第21話

 ウルスラが倒れた日の深夜。或いは翌日未明。


 日中はジャンヌに色々と教えながら二人の看病をしつつ、治療薬と予防薬の合成に勤しんでいた僕は、かなり深く寝入っていた。

 魔術の炎でノミやダニが駆逐され、火炎滅菌までされた柔らかなベッドがとても心地よかったのもある。


 「──シャルル、起きて!」

 「ごぼぼぼ!?」


 夢も見ないほど深い眠りは、顔にぶっかけられた冷水によって妨げられた。

 唐突な冷感と窒息感が意識を急激に覚醒させ、激しく咽せながら飛び起きると、枕元に置いてあったはずのピッチャーを持ったジャンヌがいた。


 呆れ半分、焦り半分の表情を浮かべた彼女は、空になった水差しをドンと勢いよくヘッドボードに戻す。


 「シャルル、眠り深すぎ! 早く支度して! 婚約者ちゃんが大変なの!」

 「ぉ、あ……?」


 婚約者、大変?

 寝起きの頭は今一つ回転が悪い。が、いち早く再起動を果たした脳の一部分が身体に命令を下し、半自動的に動いて防護服を着る。


 身体を動かすと、今のジャンヌはアッパー期だなあ、とか暢気に考えていた部分の脳も順調に稼働を始め、彼女の言葉の意味を理解する。

 徹夜による免疫力や思考力の低下を厭い、僕とジャンヌは数時間交代で眠り、常に患者の呼び出しに応じられるよう備えていた。水分補給や着替えの補助くらいならジャンヌに任せ、それ以上──例えば嘔吐や容態の変化などは僕を起こすよう取り決めた上で。


