第19話

 翌朝。

 僕は旅路の野宿とは比べ物にならないほどすっきりとした目覚めを迎えた。


 ジャンヌの炎を利用した防疫──伯爵邸の内部を炎で包み、ノミやダニ、鼠といった病気を媒介するものを全て焼却しつつ、屋敷内部を火炎滅菌するという荒業は、思ったより上手くいった。


 使用人も含めた誰もが寝静まった夜中、人を焼かず、物を焼かない超常の炎が屋敷を包んだ。

 いや、外側は燃やしていないので、包んだという表現は微妙に合っていないけれど。


 ざっと邸内を見せて貰ったが、ノミもダニもゴキブリも、ネズミ一匹も残らず消し炭になったようだ。昨日はあった存在の痕跡すらも、跡形も残さず。


 何人かの使用人が「夜中、屋敷が燃えていた」と騒いでいたが、焦げ跡一つない屋敷を見れば、それがリアルな夢だったことは疑いようも無く、昼には「同じ夢を見るなんて不思議なこともあるもんだ」と笑っていた。


 人間の中にある病原だけ焼けたりしたら最高なのだが、そこまでの精度はないようで残念な限りだ。

 しかし、これで感染経路を患者との接触に限定できるのは大きい。


 それから、伯爵に頼んでいた器材や薬品が届いた。

 あらかじめ採取したドロテア嬢の血液を使って培養しておいた病原を特定し──ペストであると確定した。


 それなら後は、薬を投与して経過観察と対症療法で快癒……とは、行かなかった。


 培地上で実験した結果、持ち合わせの薬の効きが悪かったのだ。


 ……有り得ない。

 

 薬と言っても、一般に出回っている炎症を抑えたり痛みを和らげたりする対症療法的な薬とは訳が違うのだ。

 これは原因療法的な薬剤。病原を殺す抗菌薬。所謂──抗生物質。


 遠い国の古い時代、病気の治療にある種のカビを使っていたという文献を通じて父が再発見し、僕と父とで検証し精製した、強力な薬だ。


 病原と一口に言っても種類があるが、ペストやコレラのような“菌”には、これが凄まじい効果を発揮する。


 ……その、はずなのだが。


 「耐性だって……?」


 特定の病原が治療薬に対して抵抗力を持つ可能性はあったが、机上論だった。

 特に抗生物質への耐性は、理論上はそのものへの曝露──つまり抗菌薬の投与でしか獲得されないはず。


 しかし、いま僕が実験した治療薬は一般に出回っていないもののはずだ。そして耐性菌の発生を防ぐため、治療薬の実験に使った検体は全て処分した。耐性を持った病原が拡散し、耐性菌が流行する可能性は排除したはずなのだ。


 それでも耐性菌が生まれたとしたら、それは。


 「突然変異……!?」


 自室で一人、愕然と呟く。

 抗生物質を滴下したにもかかわらず、シャーレの培地上に繁殖しているコロニーを見下ろしながら。


 「……」


 突然変異。

 姉に美しい白銀の髪や蠱惑的な赤い瞳を与え、しかし日の光に刺される弱さをも与えた、遺伝子の異常。


 姉を殺した神の悪戯が、今度は間接的に僕の婚約者を殺そうとしていると思うと、少し複雑だ。だが、無駄な思索に浸っている暇はない。


 考えるべきは現実。この状況への対策だ。


 抗生物質は複数種あるが、持ち合わせはこの一つしかない。伯爵経由で生産菌を入手して精製する? 可能か? 実家にあったサンプルは遥か南方から取り寄せたと聞いている。


 いや、それよりも予防薬や僕の持つ抗体が効くかどうかを気にするべきか? 変異した病原は従来のものとは違う。抗生物質への耐性がある時点で、同種の成分を使った予防薬の効果も薄いと見るべきだろう。僕の体が覚えている菌とも違う以上、抗体を当てにするのも危険だ。


 思考が纏まらない。焦るあまり、考えが同じところをぐるぐる回る。


 「姉さん、僕はどうしたら……」


 知らず、僕は助けを乞うていた。

 

