第24話

 伯爵と話をした翌日。

 僕は概ね見立て通りに回復したドロテア嬢に、私室へと呼び出されていた。


 朝早くから、とは言わずとも、朝食を終えたばかりの時刻。

 どうせ彼女の診察に出向くつもりだったとはいえ、向こうからの呼び出しとなると緊張する。


 話の内容に見当がついていれば尚更だ。

 一週間の滞在でかなり慣れた広い部屋の中、見慣れた寝間着姿ではなく、それなりにきっちりとしたドレス姿の少女が待っていれば、ドアを開けた瞬間に緊張が倍加する。


 落ち着いた発色の赤を基調とした、精緻な刺繡の施されたドレス。僕なんかの目には正装グレードに映るが、これから外出する予定は聞いていないし、あれでも普段着なのだろう。


 「──シャルル・ライヒハート殿」


 マナーに則りこの場に適した賞賛を脳内辞書から探すが、発見前に、先んじて彼女が口を開いた。こういう時、普通は女性の側も挨拶を待ってくれるはずではないのか、と困惑と疑問が過る。


 しかも彼女は椅子やベッドに座ってではなく、部屋の真ん中で立ったまま僕を待っていた。只事ではない空気が、もう既に漂っている。


 「……はい、ドロテア・フォン・プラヴァーズ伯爵令嬢」


 青い双眸に射抜かれて、思わず背筋を正す。

 思えば、マスクを着けずに彼女と正対するのは初めてだ。ガラス越しでない、熱病に侵されてもいない視線は、こんなにも力のあるものだったのかと驚いてしまった。

 

 「ライヒハート家に何が起こったのかは父に聞きました。事実上の滅亡と。そして、貴方はそれを理由に私との婚約破棄を申し入れに来たと」


 二つ上の少女は冷たい人形のような目で僕を見据え、静かに口を開く。

 声は硬く淡々としていて、喉を痛めて筆談をしている時の方が温かみを感じたほどだった。


 「……その通りです」


 気圧される。

 彼女の態度も声も至ってフラットで、感情がまるで滲まない。なのに──怒りや不快感を、とても強く感じる。


 千人単位で人を殺している魔女の怒気と同じくらい怖い。いや、何ならこっちの方が怖かった。


 「そして、私にはそれを覆すだけの理由がありません。プラヴァーズ伯爵家とライヒハート家における婚姻契約は双方の利益を目的としたものであり、ライヒハート家の持つ価値は、少なくとも半減したと言えます」

 「ははは……」


 思わず苦笑してしまう。


 だって、半減、とは随分な高評価だ。

 かつてのライヒハート家が持っていた資産や人脈、貿易網、そして医学に関する超越的な知識。その全てと、僕一人が匹敵するという意味なのだから。


 しかし──100パーセントを手にする計算で結んだ契約だったのだから、50パーセントではあまりに不足だ。


 伯爵家として、その欠落は見逃せない。

 ドロテア嬢やプラヴァーズ伯爵がどう言い繕おうと、他の貴族や王国は必ずそう判断する。


 彼女も、それは理解していた。


 「婚約を継続するだけの価値を、親戚の方々を納得させるだけの合理的価値を、滅亡したライヒハート家の嫡子には見い出せません。故に、私は貴方の申し出を受け入れ、婚約破棄に同意致します」

