第20話

 不承不承といった風情でシャツを脱いだウルスラの身体を、熱いタオルで拭っていく。


 彼女が嫌々ながらも服を脱いだのは、もしかしたら僕が元々そのつもりで、煮沸してから冷ましたお湯とタオルを持ってきていたことに気付いたからかもしれない。


 露になった上体には、神聖騎士団との戦闘で負ったのだろう傷の跡が幾つかあった。浅いから、どうせ死なないからと放置していたのだろう。

 

 しかしその傷を加味しても、ウルスラの身体は均整の取れた健康的な美しさと、女性的で艶やかな美しさを兼ね備えていた。


 鎖骨は少し浮いているが全体的に肉付きは良く、しかし筋肉のあるべき形に沿って引き締まっている。実戦で身についた必要十分量の筋肉は、しなやかに美術品のような曲線ボディラインを描いている。


 片手で押さえつけるように隠された胸は、柔らかに形を変えつつも重量感があり、いっそ淫靡ですらあった。

 何十何百という女性の裸体を見てきた僕でさえ──正確には診察し、検分し、腑分けてきたのだけれど──その存在感と艶やかさに目を留めるほど。


 とはいえ、相手は暫定ペスト患者である。

 上気した肌も、きめ細やかな肌を伝う汗の雫も、潤んだ紅の瞳も、色気より痛々しさを強く感じるし、彼女の肢体に性的な興奮を覚えることは無かった。


 背中を拭う手つきからそれを感じたのか、或いは身体が清潔になった快感からか、強張っていたウルスラの身体から段々と力が抜けていく。


 腕を持ち上げて腋に触れるが、すべすべしていて引っ掛かりは無い。痛みを感じている様子も無いし、腋窩リンパ節にも異常はなさそうだ。


 「前は自分で拭けますか? 体力が無いようなら僕がやりますけど」

 「いい、自分でやる……」


 タオルを受け取ったウルスラが身体を拭っている間、じっと後ろで待っていてはやりづらかろうと、持ってきた道具を確認するふりをして背を向ける。


 伯爵に用意して貰った寝間着のガウンを着る衣擦れの音を聞いて、念のため数秒待ってから振り返ると、着替え終えたウルスラと目が合った。

 いや、僕はフルフェイスのマスクを着けているので、彼女の方は目が合ったかどうか分からないだろうけど。


 「次は足の付け根を見せてください」


 ここです、と自分の鼠径部を指して言うと、ウルスラはさっき以上に嫌そうに顔を顰めた。


 「……理由を聞くのも駄目なんだっけ?」

 「リンパ節ペストの場合、特に首、腋窩、鼡径の三点に横痃……腫れや痛みが出ることが多いんです。急な熱発に続いてそれが現れた場合は腺ペストで確定なんですが」


 まあ、腺ペストの症状が顕在化した時点で抗生物質を投与していなければ死亡率は大きく跳ね上がるので、いま確定したってほぼ手遅れなのだけれど。

 だからといって病気を特定しない選択肢なんてあるはずもなし、診察と診断は必須だ。


 「……ほら」


 ウルスラは要所を腕とガウンの裾で隠しながら、片足をベッドの上に立てた。


 露になった大腿部は日に焼けてもおらず、傷の痕もない白く滑らかな肌をしていた。ここも肉付きは良いが、二年間の逃亡生活のおかげか良質な筋肉がついていて、力を入れていないと柔らかく、力を込めると引き締まる。大型のネコ科のように、しなやかでありつつ運動能力の高さを感じさせる筋肉の付き方だ。

 脚全体もすらりと長く、さっき見た上半身の情報と合わせると、本当に美しいプロポーションの持ち主だと分かる。


 ……率直に言って、元農民だという話が疑わしいほどに。


 兵士や騎士というほど鍛え抜かれたわけではないが、ジャンヌや、これまで見てきた農民、特に農奴階級の栄養状態を考えると、ずば抜けて健康だ。あ、いや、今は暫定ペスト罹患者なので、「健康的肉体の持ち主だ」と言っておこうか。


 だが素性を偽る理由がない。

 どれだけ特殊な出自でも、神聖騎士団の協力者だったライヒハート家の人間である僕よりはマシだろう。特に“魔女”にとっては。


 もしかしたら“魔女”は栄養失調による衰弱死などを避けるため、ある程度劣悪な環境──例えば逃亡生活中などでも、最低限度の食事で十分にエネルギーを補給できたりするのだろうか。


 だとしたら身体の外側が超常的な力に守られているだけでなく、内部構造や機能にも変化があるかもしれない。


 ──検証したい。

 解剖……は不可能だ。麻酔は効いてもメスが通らないだろう。“解剖死”の魔女とか“斬首刑”の魔女とかがいれば、もしかしたら刃が通るかもしれないけれど、そもそも僕が心情的に耐えられない。