 変異菌は流石に、僕の手に余る。

 そもそも僕らの本分は研究であって臨床ではないのだ。


 何を最優先すべきかもわからず頭を抱えているところに、更に悪い情報が飛び込んできた。


 「シャルル、どうしよう! ウルスラが倒れた!」


 血相を変えたジャンヌが僕の部屋に駆け込んできて、焦燥に満ちた顔で言った。


 ウルスラは朝から町を出て、僕たちが元来た方に向かっていたはずだ。

 そこで誰も殺さず無駄に魔術を撃つことで、この町で魔術を使ったことも、逃亡方向を偽装する作戦のように見せるために。


 引っかかってくれるかどうかは不明だが、リチャード卿は、僕がこういう狡く小賢しい手を使うことを知っている。僕たちがただ逃げるばかりではないと分かれば、今度は奇襲や罠を警戒しなければならないから、追跡は慎重になるはずだ。


 「帰ってきたら倒れて、すごい熱なの! どうしよう!」

 「……」

 

 ……なんか、落ち着いた。

 自分より焦っている人間を見ると逆に落ち着くというが、あれは本当らしい。それとも「どうしよう」というジャンヌの問いに答えようと、頭を回したのが良かったのだろうか。


 どうする、と言われても。


 「……諦めるって選択肢も、放っておくって選択肢もないか」


 やれることをやれるだけやって、それでも無理なら仕方ない。

 人は死ぬ生き物であり、病死はありふれた死因だ。本当に僕の手に余る病気だったら、まあ、そういうこともあると納得しよう。


 けれど──僕はまだ、やれるだけのことをやっていないし、試せることの全てを試したわけではない。


 「落ち着いて」


 ジャンヌだけでなく、自分にも言い聞かせるようにゆっくりと声を出す。


 しかし、手の動きは全力だ。

 手元の紙に、確実に必要なもの、もしかしたら必要になるかもしれないもの、最悪の場合にあると助かるかもしれないもの、思いつく限りを優先度順に書き連ねていく。


 「僕が診るよ。ジャンヌは伯爵に……この紙に書かれたものを手配するよう頼んで。僕からだって言って」

 「え、でも、シャルルは婚約者の人を看病するんでしょ?」


 書き上がった紙を振って乾かし、手渡すと、ジャンヌは受け取りながら不思議そうに首を傾げる。

 その反応に、僕は小さく失笑してしまった。


 ジャンヌの言葉を誤解していた。

 「どうしよう」という言葉はただの焦りではなく、本当に指示を仰いでいたのだ。婚約者を診ている僕でなく、自分がウルスラを看るために。


 ウルスラが倒れたことで、魔女の無敵性は「病気にならない」のではなく、あくまで「病気で死なない」程度のものであると分かったはずなのに。


 頼もしい話だが──流石に、僕のキャパシティを低く見過ぎだ。


 「僕らは最大で16人の検体を同時に運用してたんだよ? 二人くらい、どうってことないよ」


 まあ、16人同時に致死性の病気に感染させ、全員生存させるような実験はしたことがないけれど。


 「……私も、何か手伝いたい」

 「……うん。重要な処置をしたら、看病は二人で分担しよう」


 そのためにはまずジャンヌに衛生観念を仕込み、感染経路について詳しくレクチャーしなくてはならないが、何よりもまずは治療薬と予防薬の調達だ。

 

 「分かった! じゃあ、これを伯爵……様に渡してくるね!」


 敬称を忘れかけていたジャンヌを「演技も忘れずにね」と見送り、再び机上のシャーレに視線を戻す。

 半透明の培地上、ハンマーで潰した銅貨のようなコロニーを形成するペスト菌に。


 「……ペストにしては増殖が速い。ウルスラがドロテア嬢から感染うつったとしたら、殆ど潜伏期無しで発症した。なのに、発症から四日も経ってるドロテア嬢は重症化していない……変異のせいか?」


