第23話

 抗生物質投与から四日。

 ドロテア嬢もウルスラも完全に解熱し、多少の喀痰と咳嗽、倦怠感を訴える程度にまで回復した。


 ──そろそろ頃合いだ。


 そう判断して、僕は伯爵にアポイントを取り、時間を貰った。

 

 通された伯爵の書斎はドロテア嬢の部屋と同じく落ち着いた雰囲気で、外国語で書かれた本が棚から溢れて複数の机に積まれていた。

 古い文献を解読する中で覚えた言語もあるが、翻訳家に任せた難しい言語のものも。


 「今日はお時間を頂きありがとうございます、伯爵」

 「うん。話と言うのは……婚約のこと、だろうね」

 「……はい」


 やはりと言うべきか、お見通しのようだ。


 伯爵に促されてソファに座ると、彼もローテーブルを挟んで対面に座る。

 呼び鈴を鳴らして使用人を呼び、簡単なティーセットが用意されるまでの間、彼は何も言わなかった。


 華やかな香りを立てる紅茶が運ばれてくると、彼はそれで唇を湿らせてから口を開く。


 「あれは私とジョンが交わした契約であって、君たちが望んだことではない。こうなってしまった以上、君が望むのなら、我がプラヴァーズ伯爵家としても受け入れる所存だ」


 話が早い……というか最初からそのつもりだったのだろう、当然ながら。

 ライヒハート家の価値は暴落した。家財を失い、人脈を失い、数多の資料や後世に残すべき文献を失って。


 残ったのは後継者の僕一人。

 そして伯爵は知らないことだが、僕は白騎士に──世界を統べる一大宗教たる一神教の総本山、教皇庁が極秘に擁する秘密組織である神聖騎士団に追われる身だ。


 彼に明かした情報だけでも、婚約を破棄するには十分すぎる。

 

 だが、「僕が望むのなら受け入れる」とは。


 ……まあ、伯爵が最優先するのは当然、伯爵家だ。それは理解できるし納得もしよう。

 少し残念に思ってしまったのは、ただのエゴであり、イメージの押し付けだ。


 「……はい。では、そのように」


 座ったまま姿勢を正し、染みついた作法に則って頭を下げる。


 そのときに内心が、表情か所作にかは分からないが出てしまったらしく、伯爵はむっと眉根を寄せた。

 しかしそれは不快感の表出ではなく、彼が抱いていたのは疑問だった。


 「……ん? ま、待ってくれ。……君は婚約破棄を望んでいるんじゃないのか?」

 「……えぇ、その通りです」

 「ま、待て待て。一旦その「空気を読んだ最も賢い返答」を止めてくれ。……他に好きな人が出来たから、婚約破棄を申し入れに来たのだよね?」


 何故か慌てる伯爵。

 空気を読んだ最も賢い返答……僕の意図していたことそのままだし、この場面に於いて最も望まれる対応のはずなのに。

 

 「はい? えっと……対外的にはそういうことにすれば、伯爵家は被害者の立場になりますし、社交界から非難されることもありませんよね?」


 こういうことは明言すべきではないのだろうけれど、何か齟齬がある気がしたので聞いてみる。

 或いは、彼に対する期待もあったかもしれない。


 僕としては何も間違ったことは言っていないつもりだったのだが、どうやら落第点だったらしい。伯爵は頭を抱え、深々と嘆息した。


 「──はァー……。ジョンは──いやお母様の方かな──君に素晴らしい教育を施したね。今すぐ宮廷舞踏会に出ても、まあ、よく躾けられた子供、くらいには見て貰えるだろう」


 伯爵の独り言に、僕は何も返さなかった。

 ただじっと、続く言葉を待つ。


 「まず明言しよう。私はジョンの死や家財人脈の喪失を理由に──つまりライヒハート家の価値が大暴落したことを理由に、君とドロシーの婚約を破棄するつもりはなかった」


 予想通りの──或いは期待通りの、善人のような言葉だった。

 