 「……はい。賢明な判断と存じます」


 真面目な顔を作ったつもりだったが、多分、僕はいま笑っていた。


 計画通りというか想定通りというか希望通りというか、「そうだよね? 普通に考えたらそういう結論になるよね?」という安堵が大きい。


 ──全く、長かった。

 ジャンヌとウルスラに「婚約者に会わなければ」と言って目的を決めてから、二週間も経った。当初は三日の予定だったのに。


 二週間、か。

 これで神聖騎士団が捜索を再開するまでの猶予期間を、全て使い切ってしまったことになる。


 一応、ウルスラが倒れた日の欺瞞行動を最後に魔術を使っていないから、現在位置が即座に露見することはないにしても、速やかに移動した方がいいのは間違いない。


 しかし現状、“楽園”の位置は全く──、


 「その上で、私は貴方に婚約を申し入れます」

 「──、は?」


 思考が止まり、素っ頓狂な声が口を突いた。


 その声を質問と取ったのか、ドロテア嬢は続ける。

 なお本当は無理解というか、むしろ“無”だったので、続けるよりはちょっと猶予が欲しかった。10秒くらい、何を言われたのか考える時間が欲しかった。


 「貴方はペストという恐ろしい死病に怯むことなく私に寄り添い、治療してくださいました。使用人も、母すらも怯えて私に触れなかったのに、貴方は献身的に看病してくださいました。貴方は私の命の恩人です。そんな方に好意を抱くのは、ごく自然なことでしょう?」

 「いや……貴方の感謝は錯覚です。僕は、殆ど何もしていません」


 否定は半ば反射だった。

 何も考えず、何の理由も無く否定して、後から理由を探して添える。


 「薬は僕が作ったものじゃない。遠い国の古い医師たちが使っていたものを、父が再発見しただけです。材料だって、伯爵家の資材と輸送網が無ければこれほど迅速には手に入らなかった。僕は……ただ最適な行動をしただけです」


 マニュアル通りに病原を特定し、マニュアル通りの薬を使い、マニュアル通りの治療をした。


 知識さえあれば、誰にでも出来ることだ。


 医学、いや全ての科学とは、そういうものであるべきだ。

 誰がやっても同じ結果が得られる、普遍性と再現性こそ至上にして前提。


 先人たちはそういう技術を遺し、僕たちもまた、100年後、200年後の人類にも再現できる技術を遺すつもりだった。


 勿論、僕は知識を有することそれ自体の価値は認めている。

 字が読める、論理的な思考が出来る、帰納と演繹を使い分け、直感ではなくデータで動く。そういう当たり前のことが出来ない──僕らにとっては当たり前のことが出来ない馬鹿も、世の中には大勢いる。


 別に、万人にそれを求めるつもりはない。

 ジャンヌやウルスラのような農奴階級の人間が勉学にかまけていたら、食料生産に支障が出る。ただでさえ病気や戦争で疲弊しているのだから、食糧難になんて陥ったらいよいよ国が崩壊してしまう。


 だが医者や貴族のような、本来は知識階級とされるはずの人間までもが、知識の収集に消極的すぎる。王立大学や家庭教師、神父などから与えられる、一般的に知られている知識を得て満足してしまっている。


 剰え、新たな知見を「そんなものは習っていない」「非常識だ」「一神教の教義に反する」などと言って切り捨てる始末。


 僕が賢く、有能なのではない。

 他が馬鹿なのだ。無知であるばかりか、自らが無知であることに気付いてさえいない。


 「……貴方の姉君は、そんなにも賢い方だったのですね」

 「……はい。でもなぜ急に?」


 唐突な言葉だった。

 だが聞き返すより、意図を尋ねるより先に肯定が口を突いて出る。


 いきなり言われたら困惑こそするが、1+1が2であることは疑いようも無いのだから。


 ドロテア嬢は小さく笑みを浮かべると、微笑みながら続ける。


 「貴方は豊富な知識を持ち、それを活かす能力をお持ちです。それは客観的に、大衆より優れていると評価されるものでしょう。ですが、貴方は自分が優れているわけではなく、周りが劣っているだけだと──自分への評価は過分であると感じている。違いますか?」

