第22話
抗生物質の投与が重症化より早かったおかげか、ウルスラは重症化せずに済んだ。
と言っても39℃の高熱や血痰が見られ、体力的にかなり弱ってはいた。
僕としては、致死率ゼロパーセントで標準治療も済ませた経過観察段階の患者なんて、殺してもいい検体相手より気楽だが──脂汗を滲ませて苦悶に歪む顔を見ると、僕まで苦しくなる。
「……」
やれることはやった。
耐性菌にも有効な抗生物質の精製と投与。各症状に対する処置。どちらも完璧に。
抗生物質は体内のペスト菌の繁殖を抑制し、不活化させ、免疫による駆逐を強力に補助する。だが打てば即座に完治するような夢の薬ではない。
ドロテア嬢には重症化していたこともあって強めのものを静脈注射で投与したが、ウルスラは標準治療である、通常の強さのものを経口投与だ。
完治まで三日から五日ほどかかるが、副作用が出る可能性を最低限に抑えられる。
「──兄さん」
か細い声に目を向ける。
高熱と強い疲労感でベッドに沈んだウルスラは、焦点の合わない虚ろな目で僕を見ていた。
いや──僕を見ているようではあったが、現実を見ていなかった。
「そこに、いるの……?」
「……死者と再会するには早いですよ。というか、魔女は病気では死ねないんでしょう?」
苦笑交じりの答えは届かなかったようで、ウルスラの手がシーツの下から現れ、幽鬼のような動きで伸ばされる。
「なあ、なんであたしを見捨てたんだ? なんであたしを見捨てて助かったはずなのに、あたしの隣で死にかけてたんだ? なんで──あたしを置いて逝っちまったんだよ、兄さん」
熱のせいか手には殆ど力が無く、防護服の袖を掴む指が見かけ以上に華奢に感じた。
意識も朦朧としているようで、防護服にマスク姿の僕を、ウルスラは完全にお兄さんと思い込んでいる。
「出会った魔女はみんな狂っちまって、白騎士に殺された。楽園は噂すら聞こえない。寂しいよ、兄さん……」
弱々しい声。手の届いたものに縋る半無意識の反応。何も考えずただ吐き出された弱音。
どれもこれも、僕にも覚えのある──僕の身体が覚えている、僕がやっていたことだ。
だから彼女の痛みも、分かる。
孤独は人を殺す。
僕が姉を失い、ジャンヌに出会うまでの二年間は、じわじわと死んでいくような経験だった。
声を忘れ、匂いを忘れ、体温を忘れ、仕草を忘れていく。最後には顔を忘れるのだと理解してしまい、眠りにつく前に怖くなる。次に目が覚めた時、一番大切だった人の顔を、まだ思い出せるだろうかと。
だから言葉に縋る。
遺してくれた言葉に。僕の場合は、「間違っているのは僕ではなく世界の方だ」という、存在そのものを許してくれたような肯定だった。
ウルスラにとっては“楽園”がそうなのだろう。
兄が受けたという啓示で語られた、魔女たちの集う安寧の地。
そこを目指すことは亡き兄の遺志であると同時に、彼女の孤独を取り払うためでもあるのだ。孤独を嫌うが故に、それを目標にしている。
そう理解したとき、僕は殆ど無意識に彼女の手を取り、両手で握っていた。
ウルスラの手は想像より柔らかく、華奢だった。
元農奴階級の検体は幾つも見てきたが、手の筋肉は発達し、農具による胼胝や肉刺の類が目立っていた。
しかし、彼女の手は滑らかで、嫋やかだ。
魔女は再誕時にあらゆる傷が治るから、きっとその時に修復されたのだろう。
そんな学術的好奇心が脳裏を過り、すぐに消える。
代わりに心中を埋め尽くすのは、もっと衝動的な感情だった。
「ジャンヌは狂わせないし、殺させもしない。僕が、そうはさせない」
病人の譫言相手に何を、と、心の冷静な部分が自分自身に呆れる。
それでも、僕は彼女に語り掛けずにはいられなかった。
戦闘や逃亡生活に慣れた頼り甲斐のある17歳のお姉さん、笑いながら人を殺す魔女が、今は、トイレでゲロを吐いて泣いている12歳の子供と被って見えた。
「貴女はもう独りぼっちじゃない。僕とジャンヌが一緒にいる。僕らで楽園を探して、見つからなかったら創るんだ。この先、寂しさに浸る余裕なんて無いですよ」
