第18話

 鳥のような特徴的なマスクと防護服を身に付け、道具一式を持った僕は、伯爵自らにご令嬢の部屋へ案内された。

 思いっきり素手でドアノブに触れ、マスクもせず部屋の中に入っていたので、彼の感染はほぼ確定だ。


 後で聞いた話だが、使用人が過度に怖がって娘の世話を蔑ろにするのを防ぐため、彼が率先して接触し「恐れることは無い」と示したかったのだとか。


 まあ過度に恐れる必要は無いが、恐怖という情動は必要だから存在するのだ。正しく恐れ、警戒し、対策する必要はある。

 持つべき危機感を麻痺させるのは賢い行いではないし、伯爵のそれは蛮勇か自殺行為といえる。


 まあ、それはさておき。


 伯爵令嬢の部屋は屋敷の何処よりも鬱屈とした空気だった。

 広い部屋だし、大きなベッドや上質そうな文机といった家具、壁や天井の装飾などの内装は絢爛でありつつも淑やかさを感じる、派手さより精緻さを重視したもの。単純な財力ではなく、優れた職人を集める人脈や審美眼をこそ誇るような。


 しかし、明かりは消されカーテン越しの陽光だけが照らす薄明りの部屋は、香草を焚いた煙が充満し、淀んだ空気が可視化されたかのようだった。

 活性炭などで空気を濾過する仕組みが施されたマスク越しでは臭いが分かりにくいが、大方、香草を焚けば病気が治ると信じている医者モドキの施策だろう。


 精神的アプローチをするなら、この手の香は有効だ。

 だがペストは心理効果で治るほど甘い病気ではない。


 前任者が教会医師だと聞いたときには、王立大学で教育を受けた医学者だと思ったのだけれど……この様子を見るに、信心深さか寄付金額が認められたなんちゃって医師か。


 「ドロシー、もう大丈夫だ。私の知る限り最高の医者を連れてきたよ。ジョンのことは聞かせたね。母上──おばあ様の結核を治してくれた、私の親友。その弟子だ。お前は絶対に治るよ」


 ベッドわきに膝をつき、伯爵は静かに、優しい声で語り掛ける。


 「シャルル・ライヒハート君だ。そう、お前の婚約者だよ」


 余計な紹介をされた、とマスクの下で顔を歪める。 

 どうせ元気になったら婚約を解消するのだから、わざわざ意識させる必要もないだろうに。


 ……そう考えると、変に親近感を持たれても困るか。


 「お休みのところ失礼いたします、ドロテア・フォン・プラヴァーズ伯爵令嬢。私はシャルル・ライヒハート。世界最高の名医コルネリウス・ライヒハートの曽孫にして、当代最高の研究者ジョン・ライヒハートの嫡子にございます。これより貴女様の治療に当たらせていただきます。途中無礼もありましょうが、全ての罰はご快復なされた後に賜りますので、治療中は何卒ご寛恕いただきますよう、予めお詫びと共に申し上げます」


 硬く、形式通りの礼をする。

 伯爵は「緊張しなくていいんだぞ」とか言っていたが、僕が何か言う前に「治療の邪魔になるといけないから」と自分から部屋を出て行った。後で彼自身と移動経路を消毒しなければ。


 まあ、それはともかく──今は目の前の患者に集中だ。


 部屋の中心に置かれた大きなベッドに横たわる、ジャンヌと同じ年頃の少女。

 白い肌と金色の髪は共に汗に濡れ、透き通るような碧の瞳は涙に潤んでいる。整った容姿は苦悶に歪み、思わず手を差し伸べたくなるような悲壮感があった。


 綺麗なものが歪んでいるのを見ると、つい整えたくなるような。そんな感覚もまた。


 「治療中、僕の質問には正確に、そして正直に答えるようお願いいたします。また、僕の指示は他のどの医師のものよりも優先されるとお考え下さい」


 礼節を見せつつ、過度に遜りはしない。

 そして速やかに香を消し、窓を開け放った。


 彼女が本当にペスト罹患者かどうか未検証である以上、窓の開放は迂闊とも言える。例えば結核などの、空気を通じて感染する病気についての知見はあるのだから。


 しかし、こんな煙の充満した部屋にいては治るものも治らないし、むしろ抵抗力が落ちそうだ。中毒死なんかしたら目も当てられない。最低限の換気はすべきだろう。


 次に、僕は部屋の衛生状態を確認した。

 一見して綺麗に見える部屋でも、それは整理整頓が出来ているというだけで、清潔さを保っているわけではない場合がある。


 クローゼット裏に黒い害虫アレがいたり、床の隅に鼠がいた痕跡があったり、カーペットにノミが居たりすると、その部屋は衛生的ではないので対処が必要だ。

 というか、王立大学や王城ですらヤツらを排除し切れていないそうなので、普通はいる。定期的に殺鼠剤や消毒薬を散布していた僕の実家ですら偶に見かけたので、何も対策していないなら、そりゃあいる。