 「……」


 流石という言葉も出なかった。

 心をそのまま読まれているかのような思考トレース。発言だけでなく表情や僅かな仕草から心情を推し量る技術は、やはり本物の貴族と、齧った程度の僕とでは隔絶している。


 「それは、身の回りに卓越した才能を持つ人がいるときの、不必要な劣等感です。だって、姉君がどれほど卓越していても、貴方の能力が下がるわけではないのですから」

 「それは……いえ、仰る通りです」 


 “上”を知っているから、相対的に自分が下になり、本当の“下”が実際以上に劣って見える


 「私はペストに罹り、死ぬところでした。しかし、貴方が治療し、助けてくださいました。ですので、貴方は私の恩人です。……私は、何か間違ったことを言っていますか?」

 「……いいえ」


 また、僕は自嘲の笑みを堪えきれなかった。


 これは、流石に否定できない。

 その言葉を否定すれば、僕は事実を感情で否定する馬鹿と同じことをすることになる。同じ馬鹿に堕ちることになる。


 それは出来なかった。


 「……二年前にお会いした時のことを、覚えていらっしゃいますか?」


 僕が何も言えずにいると、ドロテア嬢が更に重ねる。


 二年前──というと、姉の葬儀のときか。

 正直、何も覚えていない。色々な人に会ったし、殆どの人が慰めか励ましの言葉をくれたそうだが、あの時は僕も半分死んでいた。


 「いえ。ですが大変な無礼を働いたようで、恐縮するばかりです」

 「そうですね。私が話しかけても、ものすごく機械的な対応で……婚約者に笑顔の一つも向けない人と、どうやって仲良くなればいいのかと頭を抱えました」

 「それは……」


 苦笑する。

 というか、もう苦笑するしかない。


 過去のことだが、僕の未熟だ。


 口走りそうになった謝罪は飲み込んだ。覚えていないことを謝る不誠実を、彼女には働きたくなかったから。


 「でも、その時から、私は貴方と仲良くなりたかったんです。姉君を亡くしたばかりの時の貴方は、まるで世界が自分一人だけになってしまったかのような孤独感を湛えていて……触れれば砕けてしまいそうなほど、儚いものに見えました」

 「……そう、でしょうね。きっと」


 初耳だが、納得は出来た。


 姉の死が僕に与えたストレスは計り知れない。

 何かもう一押しあれば発狂か自殺していたと、今となっては自己分析できる。


 「その時から私は、貴方の支えになってあげたいと──言葉を選ばずに言うのなら、か弱い貴方を庇護してあげたいと思っていました。以前は、その感情を好意であると思っていましたが……いざ本物の感情を抱いてみると、違うものだったのだと分かります」


 過去を語る少女の口ぶりは穏やかで、湛えた笑みはとても優しかった。

 話の途中なのに、目を逸らしそうになるほど。しかし同時に、目を奪われてしまうほど。


 「勿論、その思いは今も変わっていませんよ? 二年前よりずっとしっかりしたように見えて、自己評価の低さは改善されていないようですから」


 ──困った。

 彼女の好意を否定できない。否定するだけの材料がない。


 いや──探そうと思えばきっとある。

 だが思考が回らない。


 僕の能力を認めてくれて、僕という個人を気に掛けてくれる少女の好意が、こんなにも威力のあるものだとは思わなかった。或いは僕が簡単に動揺してしまうポンコツなのか。


 ただ、絶対に忘れてはいけないことをきちんと思い出せる程度には、僕の頭は優秀だった。


 「……僕は──僕には、やるべきことがあるんです。それが何なのかは言えません。でも、ここにずっと居るわけにはいかなくて、向こう何年かかるかも分からない。だから──」