 ペストが本格的に増殖するのに、普通は概ね三日くらいかかる。

 これは症状の顕在化、投薬までのリミットと概ね同じ時間だ。


 実験結果を見るに、ドロテア嬢の体内の菌量は通常の閾値以上に増えている。

 その上で重症化しないということは、毒性成分の生産量が少ないか、遅いか。つまり──これは通常のペストより、投薬までのリミットが長い。


 「まだ間に合う。まだ諦めていい局面じゃない」


 僕が知っている、これまでのペストとは別物と考えるべきだ。

 知識に基づく諦観をすべて捨て、目の前の病気と患者に集中する。助けるべき人にのみ意識を向ける。


 「よし……やろう」


 父が気合を入れる時の真似をして、マスクを被り直す。

 装備よし、メンタルセットよしだ。


 僕より賢く助言をくれる、怖い時には抱きしめて安心させてくれる姉は居ない。


 僕がやるしかない。

 発症すれば数日で死ぬはずのペストの、抗菌薬の効かない変異種を、僕がどうにかするしかない。



 ……なんて決意をしたものの、手元にあるのは効き目が薄い抗生物質と、抗生物質が効く前提で用意した対症療法的な薬のみ。

 しかも抗生物質は副作用が重く、それが原因で命を落とす危険まであるので、「これしかないし」「多少は効くし」と迂闊に使うのは躊躇われる。


 だからせめて、物資が届くまでは症状を緩和させる処置をしようと、ウルスラの部屋に来たのだけれど。


 「死なないんだから平気だって……。あんたは婚約者ちゃんを看てあげなよ」


 二人部屋の、二段ベッドの下に転がった彼女は、マスク姿の僕を見るなり呆れたように言った。

 邪険とまでは言わないが、歓迎もされていないのがはっきりと分かる。


 が、まあ、そんなのは無視だ。

 「死なないなら何もしなくていいですね。お大事に!」と投げ出せるほど器用な性格だったら、僕はこうして魔女二人と旅をしていない。


 僕は僕の意思に従い、彼女を診るまでだ。


 「発話は出来るんですね、重畳だ。一応呼び鈴とカードを置いておくので、喉が痛くなったら使ってください」

 「……字、読めないんだけど」

 「絵が描いてあるでしょう? 左から「清拭」「排泄」「水」「食事」「吐き気」「痛み」です」


 紙に書かれた要求事項を示し、説明を加えた。

 ちなみに、描かれている子供向けの簡略化されつつもファンシーなイラストは、実は父の手描きだったりする。

 

 「僕の質問にはなるべく正直に、なるべく正確に答えてください。また僕の指示は他の全てより……当然、貴女の意思よりも優先されると考えてください」

 「う、うん……」


 人間なんか容易く殺せる、殺すことをこそ望む魔女相手だが、同時に病人相手だ。

 僕はそう自分に言い聞かせ、毅然とした態度を取る。


 その甲斐あってか、ウルスラは戸惑いつつも素直に頷いた。

 単純に、高熱や疲労感のせいで弱っているだけかもしれないけれど。


 「熱があったのはいつからです?」

 「今朝くらい、かな? ちょっとしんどかったくらいで、全然、いけると思ったんだけど……」


 ウルスラの答えに、マスクの下で眉根を寄せる。

 口ぶりからして、偽装工作前には体調不良を感じていたようだ。その状態で早朝から動き回り、魔術を空撃ちに行って、このザマだ。


 移動経路を誤魔化すだけなのだから、行くのはジャンヌでもよかったのに──もっと安静にしていればよかったのに。

 行動力に溢れているのは結構だが、ウルスラは少し、不死の肉体に頼り過ぎだ。


 「ちょっと顎を上げてください」

 「……?」


 理由も告げずに指示すると、ウルスラは怪訝そうに眉根を寄せたが、何も言わずに従ってくれた。


 「首、触りますね。痛かったら何か反応してください。声が出ないなら手を挙げるとか……あ、僕を殴れって意味じゃないですよ。魔術はもっと駄目です」

 「分かってるよ……」


 下手な冗談に、彼女は犬歯を剥くように口角を吊り上げた。

 幸い、笑う程度の余裕はあるらしい。


 触れたウルスラの首は意外なほど細く、僕の手でも力を込めれば折れてしまいそうに華奢だった。……まあ、実際に試しても魔女の超常的な防御に阻まれるだろうけれど。


 ともかく、耳介後から気管までのリンパ節に異常は無さそうだ。


 「シャツを脱いで、腋も見せてください。あぁ、ついでに汗を拭いて着替えておきましょうね」

 「はぁ? なんで……いや、分かったよ」


 ウルスラは少し顔を赤らめたようだったが、熱のせいで元から少し赤いので判然としない。

 だが汗をかいた服を着替えたい、汗を拭いたいという思いはあったようで、のろのろと上体を起こし、僕に背を向けるようにベッドに腰掛けてシャツを脱いだ。


 かなり渋々といった風情ではあるが。




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