 ざっと見た限り、アレと鼠はこの部屋にはいない。

 しかしヤツらの本拠地は厨房だ。むしろ居室や寝室で最も気を付けるべきは、一見しただけでは分からない小さな虫──ノミだ。


 「シャル──」


 僕を呼ぼうとしたらしいドロテア嬢の声はか細く、湿った咳によって遮られた。

 大きな音を出していたわけでもない僕は当然気付き、大きなベッドの傍に足早に歩み寄る。


 「はい、お嬢様。どうか無理に発話されぬよう……まずはこちらを」


 記憶が正しければ彼女は僕より二つ上、14歳のはずだ。

 年上の女の子を「お嬢様」と呼ぶのは少し気恥しいが、作法として正しい以上は従うしかない。思わず照れ笑いを浮かべてしまったが、マスクがあって助かった。


 僕は鞄を漁り、小ぶりなハンドベル──呼び鈴を渡す。

 貴族が使用人を呼び出すときにも使われるものだが、彼女の部屋には無かった。


 「それから、こちらもお渡ししておきます」


 再び鞄を漁り、今度は一枚の紙を見せてから枕の傍に置く。

 「水」「排泄」「着替え」など要求されるであろう事柄が書かれている、筆談の手間や負担を減らすツールだ。

 

 「では手始めに、貴女の病気が本当にペストであるのかを確かめましょう。……どうかご安心を。私としては、ペストはむしろ慣れ親しんだ病気ですので」

 

 患者の親が「ペストだ」と言っている。じゃあ患者はペストだろう。ペスト用の対処をしよう。

 ……こんな三段論法で動く奴が医者を名乗っていたら、僕も衝動的にそいつを殺してしまうかもしれない。魔女のように。


 まずは彼女を侵す病気がペストかどうかを確定させる。これが第一歩だ。


 しかし、これもそう簡単ではない。

 ペストと一口に言っても、大別して肺ペスト、リンパ節ペスト、そして血液ペストの三種類がある。


 気管支の炎症や血痰がみられたら肺ペスト、リンパ節の腫れや腫瘍がみられたらリンパ節ペスト、特徴的な肌の黒変や敗血症様の症状がみられたら血液ペストと、単純な観察で判別することは一応可能だ。

 しかし傍目にも明らかな症状が出るのは、発症から数日後。そしてペスト感染に対して適切な治療を施さなければ致死率が跳ね上がるタイムリミットもまた、同様の日数だ。


 伯爵は彼女が三日前から高熱で病床に臥していると言っていた。

 既に症状は顕在化しているはずなのだが、黒変の見られやすい手足の末端部、腋下や鼠径部付近のリンパ節に異常はなかった。


 となると、疑わしいのは肺ペストか。 

 面倒だ。類似の症状を呈する別の病気が複数あり、病原を確定させられない。


 手持ちのペスト用の薬は副作用が強く、ペストのように危険な病気以外で使うのは躊躇われるのだ。


 もっと詳しい検査をしたいが、それには実家から持ち出した器材が全く足りない。

 伯爵には予防薬を作る材料を買い集めるようお願いしたが、検査用の器材もおねだりすべきだった。


 今すぐ言いに行こうと振り返ると、何の前触れもなく──最低限度のノックさえも無く、唐突に扉が開いた。

 予期せぬことに肩を跳ねさせた僕は、マスクの下で眉根が寄っていくのを自覚する。


 部屋に入ってきたのは、旅装を脱いで普段着になったジャンヌとウルスラだった。


 「シャルル、何か手伝うことあるかな?」

 「おぉ、広い部屋。あたしも看病ぐらいなら──」


 最悪だ、と口の中で呟く。

 ジャンヌがアッパー期に入っている。


 彼女で実験していた薬の副作用に、躁鬱じみた気性の乱高下があることは薄々感付いていた。

 生来の、出会った時の彼女は、朗らかで元気に溢れた、周りに笑顔を振りまくような少女だった。鎮静効果のある薬剤の実験に使われたことで、治験以後はかなりダウナーだ。

 

 そして魔女となった今、彼女の様相はかなり極端になっている。

 人間を見るや何も考えず飛び出して惨殺したこともあったし、僕の意図を一瞬で汲んで演技をしたこともあった。落ち着いている時とそうでない時の差が、魔女の直情性を鑑みても激しすぎる。少なくともウルスラの方が、ずっと落ち着いている。