マスクで声がくぐもってしまうことを加味して、意識して感情を表出させる。
楽し気に、朗らかに。イメージするのはアッパー期の、或いは出会った頃のジャンヌだ。
手を握る。
力を込める。
この場にいるのは死人ではなく、彼女の仲間だと示すように。
「──」
ウルスラの目が僅かに見開かれたかと思うと、視線は再び虚ろに弱まる。
しかし、その弱さは先ほどまでの現実を見ていないものではなく、単に眠気による健全なものだった。
握っていた手から力が抜け、瞼が完全に落ちる。
静かな寝息を確認して手をシーツの中に仕舞った後も、彼女は安心したような穏やかな顔で眠っていた。
その日の夜。
ドロテア嬢への処置を終えてウルスラの部屋に入ると、彼女はその気配で目を覚ましたようだった。
僅かに呻き、顔を動かして周りを確認する。
「……おはようございます。と言っても、そろそろ夕食ですけれど」
「あぁ、うん……おはよう」
目を覚ましたかと思うと、ウルスラは物言いたげな顔で僕を見上げた。
マスク越しで目が合ったかなんて分からないはずだが、ちょうど視線が重なった瞬間にふいと逸らされる。
「……そのマスク、必要だってのは聞いたけど、起き抜けに見るとビックリするなあ。死神が来たのかと思った」
「死神は死なない魔女の枕元に立つほど暇じゃないでしょうね」
軽口に軽口を返すと、まだ眠そうなウルスラが笑顔になる。
「……あ」
彼女は何かに気付いたように小さく声を上げると、笑顔の質を変える。
どこか照れたような、恥ずかしがるような笑みに。
「さっきは、その、ありがとう。正直助かったし、嬉しかった」
ウルスラは小さく、しかし熱に浮かされた様子ではなくはっきりと、唐突にお礼を口にした。
その宛先に心当たりがないはずもなく、むしろ「なんか柄にもなく恥ずかしいことした気がする」とプチ後悔していた僕は、マスクの下で彼女と同じ照れ笑いを浮かべる。
「あたしさ、偶にそういう夢を見るんだ。兄さんがいる夢。あたしを迎えに来てくれたわけでも、楽園の場所を示してくれるわけでもなく、ただそこに、手を伸ばしても届かない場所に立ってるだけの夢」
「……えぇ。僕にも覚えがあります」
というか、今でも偶に見る夢だ。
ベッドで寝ている時ではなく、ソファで転寝したときなんかに、明晰夢として。
だが操作は出来ない。
夢であることは分かっているし、気合を入れれば目を覚ますことも出来るが、それだけだ。近づくことも触れることも出来ないまま、困ったような笑みを浮かべて佇む姉を見ているだけの時間を過ごすことになる。
「あぁ、あんたもお姉さんを亡くしたんだっけ。なら分かると思うんだけどさ、あれ──」
ウルスラの表情を見るまでも無く何が言いたいのか分かった僕は、敢えて言葉を最後まで待たなかった。
「滅茶苦茶ムカつくよね」
「滅茶苦茶ムカつきますね」
僕とウルスラの声が揃う。
怒りと言うよりは、どうしようもないものに対する嫌厭に満ちた声が。
「顔の細部とか立ち方とか、全然違うんだよね」
「でも「どこがどう違う」っていうのは分からない。考えれば考えるほど、その夢が正しいような気分になっていく。姉さんはもっと綺麗だったし、もっと優雅な立ち姿だった。そう思っているのは記憶を美化しているだけなんじゃないのか。そんな恐れが心中に過る」
うんうんと二人して頷きを交わす。
夢を夢と自覚する方法の一つに、「手を見る」というものがある。
半休眠状態の脳は五指の形状や複雑な動きをイメージ映像として再現できず、曖昧にぼやけていたり、思い通りに動かせなかったりする。
それは他人のものでも同じだ。
顔や手といった複雑なパーツを記憶から再現し切れず、霞がかったように隠れたり、乱視気味にブレたりして判然としない。
夢を言語化するのは難しいが、つまりそれは「姉に再会できる夢」ではなく、「姉を完全に思い出せない夢」なのだ。
気分も機嫌も悪くなる。
「そもそもさぁ、兄さんが目の前に居て、あたしに何も言ってくれないワケないんだよ。それがまたムカつく」