 つまり──だ。


 意識を完全に切り替えた時には、僕はもうマスクを被るだけで準備完了だった。

 道具類の入った鞄を引っ掴み、部屋を飛び出してドロテア嬢のところに向かう。ノックだの作法だのは省略だ。


 「……ぁ」


 深夜だというのに、ドロテア嬢は起きていた。

 ベッドの上で上体を起こしているのが、ベッドサイドに置かれた燭台で照らされている。白いパジャマの襟元を汚す、赤い染みも。


 全身黒ずくめにカラスのようなマスク姿の僕を見て、彼女は安堵したように微笑んだ。


 「……喀血ですか。その姿勢が楽なら座っていても構いませんが、まずは一番楽な姿勢を取ってください」

 「……けほっ」


 何か答えようとして、彼女は顔を顰めて堪えるような咳をした。

 喉の痛みが強くなっているようだ。消炎鎮痛剤は投与したはずだが、ちょうど効果の切れた頃合いか。


 紙とペンを渡し、インク壺を差し出すと、彼女はすぐに意図を察してペンを走らせた。


 『横になると息苦しいのでこのままで』


 流麗な筆致だ、と、こんな状況ながら感心してしまう。

 僕が読んできた古い手記や文献の類は走り書きのものも多く、そもそも別言語で書かれていたりして、読みづらかったり読めなかったりしたので、余計に。


 「分かりました」


 枕の位置を変え、ソファからクッションを取ってきてヘッドボードと背中の間に入れて凭れやすくすると、ドロテア嬢の肩から力が抜けた。


 少し観察すると、胸が浅く、早いテンポで上下していることが分かる。

 頻呼吸に喀血。肺ペスト重症化の前触れだ。正確には重症初期、と言うべきか。


 ──不味い。


 一刻も早く抗生物質を投与しなければならないが、手持ちのものには、彼女を侵す病魔は耐性を持っている。

 別種のものを作ってはいるが、まさに今、精製している途中だ。


 当初は少し純度を下げて経口投与するつもりだったが、事ここに至っては静脈注射に切り替えるしかない。それも副作用を許容し、通常よりも強いものを。


 「ドロテア嬢──」


 カリカリとペンが走り、口を噤む。


 紙を示しながら、彼女は柔らかに微笑んだ。


 『ドロシーと呼んでください。家族はそう呼ぶので』


 「いえ、しかし……」


 否定的なことを言われると即座に察した伯爵令嬢は、表情だけで内心の不満をはっきりと伝えてくる。

 まだ顔立ちが幼さを残していることもあって可愛らしいが、「美人が起こると怖い」という言葉が似合いそうな片鱗もあり、拒絶を最後まで口にすることは出来なかった。


 全く、我ながら呆れたものだ。

 声を聞いてさえいない、弱った状態の彼女に対してこの有様。快癒した後に、きちんと婚約破棄を申し出られるのだろうか。


 事情を話したら向こうから切り出してくれるだろう、という淡い期待は、もう捨てている。

 話してみて、二日ほど同じ屋根の下で暮らしてみて、伯爵の人となりは概ね理解できた。


 きっと僕が望めば、養子として温かく迎え入れてくれるし、いずれ開業医として病院を構えられるよう取り計らうくらいのことはしてくれる。もうそのつもりで動いていることも、なんとなく察せられる。


 「……とにかく、服を着替えましょう。シーツも取り替えましょうか」


 清潔な服もシーツも、使用人たちが部屋の外に用意してくれている。

 当然ながらジャンヌとウルスラのことではなく、伯爵家の、本物の使用人だ。


 血の垂れた跡のあった口元や、咳をするときに口を覆っていた手を消毒し、清潔な濡れタオルで清拭する。それから言った通りに着替えさせ、シーツを交換すると、彼女はまたペンを走らせた。


 『私は』 


 ペンが止まる。

 僅かな逡巡のあと、彼女は手を震わせ、少し筆致を崩しながらも最後まで書き切った。


 『私は死ぬのでしょうか』


 ──率直に言って、その可能性は十分にある。

 抗生物質は一度投与すればみるみるうちに病気が治るような、夢の薬ではない。


 対症療法ではなく原因療法が可能な薬剤ではあるが、体内の病原を駆逐するには継続的な投与が必要だ。


 単純な話、間に合わなければ死ぬ。

 何もしなければ一日で死ぬ患者を、投薬によって二日で死ぬまでに病原を減らしたとしても、駆逐に三日かかれば死ぬ。


 「……血を吐くなんて滅多にない経験でしょうし、怖くなるのは分かります。ですが、今は熱も引いて、疲労感も落ち着いているでしょう? 大丈夫、僕が絶対に治しますから」


 クソみたいなことを言う自分に吐き気がする。

 そりゃあ、解熱剤を入れたのだから熱は下がる。熱が下がれば疲労感も減る。


 だが、体内のペスト菌は依然として増殖を続けており、遂に重症化を始めた。このペースなら抗生物質の精製は間に合うだろうが、治療も間に合うとは断言しかねる。


 いやそもそも、“絶対治す”なんて、詐欺師の常套句でしかない。変異菌でなくとも、父が居て実家の設備があってなお治癒率は7割から8割といったところだったのだ。


 『貴方の前任者は、“絶対”という言葉を使う医者だけは信じるなと仰っていました。この世に絶対の事柄など無いのだから、と』


 悪戯っぽい笑みと共に、柔らかな仕草で示される文字列。

 その内容に、僕はマスクの下で笑ってしまった。


 「えぇ、僕も同意見です」


 僕は──独力では何もできない。

 この状況を打開する神の一手を閃くような発想力は無く、使える知識は全て使ったつもりだ。


 知識だって先人たちが蓄積してきたものが殆どで、僕自身が発見したものや発明したことはごく僅か。科学とはそういうものだと分かってはいても、意味のない無力感は募る。


 そんな奴の口にする「絶対」を、どうして信じられようか。


 その価値観は共有できているらしかったが、ドロテア嬢は再び柔らかな笑みを浮かべ、手を動かす。

 書き出された文字は笑顔と同じく柔らかで、内容もまたそうだった。


 『けれど、私は貴方を信じます』


 また、ペンが止まる。

 さっきより少し長い逡巡は、恐怖や僕への気遣いではなく、もっと別な感情によるもののようだ。顔が耳まで赤くなっているのは、熱のせいではないだろうし。


 ──いや、逡巡か、本当に?