 「……早くしてくれない?」


 視線を虚空に投げて思考に浸っていると、ウルスラが不穏な声を上げた。

 恥じらい半分に、残りは怒りとか殺意とか剣呑なものだ。


 「あぁ、失礼。少し考え込んでしまいました。触りますね……腫れはないですけど、痛みもないですか?」

 「無いよ。くすぐったいけど」


 両側の鼠径部を順番に触診するが、ウルスラの反応は変わらない。

 ペストのリンパ横痃はかなりの痛みを伴うから、本人が気付かないなんてことはないはずだ。我慢できなくは無いだろうが、我慢する意味が分からないし、それも無いはず。


 「……やっぱりか」


 手袋越しの感触と返答は、半ば予想通りのものだった。

 しかし僕の呟きに、ウルスラは不愉快そうに眉を上げる。


 「やっぱりぃ? 無駄に触っただけだったらブン殴るよ?」

 「ドロテア嬢も腺ペストっぽくは無かったですからね。彼女から感染うつったのなら、ドロテア嬢と似た症状が出るのは想定通りです。でもそれにしては発症までが早すぎるし、あなたが僕たちに会う前に別種のペストに感染していて、いま発症しただけの可能性もある。そもそも貴女がペストに罹っているかさえ明確じゃない。今はそれを確定させる作業中です」

 「……分かった」


 淡々と語ると、ウルスラは不満そうにしつつも頷き、いそいそと着衣を正して再びベッドに入った。


 横たわった彼女にシーツを被せ、荷物から次に使う道具を取り出す。


 「咳や痰が出たり、血を吐いたりは? 胸やお腹に痛みがあったりはしませんか?」

 「いや、ない……。でもなんか、ぼーっとする。頭も痛いし、ダルい……」


 頻呼吸や呼吸困難も見られないし、呼吸に雑音が混じったりもしない。

 

 やはり診察のみで特定できるほど、症状が顕在化していない。

 まあ、ライヒハートには打診や触診なんかより余程確実な、培養検査のノウハウが──、?


 なんだ? 思考に何かが引っかかった。


 ──そうだ。

 伯爵、もっと言えば僕の前任者である教会医師は、何故これがペストだと分かった? 少なくとも顕在化している症状からだけでは、僕はドロテア嬢を侵している病気がペストであるとは断定できなかった。


 血液中の菌群を分離培養し、その発達速度やコロニーの形状、染色傾向などで病原を特定する手法は、今や僕の頭の中にしかないライヒハートの技術だ。過去の偉人たちが残したものではなく、世に出ていない、我が偉大なる曽祖父の発明だ。


 ……適当ぶっこいたな、さては。

 世の中にはそんな奴ばっかりだ。大流行したペストとコレラ以外の病名を知らない可能性だってある。よく分からない香草を焚いて治療した気になるような奴だし、程度は知れていたが、診断まで適当とは。


 合っているのがなお腹立たしい。


 「……少し採血しますね」


 苛立ちを抑えるように深呼吸を一つ。

 取り出した空の注射器に、ウルスラは訝しむような目を向けた。


 「……それ、白騎士が持ってる奴じゃないの?」


 その警戒は正しいし、仰る通りだ。

 白騎士が中に何を入れていたかまでは不明だが、鎮静剤とか筋弛緩剤とか、魔女を拘束するための薬剤だろう。


 ただ、今回は注入ではなく、吸引に使う。


 「これで血を取って検査するんです。結果が出るまでに時間がかかりますけど、正確で、症状が出ていないだけの場合でも判別できます」

 「……初めからそれでやれば、脱がなくて良かったじゃん」

 「根拠が一つの説と二つの説、どっちが信用できますか? ……っていうか、そんなに嫌でしたか? ジャンヌはともかく、ドロテア嬢でも素直に従ってくれましたよ」


 異性の前で肌を晒すことに忌避感があるのは、まあ、分かる。触れられることにも。

 しかし相手はマスクに防護服の無機質な外見だし、手つきは色気も何もない機械的な触診。しかも中身は12歳の子供だ。ウルスラは17歳だというし、そういう対象ではないだろうに。


 それに、貴族のご令嬢は田舎娘より貞操観念が強いだろうに、文句ひとつなく従ってくれた。しかも彼女は14歳だ。ウルスラの方が大人なのだから、ブツブツ言うのはやめてほしい。