「あぁ分かります。本物の姉さんだったら、手を伸ばしたら絶対に握り返してくれるし、求めたら抱きしめてくれる。なのに立ってるだけって、有り得ない。夢なんてのは結局、記憶と想像の産物でしかないのだけれど、それだけになお腹が立つ。僕の記憶力と想像力は、夢の中でさえ姉さんを再現できないほど貧相なのかって」
……会話が途切れた。
おや? と目を向けると、ウルスラは何とも言えない複雑そうな目をしていた。
「……いや、あたしも結構お兄ちゃんっ子って言われてきたけど、あんたはちと行き過ぎじゃない? 手ぇ繋いだり抱き合ったりするの? まあ、あんたぐらいの年ならおかしくはない、のかな?」
「え? ちょっと、急にハシゴ外さないでくださいよ」
今のは「あぁ、お互い
「いやゴメン、あたしと兄さんが手ぇ繋いだり抱き合ったりしてるの想像したら、なんか……面白くはあるけど気色悪さもあって、なんか、うん……」
「わぁ、ホントに複雑そう」
ウルスラも別に僕たちの関係性が気持ち悪いと言いたいわけではないのは分かる。
ただ、僕たちと同じことを、自分と兄がしているところを想像すると気色悪いし笑えてくる、というだけで、僕たちの在り方を否定したいわけではない。それは分かった。
「まあウチはかなり特殊な家系ですし、僕らの関係は至って普通だとは強く主張できませんけど……」
何なら、僕が姉に向けている感情が愛なのか依存なのか信奉なのか、もっと他の何かなのかは判然としていない。感情に名前が付けられないのではなく、自分自身にさえ感情の全容が分からないから。
それでも、姉に愛されていたことは疑っていない。その疑念は卒業した。
過去、本当に一度だけ、姉の愛情を疑ったことがある。
姉が遊んでくれない理由が意地悪ではなく病気のせいであると理解して、それまでの無思慮な我儘や態度を謝罪してすぐの頃だ。
今にして思えば無知な子供が馬鹿なことを言っていただけで、賢い姉が腹を立てるほどのことではなかったのだろう。けれどあの時、僕は本気で悔いていたし、同じくらい怖かった。僕はなんて残酷で愚かなことをしたのかと。そして、こんな弟を姉は当然のように嫌い、怒り、叱り付けるだろうと。
しかし予想に反して、姉は僕を見限らなかった。
泣きながら拙い謝罪を述べる僕を抱きしめて、褒めてまでくれた。
『自分の非を認めて謝罪するのは、そう簡単なことではないわ。実際、あなたは私に怒られることを恐れていたのでしょう? それでも恐怖を振り切って、私の前で謝った。それは凄いことよ。偉いわ、シャルル』
胸に抱かれたままの僕に、彼女は穏やかに、そして可笑しそうに続けた。
僕が何か、素っ頓狂な勘違いをしているかのように笑って。
『でも、私に嫌われるかもしれないという恐れは的外れね。私がシャルルを嫌うことなんてないわ。だって、お姉ちゃんは弟を愛するものだもの』
その言葉に、僕は気になって問うた。
『僕が馬鹿な、酷いことを言っても?』と。
そして姉はまた、僕がとても可笑しなことを言ったかのように笑って、当然のことを、或いは大前提を教えるような口ぶりで答えた。
『えぇ、何があっても。だって、何があっても、私はシャルルのお姉ちゃんでしょう?』
僕が誰かと結婚して婿に行っても、姉が誰かと結婚して嫁に行っても。
僕が姉と比べてどれほど愚かでも、姉が僕と比べてどれほど優れていても。
たとえ全身の血を抜いて入れ替えても、身体をバラバラにして他人のそれと組み合わせても、僕が姉を殺したとしても、姉弟であることは変わらないと、彼女は言った。
絶対的で無条件の愛情を、僕はそのとき初めて知った。
きっと両親も同じように僕たちを愛してくれていたとは思う。けれど僕が絶対性を信じ、求め、そして依存したのは両親ではなく姉だった。
「──まあ、僕らが普通じゃないのは分かり切っていたことですけどね。現に僕は、こうして
再びの軽口に、ウルスラはまた愉快そうに笑った。
「ははは、違いないね。あんたも兄さんと同じ、
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