 いくら解熱剤で誤魔化しているとはいえ、喀血直後、それもこんな夜更けだ。着替えだなんだと体力も消耗したし、無理をさせてしまったかもしれない。


 「……気分が楽なのは良いことですが、まだ夜も明けていない時間です。今日はもうお休みください」


 紙とペンをそっと取り上げ、ヘッドボードに置いていたインク壺も回収する。


 半ば強引にベッドに横たえられた少女は不満そうな目をしていたが、すぐに瞼から、そして全身から力が抜け、眠りの中に沈んでいった。

 

 

 ◇



 翌日。

 治療薬が完成し、静脈注射による投与が始まった。


 6時間ごとに一回、適量より更に多く。

 本来は、発症から24時間以内に投与すればまあ安泰。約72時間、重症化前に投与できれば概ね問題なく完治するはずの薬だが、今回は色々と状況が違う。


 培地上の実験で効果は確認しているが、如何せん、相手は半ば未知の病原だ。

 弱毒型、或いは遅効型とでも言うべきペスト。しかも耐性菌。


 そして患者は既に重症の域にあり、通常のタイムリミットである72時間をオーバーしている。


 流石に、「注射したのでもう大丈夫」と肩の荷を下ろす気にはなれない状況だが、それでも、最良にして必須の一手は間に合った。


 ドロテア嬢は注射という未知の治療方法に怯えてはいたが、意外なことにジャンヌが説得してくれて、最後には抵抗なく受け入れてくれた。

 念のため伯爵に頼んでおいた拘束用ネットの出番は無さそうで良かった。患者とはいえ、そしてじき“元”が付くとはいえ、婚約者を縛り上げるのは道徳心に反する。


 ともかく、緊張の時間は終わった。

 致命的重症化より先に治療薬の精製が終わるようにと祈ることしか出来ない、自らの無力さを目の当たりにする時間は終わった。


 即座に完治とはいかないので対症療法を続けつつにはなるが、あとは様子見でいい。気分も楽だ。

 看病していれば気も紛れるし、容体急変にも対応できるし一石二鳥と、僕はウルスラとドロテア嬢の部屋を行ったり来たりして一日を過ごした。


 一日も経てば抗生剤が効いて、対症療法の効果もかなりはっきりと表れた。


 まだ二人とも熱はあるし咳は出るものの、血痰に占める血の割合がかなり減ったし、発話も出来るようになった。しんどそうではあるが。

 

 「あの薬……注射、でしたか。凄いですね。前からお聞きしたかったのですけれど、ライヒハート家はどうして研究の成果を公表されないのですか?」


 ベッドに横たわったドロテア嬢は、退屈しのぎか、そんな問いを投げた。


 そうすればもっと多くを救えるのに、と、少女の純真な眼差しが語っている。

 実際、抗生物質が世に出回れば、いま死病とされるものの何割かは覆るだろう。


 どうしてそうしないのか──もっと多くを救うべきではという問いかけは、今の僕には痛かった。


 「僕たちは多くの犠牲を払い、技術を研鑽してきました。殺した数が誇りになるのは戦場だけでしょう?」


 人間をバラバラにして得た知見など、“誇り高い”医師たちが認めるはずがない。


 それに──王立大学の教授方のうち何割が、僕たちの理論を認め、実証してくれるか。そのうちの何人が、教会の圧力に屈することなく正しさを主張し、世間に正しさを認めさせられるだろうか。