 貴族のあるべき姿からは、少しズレている。

 彼らは本来、感情なき国家運営機構でなければならない。領地の授与や民衆からの徴税権、領地防衛のための武装権といった貴族の特権は、そのための道具であり報酬でもある。


 善人のような──善悪で物事を判断する人間のような振る舞いは求められていないし、不適格だ。


 彼らは機械でなければならない。

 国益を最優先に、次いで領民の利益を最大化するように動く、機械的な運営装置でなければならない。個人の感情や快楽を判断に交えれば、最適解を取り損ねる。


 今回の場合、プラヴァーズ伯爵家とライヒハート家が結びつき、相互に利益を得ることを目的とした婚約は、ライヒハート家の事実上の滅亡によって見込まれる利益が大きく損なわれた時点で破棄するべきだ。


 それがプラヴァーズ伯爵家の、延いては領民と、この国のためになるはずなのだから。


 しかし、僕はなんとなく、彼がそういう合理一辺倒の判断をしないことを分かっていた。

 

 「……実は、僕もそんな気はしていました。貴方は心の広い方だし、決して愚かではない。何かメリットがあるのなら、それを理由にご自分を説得し、僕を庇護してくれるのではないかと」


 僕の言葉に、彼はけらけらと愉快そうに笑った。


 「見透かしたつもりなら、もう少し精度を上げたまえよ。メリットなど、私が親友の息子を見捨てたクズにならず、妻と息子たち、勿論ドロシーにも、軽蔑されずに済む。それだけで十分だ。……その上、ペストを治してみせた君の知識や能力が手に入る!」

 「……」


 僕は無言で、しかし笑みを浮かべて頷いた。

 

 思うところはあった。

 だが、まあ、”ついで”程度の話なら、わざわざ噛みつくほどのものでもない。


 「……私とジョンの出会いや、恩義については聞いているかい?」

 「いえ。……失礼ながら、あまり興味が無くて。ですが勿論、プラヴァーズ伯爵家については勉強をしています」


 僕の返答に、伯爵は一瞬だが意外そうに瞠目した。

 いや、僕なんかに悟らせる時間は、きっと貴族にとっては十分なほど長いのだろう。彼は恥じ入るように咳払いを一つ。


 「……どうして君とドロシーが婚約することになったかとか、聞かなかったのかい? 私とジョンの関係とか」

 「どうしてって……家の利益のためでしょう? 我が家もそれなりに貿易網は持っていましたけれど、それでも輸送関係はプラヴァーズ伯爵家が強いですからね」


 関係については学生時代の友人としか聞いていないが、それだけで十分だ。

 接点があり、お互いの利害が一致したが故の契約。それだけ分かれば、あとは好奇心を持てるかどうかだ。そして契約結婚やその相手は、僕の興味を惹くことではなかった。


 「まあ、そういう側面もあるけれど……君は、反発しなかったのかい? ドロシーも君の顔を見るまでは、正直辟易するほど質問責めしてきたよ」


 「も」ということは、彼自身か、或いは他の子供たちもそうだったのだろう。

 興味を持てば尋ねるのは当たり前のことだし、それを変だとは思わない。単に、僕はそこまでの関心を抱かなかったというだけで。


 当時はむしろ、姉の方が僕の契約結婚に否定的だったし、色々と調べたり両親に尋ねたりしていた。

 僕が興味を持たなかったのは、もしかしたらそれも理由の一つかもしれない。


 「嫌な人だったらどうしよう」とか、「仲良くなれるだろうか」とか、そういう不安は全部、姉が何とかしてくれると信じ切っていたから。問題のある相手だったら、彼女が両親を説得するか──まあ、どうとでもして止めるという確信があったから。