 今の彼女は落ち着きのない方──考えが浅く、直情的に動く方のテンションだった。


 「……僕は部屋に入るなと言ったはずだけど」


 怒りが滲みそうになる声を制御する。

 医者は患者の前では常に泰然として、安心感を与える存在でなくてはならない。症状や不安を吐露してくれるように。


 ここで彼女たちに説教をして、患者にまで威圧感を与えるのは下策だ。


 「そんな怖い声出さなくても、あたしたちは大丈夫だって」

 「失礼、ドロテア嬢。少し席を外しますので、何かあれば呼び鈴を鳴らしてお知らせください」


 能天気なウルスラの言葉を一旦無視し、ベッドに横たわった少女に一礼する。


 二人に触れないようにして部屋の外に押し出した時には、僕の怒りも収まり、むしろ自責の念が湧いていた。


 「……ごめん、僕の説明不足だ。一から説明するけど、ペストは普通、患者の咳やくしゃみの飛沫、ゲロや血液なんかに触れることで他人にうつる。特に飛沫は目に見えないほど小さな粒子になって空気中を漂い、呼吸しただけで体内に侵入するんだ。マスクも無しに患者と接触するのは自殺行為だよ」

 「自殺って、あたしたちは魔女だよ? もう病気なんかで死なないって」


 僕が大前提を忘れているかのように、ウルスラは揶揄い交じりに笑った。

 

 しかし、死なないことはこの際、あまり関係が無い。


 「死にはしないだろうけど、病気にはなるはずです。ウルスラは二年間、一度も体調を崩してないんですか?」

 「あぁ、そう言われると……確かにちょっとしんどい時とかあったかな?」

 「大病してないようで何よりですけど、魔女は病気になりますよ。多分。リチャード卿はジャンヌを拘束するのに注射を使うつもりだった……つまり薬が効くんです。なら、病原も効果を発揮すると考えるべきでしょう」


 「病原?」と首を傾げたウルスラとジャンヌに、「病気になる原因のことだよ」と補足する。

 

 色々あって、魔女の生体に関する調査は進んでいない。

 しかしジャンヌには体温があり、呼吸をしており、心臓が動いていることは確実だ。食事や排泄、睡眠も必要だし、発汗や代謝もある。


 つまり超常的な不死性を持ってはいるが、ヒト様の身体構造もまた持っているのだ。

 生理学的に作用する薬が効果を発揮するのなら、同じく生理学的機能を持った成分を生産する病原もまた同じだろう。


 「死なないなら別に──」

 「死にはしないだろうけど、どの程度影響が出るか分からないんだ。ペストといえば肌の黒変だけど、二人とも綺麗な顔なんだから、痕は残したくないでしょ? それに第一、しんどいだけで嫌じゃない?」


 ウルスラと同じく魔女らしいことを言うジャンヌに、僕はすかさず反駁する。

 僕は親しい人が病気で苦しむのは嫌いなのだ。死なないなら別に良い、とか言われても、僕が嫌だ。


 それに、彼女たちは死なないだけで感染する、という仮説が正しい場合──物凄く危険なのだ。

 世の中にはペストにも匹敵する死病がまだまだある。中には感染者が大きく移動する間もなく速やかに、そして確実に死ぬが故に感染が広がっていない病気なんてものも。


 そういったものが彼女たちに感染した場合、周辺被害は未曽有のものとなるだろう。

 そして彼女らに最も近しい人間──つまり僕は、真っ先に感染して真っ先に死ぬ。


 「……」


 いや、現実逃避に思考実験をしている場合ではなかった。


 二人も暫定ペストに感染したと考えるべきだが、予防薬は二人分しかない。

 逃亡中、ペスト流行地域に入ったら即座に飲んで即刻離脱するつもりだったから──僕とジャンヌの二人旅のつもりだったからだ。見通しが甘かった。


 そして、僕の分の薬をウルスラにあげるという選択肢は存在しない。

 僕は自己犠牲の精神に溢れた聖人ではないし、率直な話、ウルスラの命にそこまで重きを置いていない。魔女になるほどの境遇に同情の念こそあれど、あくまで僕の最優先はジャンヌであり、次は僕自身だ。


 というか、ここで僕が死んだら婚約者一家も全滅しかねない。


 「あ、あの、ごめんね、シャルル。邪魔するつもりはなかったの」


 マスク越しでも僕の表情を察したのか、ジャンヌがおずおずと謝る。

 

 「……分かってる。病気がうつれば僕は死ぬかもしれないけど、二人は違うからね。僕だけに危険なことをさせたくなかったんでしょ。ありがとう」

 「うん……」


 ジャンヌが目に見えて落ち込んでしまった。

 そのまま放っておくのも心が痛み、どうにか慰められないかと思考を回し──ふと思いついたことがあった。


 「……そうだな。ジャンヌ、可能ならやってほしいことがあるんだけど、手伝ってくれる?」


 ジャンヌの炎には選択性がある。

 僕が白騎士に攻撃したとき、何の変哲も無い鉄剣は、精々炎で炙られた程度の熱され方だったが、しかし白騎士の鎧は瞬く間に赤熱した。剣を持ち振り回していた僕を焼くことも無かった。


 つまり何を燃やして何を燃やさないか、かなりの精度で操作し選択できるということ。


 「勿論! 何をすればいいの?」


 空間が華やぐような笑顔を浮かべたジャンヌに、僕も安堵感で笑顔を返す。

 尤も、僕の顔はマスクで隠れているけれど。


 「防疫だ」


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