 ……ゼロだ。きっと。


 今や世界を手中に収めんとする一大宗教の影響力は、王の威光も学者の権威も上回る。


 そもそも教授方には情報を広めるような力が無い。

 教会を設置し、宣教師を巡らせ、魔女狩りまで利用して教えを広めている一神教が、情報戦に於いてはあまりにも強すぎる。


 「……ここは、嘘を吐くような場面ではないですよ?」


 理由の一端を語ると、ベッドに横たわった少女は不満そうに目を細めた。


 ……何故バレたのだろう。

 いや嘘とまでは言わないが、確かに、今のは本当の理由ではあっても最大の理由ではない。


 嘘にならない程度に韜晦したつもりだし、顔も声もマスクに遮られて判然としないはずなのに、それでも看破された。僕だって多少は社交術を身に付けているのに。


 「……お見通しですか。流石は伯爵令嬢」


 苦笑と、賞賛を返す他に無い。


 「曾祖父は幾つかの革新的概念や技術を公表しましたよ。そして、その全てが闇に葬られたのです。愚かな宗教家たちが、自らの世界観を壊されることを恐れ、医療という巨大な──およそ全ての人間に関係するであろう市場への影響力を失うことを恐れてね。僕や父も、患者から怪しげな術法を使う詐欺師か悪魔のように言われたことがありますし、公表することのデメリットが大きすぎるのです」


 デメリットどころか、最悪死ぬ。

 異端審問官が異端審問にかけられて、冗談のように死ぬ。


 科学と魔術の区別もつかない馬鹿が、この時代には多すぎる。


 いや──なまじ宗教が発達し浸透しすぎたせいで、偏見までもが強くなっている。物事を見た通りに受け止められず、未知のものを異端であると見做すことが多い。


 「その件もあって、僕たちは現行の人類を救うべき対象から外しました。過去の偉人たちのように文献を残し、百年後か二百年後か、もう少し賢くなった人類の助けになることを目標にしたのです」


 尤も、その文献や資料も全て焼き払ったわけだが。

 その判断は正しかったと思っている。開封すれば街一つが死に沈むほど強力な病原のサンプルなんかを、まさか放置していくわけにはいかないのだから。


 「……それでも、人を見捨てはしないのですね」


 優し気な、どこか尊敬の念すら感じさせる少女の声に、マスクの下で苦笑する。


 「父はそうでした。僕は──」


 ──僕には、無理だ。

 僕はこの町に来てから、意図的にしていないことがある。父なら確実にやったであろう一工程を、意図的に省いている。


 普通、ペスト流行域では患者を一か所に集める。大概の場合は教会や修道院といった大きな施設に。

 患者が家から出なかったとしてもノミやネズミを介して感染が広がるのを防ぐため、そして隔離や治療を効率化するために。


 効率化とはつまり、一人でも多くの患者を診るためだ。

 街の中に何人の患者が居るのかを素早く把握することもできる。


 だが、僕はそれをしていない。

 前任者がやっただろう、或いは今もやっているだろうと見越して動かなかったわけではなく、むしろ逆だ。


 前任者がやっていないことを伯爵に確認した上で、僕もまたその手順を無視した。


 この町に何人のペスト患者がいるのかを把握することも無く、彼らに手を差し伸べることもせず、「まあいるだろう」とだけ思って、それで終わり。いないはずのない患者をいないものとして扱い、現在進行形で見殺しにしている。


 言い訳はできる。

 誰彼構わず助けていてはジャンヌとウルスラの顰蹙を買うとか、白騎士に追われている以上そんな時間はないとか、物資も人手も足りないとか、僕の治療行為は王道を外れているから衆目に晒したくないとか。


 だが、それは心の奥底にある動機ではない。


 いや──正確には、僕には動機が無かった。

 より多くを助けようという、王立大学を出ていない医者モドキでさえ持っていそうな志を抱けなかった。


 100を生かす技のため1を殺し、未来の1000を生かす知識のため今の100を殺す。それがライヒハートの流儀であり決意だというのに。


 ……まあ、そんなのは病人に話して楽しい愉快な世間話ではない。


 「僕もまあ、将来的にそうなれたらいいですね。そうだ、全然関係ない話なんですけど、前に面白い患者さんがいて──」


 やや強引にではあるが、にこやかに、自然さを取り繕って話題を変える。

 防疫目的のマスクだが、表情を隠すのにも大変お世話になっていると、今更ながら実感した。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る