 まあ結局、彼女は早々に調査を止めていたけれど。

 相手──ドロテア嬢が姉よりも僕と年の近い、心根の善い可憐な少女だと分かったからか。或いはもっと別な理由かは不明だが。


 ……それにしても、決め手が顔とは。


 「彼女好みの顔に生んでくれた母には感謝ですね」


 姉が死んでからは死人みたいな色の顔が見えるので鏡が好きではなかったが、もしや僕も美形に分類されるのだろうか。


 両親は……特に母は我が親ながら美人ではあったと思うし、姉は顔立ちも身体も文句のつけようも無く美しかった。先天的遺伝子欠陥のせいで目の色も髪の色も違ったけれど、姉弟なのだし顔立ちは似ていた……だろうか。分からない。意識したことが無い。

 

 だが似ているのなら、僕は僕の顔が大好きなはずなので……そういうことだ。残念ながら。


 まあ顔の好みなんか人それぞれだし、僕の顔がドロテア嬢の好みだったのなら少し嬉しい。

 と口元が綻んだのも束の間、伯爵は呆れた冗談でも聞いたように笑った。


 「あぁ、いや、そうじゃない。というか初めて会った当時の……二年前の君の顔は、それはもう酷かったよ」


 ……違ったらしい。

 そうだろうとは思っていたけれど。当時の僕が半分以上死人じみていたことなんか、勿論分かっているけれど。なんせドロテア嬢に会った記憶さえ定かではないのだから。


 「……まあ、あの子の話はあの子から聞きなさい。あまり私が語っては叱られてしまう」


 伯爵は冗談めかして笑い、すっとソファを立ち上がる。

 彼のティーカップは空になっていたし、気付けば、僕のものも残り二口分くらいだった。


 話は終わり、ということだろう。


 「婚約破棄についてもあの子と話しなさい。ただ、私にはどちらにしても君を養子に迎え、後ろ盾となる用意があると伝えておくよ」


 伯爵は部屋の入口まで僕を見送り、にこやかに──しかし明確に、これ以上の会話を拒むという意思を見せて、部屋の扉をぱたりと閉める。


 ……どうやらここに来た主目的である婚約破棄は、想像より難航しそうだった。



 ◇



 「……あの年頃の子で、結婚という言葉に夢を見ないとは。君の子供らしいし、君らしい教育の跡が窺えるよ、ジョン」


 シャルルが退室した後の書斎で、伯爵は一人、ソファに埋もれるようにして座っていた。

 背凭れに身体を預け、ぐったりと天井を仰いでいる。


 独り言ちる声は低く細く、使用人が廊下を通っても届くことはないだろう。


 「自分の身柄、妻、子供、結婚という人生における一大事。何もかもが家のため。……まるで貴族の嫡子だ。君はそういうのが嫌で、地位や名誉を求めていなかったはずなのに」


 古い──二十年近く前の記憶を掘り返す。

 伯爵かれは貿易や外交を学ぶため、友人ジョンは医学を学ぶため──ではなく、人脈を繋ぐために王立大学に通っていた時分。


 二人とも才気に溢れ、未来に夢を見る若者だった。

 同じく偉大な祖を持ち、厳しく育てられ、年頃ゆえの反発心を持っていた。色々な話をしたし、一緒に色々なことをした。


 その中で、幾つかの約束をした。

 もうその時点で構想のあった子供同士の婚姻は、子供たちに委ねると──他に好きな人が出来たら、本人の気持ちを優先しようと約束した。


 勿論、貴族として名家として、互いの家が結びつくことのメリットの大きさ、その最適性は理解していた。その上で、だ。


 他にも色々と──自分たちが親にされた嫌なことを、不合理なことを、自分たちの子供にはすまいと誓い合った。


 だが、それでも結局は。


 「結局、親に正しく愛されなかった子は、自らの子を正しく愛せないものなのかもしれないね、ジョン。“普通”を知らない君は、子供を”普通”に育てられなかったんだ」


 シャルル・ライヒハートは名家の嫡子たるに相応しい子に育ち、ドロテア・フォン・プラヴァーズは見事な伯爵令嬢となった。


 それは悪いことではない。

 血は──血統は、親の感情一つでどうにかなるものではない。貴族は貴族であり、名家は名家であることを社会が望む。

 社会彼らの求めに応じられなければ、糾弾され、放逐される。


 そうならないための最低限は教えなければならないのだから。

 

