らしき、少し刺激のある匂いが漂っている。
使用人による掃除こそ行き届いており、不衛生さは感じないものの、どうにも息苦しさを感じる空間だった。
宛がわれた部屋に荷物を置き──ジャンヌとウルスラは使用人用の二人部屋で、僕は客間だった──僕の部屋に再集合した二人は、意外にも否定的なことを言わなかった。
「これからどうするの?」「私たちも何か手伝おうか?」と、好意的ですらある。それが、僕には少し不思議だった。
「……何も言わないんだね、二人とも」
僕の問いに、二人は顔を見合わせて笑った。
「放っておいて楽園探しを進めようって? バーカ、それなら「婚約者に義理を通す」なんて言い出した時点で突っぱねてるよ。ここで見捨てるようならそれこそ不義理でしょ」
「……と、ジャンヌに言われましたか?」
「いやあたしの意見だよ!?」
衝撃的なことを言われたとばかり大きな声を出したウルスラに、僕は驚きと共に謝罪を口にする。
さっきのアイコンタクトはそういう意図ではなかったのか。
では何故、と怪訝そうな目を向けると、二人は今度は互いの意思確認をせず、しかし同じように微笑んだ。
「あたしはあんたの真面目なところ、結構気に入ってるんだ」
「私も。それに、シャルルが病気で苦しんでいる人を見捨てられないのって、お姉さんが病気で亡くなったからでしょ? それはシャルルの心の一番大切な場所だろうし、何も言わないよ」
ウルスラは彼女自身の好悪で。
ジャンヌは更に僕のことを理解した上で尊重して。
この──楽園探しには全く繋がらない、時間も体力も浪費する、ペスト感染のリスクさえ生じる僕の自己満足を許容してくれた。
二人の言葉に妙に気恥しくなり、僕は荷物から防護服を取り出して顔を背けたのを誤魔化す。
「……魔女に人助けを肯定されるとは」
「そりゃあたしはあたしで、あんたはあんただからね。あんたが他人や婚約者を助けるのはあんたの勝手だよ。あたしにも同じことを強制しなきゃ、好きにすればいいさ」
ウルスラの言葉に、僕は思わず自省した。
「大量殺戮者」だの「感情で動く化け物」だのと、魔女に対して悪印象を抱きすぎていたと。
彼女たちは感情で動くだけに、他者の感情も尊重し、理解できる。ともすればそれは、大抵の人間よりも優しくすらある。
娯楽のために魔女を惨殺する群衆なんかより、ずっと好きになれると。
しかし──彼女たちの最優先はやはり、自分の感情だった。
「まあ、婚約者ちゃんが死ぬほど嫌な奴だったりしたら、その時はあんたが治した後でもブチ殺すけどね」
「……あぁ、はい」
自省する必要まではなかったと思いつつ、僕は話した記憶も無い、これから“元”が付くことになる婚約者が良い人であることを願った。
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