 ……まあ、きちんと教育を受けているがゆえに「医者の言うことには従っておこう」という判断をしてくれただけで、本心では嫌だったかもしれないけれど。


 ジャンヌは完全に慣れているが、彼女は元々実験体だったので特殊な例だ。


 「……あたし、尖ってるもの嫌いなんだよね」


 ウルスラは横になったまま、ふいと顔を背けた。

 磔にされ槍で刺されて殺されたのだから、まあ、刺突や先鋭物に対して忌避感が強いのは分かる。


 「じゃあ目を瞑っててください。ちょっと痛いですよ」


 採血用の針は注射用より太いし痛かろうが、我慢して貰おう。

 

 それから対症療法的な処置を幾つか済ませて、僕はウルスラの部屋を後にした。

 「症状が悪化したり、さっき言ったような腫れや喉の痛みが出たら、すぐに呼び鈴を鳴らしてくださいね」と言い含めて。


 部屋を出ると、すぐそこでジャンヌが待っていた。


 「シャルル、ウルスラはどう?」


 布を巻いた簡易マスクと僕の予備の手袋を付け、伯爵に貸してもらった長袖ロングスカートのメイド服を纏い、防疫仕様だ。

 欲を言うならメイド服の上から撥水性の高いガウンかエプロンを着て欲しいが、まあ、汚れたら都度着替えればいい。


 というか、口調や態度が落ち着いている。どうやらダウナー期のようだ。

 正直、こちらの方が姉の面影を感じて好きなのだが、逆に姉を思い出して複雑な気分にもなる。彼女を代替品にしているのではと、自己疑念と自己嫌悪が湧いてくる。


 「……まだ何とも。ドロテア嬢と同じなら三日か四日くらいは重症化しないはずだけど、身体の抵抗力とか体力とかは人それぞれだからね。よく気に掛けてあげて」

 「うん、頑張るね」


 一応、ウルスラの看護はジャンヌが主体となってくれることになった。

 魔女は病死しない以上、僕はドロテア嬢の方に注力すべきだというのは、ウルスラ自身も言っていたことだし。


 「……そういえば、メイドの服、着たがってたよね。姉さんの服もお淑やかで似合ってたけど、仕事着だといっそう大人っぽくて素敵だよ」

 「えっ? ……うん、ありがとう」


 ジャンヌは柔らかに落ち着いた、しかし嬉しそうな笑みを浮かべた。

 僕の拙い賛辞で喜んでくれたなら、僕も嬉しい。


 僕がそう、口元を綻ばせたときだった。


 「……シャルル君」


 ぽん、と肩が叩かれる。

 飛び上がり、というか飛び退きかけた身体を制御したのは、声の主が分かったからだ。


 「っ! びっくりした……。どうなさいましたか、伯爵。というか今防護服に触りましたね? ちょっと手を出してください」


 鞄から大きめのアトマイザーを取り出し、不思議そうな伯爵の手に内容液を吹きかける。

 中身は勿論香水などではなく、強力な消毒薬だ。破傷風や炭疽レベルの頑固な病原でもなければ滅菌できる優れモノだが、後で手を洗わないと肌が荒れる。


 その旨を伝えてから改めて向き直ると、伯爵は少しの間、手を擦りながら言葉を練っていた。


 「あー……、お母様は君によき教えを沢山授けてくれたのだろうが、「女性が装いを変えたらまず褒める」というマナーは、使用人にまでは適用されないよ」

 「……ご教授ありがとうございます」

 

 思わず、返答を躊躇ってしまった。

 「いずれは社交界に出るのだからしっかりしろ」という言外の叱責まで、きちんと汲み取れたからだ。

 

 彼は僕を、伯爵家と姻戚関係になり、「ドロテアの夫」として立つことになると、今でも思っている──思ってくれているらしい。


 いま言うべきだろうか。

 僕はここに、婚約破棄を伝えに来たと。


 しかし僕が口を開く前に、そんなことを考えている場合ではなくなった。


 伯爵は偶々ここを、使用人部屋の並ぶ廊下を通りかかったわけではなく、僕を探してここに来たのだった。


 「いや、いいんだ。それより、頼まれたものが届いたよ」

 「速いですね!? まだ三時間くらいしか経ってないのに」


 ジャンヌに紙を手渡して、ドロテア嬢の様子を見て処置をして、ウルスラの診察をして、もう。

 いくら伯爵の人脈と資金力が高いといっても、流石に有り得ない速さだ。


 目を瞠る僕に、伯爵は自慢げに胸を張り、誇らしげな笑顔を浮かべる。

 その誇りは自分の持つ広範な人脈や膨大な資財に向けたものではなく、ただ一人、彼の最も優秀な友人に対するものだった。


 「あぁ、ジョンにいつもある程度のストックは持っておくよう言われてたものばかりだったからね」


 流石だ、と、僕は今は亡き自分の父親に改めて尊敬の念を抱いた。


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