 「……いつだったか、親子という仕組みについて教えてくれたね。親は子の安全基地であり、無償絶対の愛を注がねばならない。尊敬されてはならず、軽蔑されてはならない。恐怖を与えてはならず、恐怖を教えなければならない。全く、親とは難しい立場だと思ったものだし、今でもそう思うよ」


 伯爵は天を仰いだまま、深々と嘆息する。

 かつて友人が発達心理学とやらを根拠に語ってくれたルールを、何度か破ったことを思い出して。


 「君もそうだったのだろう。君は医師として、研究者として、あの子の良き師であったのだろう。だが、きっと、そうでしかなかったのだろうね」


 伯爵は悲しそうに独り言ち、静かに目を瞑った。

 亡き友に黙祷を捧げるように。


 しかし、彼の推測には間違いがあった。


 彼は家族を大切にしていた。

 研究が行き詰っても妻や子供たちにストレスを悟らせたことはなく、叱責や躾けの場面でも怒鳴ったり手を上げたりしたことは一度も無い。


 自らの功績を誇ることも無く、親として子を所有物のように扱ったことも、殊更に上下関係を語ったことも、一度も無い。

 彼の父や伯爵の父がそうしたような、貴族や名家にありがちな関係は築かなかった。

 

 ただ正しく在り、子供たちを見守り、教え導く、善良な大人であり親であった。

 尊敬させることなく自然と尊敬され、軽蔑されることなど一度もしなかった。多くの知識を授けることで恐怖を教え、それを逃れる術として更なる知識を授けた。


 そして確かに、シャルルにとって、父は良き師だった。

 優れた知見を持ち、強い信念を持ち、善き志を持った、良き先達だった。


 言葉や振る舞いでなく、その実績を以て尊敬させるような、自慢の父だった。


 しかし──ジョン・ライヒハートは社会の異物とされたモノを排除する審問官、処刑人でもあった。


 つまり。


 彼は、自らが世界の異物であることを自覚しているシャルルにとって、死神のようなものだった。シャルル自身がどう考え、どう捉えていたかはともかく、実態として。


 彼の教えは後継者への教導であり、シャルルにとっては異端への見せしめであり、隠匿者への警告だった。

 

 魔女とされた者を、どのように責めるのか。

 どれほどの血を流させ、どれほどの痛みを与え、魔女らしきモノに仕立て上げるのか。


 シャルル自身が異端であることが露見した場合の、その末路を見せつけられた。

 いつか自分がされるかもしれないことを、シャルル自身がやった。罪のない他人を練習台に、内心の反発も良心の呵責も、その一片の表出すら許されない状況で。


 ……勿論、ジョンは息子が実験体を殺すことに良心の呵責を覚えていることは分かっていた。

 彼自身が子供の頃に経験し、そして慣れたものだ。それに何より、息子のことだ。気付かないはずがない。


 だから奴隷や魔女を使い、それらは人間ではないと教え込んだ。

 彼自身がされたような荒療治ではなく、ゆっくりと時間をかけて、不要な心労を丁寧に解きほぐすことにした。


 ──善悪はともかく、教育としては的確だった。

 物心ついて以来の9年間に及ぶ順化は、人格を作り変え、感性を適応させ、邪魔な罪悪感を取り除くはずだった。


 シャルルが自覚している通りの、教育や常識ではなく自らの感性を最優先する欠陥品でなければ。

 

 誰が悪かった、誰が誤ったということもない。

 ただ──運が悪かったのだ。致命的に。

 

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