 “魔女の楽園”の捜索。場合によっては制作──いや、ここは敢えてと言おうか。

 白騎士の行動を制限しつつ魔女側も積極的行動を取るには心許ない適正値の、30人程度の魔女を集めること。


 楽園を形成した魔女は攻撃性を潜める可能性が高いとはいえ、感情で人を殺し、大量殺人の異能を持った化け物を探して集めるわけだ。ギリギリ人類への反逆かもしれない。


 少なくとも、神聖騎士団はそう捉えるだろう。

 大を生かして小を切る──いずれ大多数の人間を殺す魔女を殺すため、疑わしい者を「殺してみて確かめる」なんて過激な手段を許容する連中だ。


 奴らは百か千のためなら一や二など切り捨てられる。「人類」を守ることを、その意義と重さを理解している。


 そして僕たちは、そんな奴らに敵視され、追われている。

 結婚して一緒に暮らすなんて有り得ないし、不定期に帰ってくるだけでも危うい。公的な捜査力を持っているのなら、婚約関係を維持しているだけでマークされるだろう。


 そういう意味での利害を考えても、僕と彼女の関係は「元婚約者」程度に留めておかなくてはならない。


 ──しかし、そんな理屈を彼女は知らない。


 「構いません」


 少女は金糸の髪を揺らし、華やかに笑った。


 「お待ちしています。何年でも、何十年でも。私が失うはずだった、貴方が失わせないでくれた時間の全てを、貴方に捧げます。──私は、貴方が好きです」


 ──一瞬。

 いや……たっぷり五秒は、頭の中が真っ白になった。思考を吹っ飛ばすほどの感情が照れなのか歓喜なのか、もっと別のものなのかさえ分からない。


 だって、これほど真っ直ぐに、これほど強く好意をぶつけられたことはない。


 「……ぁ、ぇ、っと」


 言葉が出ない。

 気の利いた返事どころか、礼節に則った機械的は反応すら絞り出せない。


 顔が火照っているのが自分でも分かる。きっと耳まで赤くなっているだろう。


 彼女の顔を真っ直ぐに見られない。

 初対面の時から顔立ちの整った人だとは思っていたが、こんなにも綺麗な人だったかと戸惑いを覚える。


 「こ、好意は凄く嬉しいです。でも、その……僕には、恋や愛が分からないんです。貴女のことは綺麗だと思いますし、今のお話を聞いて、貴女が一途で誠実な、素敵な人だとは思いました。でも……これはきっと、異性に対する好意とは違う」


 形状の整ったものや、洗練された立ち振る舞いを綺麗だと思うこと。性格が善良で誠実であると思うこと。それは好意に繋がる感動なのだろうけれど、好意そのものではない。……はずだ。


 勿論、彼女のことは好意的に思ってはいる。それは自覚している。


 だが普通、恋や愛はとても強い感情として語られる。

 いつもその人のことが気になって、その人のことだけで頭がいっぱいになって……みたいな話を何かで読んだ。


 時に城を傾け、国を亡ぼすほどの感情だとも。まあ美人につられるような暗君は稀で、だからこそ取り立てて歴史に名を遺すのだろうけれど。


 そんな感じは全然ない。

 というか──彼女かジャンヌかどちらか殺さなくてはいけない状況になったら、僕は躊躇しつつも彼女を殺せる。


 だからやっぱり、これは恋愛感情ではないのだろう。


 「そうですか。……では、まずはお友達から始めましょう! 婚約を前提として!」


 僕の言葉は、直接的ではないにしろ拒絶と捉えられてもおかしくないものだ。

 なのに彼女は、空間が華やぐような笑顔を浮かべた。


 「……は、初めて聞くフレーズですね」


 どうにか笑顔を作る。

 これは、駄目だ。彼女には勝てない。


 腕や頭でどうこうではなく、なんというか、心が自ずから折れてしまう。


 貴種故の存在感や威圧感の類ではない。

 僕が勝手にそう感じて、勝手に恭順しているだけだ。


 「ふふっ。そうだ、私のことはドロシーとお呼びください。以前は婚約者としてそう言いましたけど、今度は友人として。ね?」

 「……はい。よろしくお願いします、ドロシー」


 どちらからともなく手を伸ばし、握手を交わす。

 思えば、防疫用の手袋無しで彼女に触れるのは初めてだ。


 柔らかく華奢で、傷一つない手指。

 僕とも、ジャンヌやウルスラとも違う、誰の血にも汚れていない清らかな手。


 血の通った、正常な体温を感じる。この手が敗血症で黒変するのを防いだのだと思うと、僕は、僕自身を褒めてやりたい気分になれた。


 しばらく嬉しそうに僕の手を振っていた少女は、ふと思いついたように動きを止めて、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

 「本当はお互いに敬語も取った方がいいのでしょうけど、私はこれが自然なので」

 「……えっ?」


 確かに僕は敬語、というか礼節に則った態度を作っている。

 自然体はジャンヌと話すときの方ではあるけれど……つまり僕だけが一方的に、伯爵令嬢相手に砕けた話し方で接しろということだろうか。


 いや別に、取り繕っていたものを外すだけだから苦痛とかではないのだが、なんというか「え? ホントにいいの?」という躊躇いはあった。


 ……まあ、でも。


 「……友達、だもんね」

 「はいっ!」


 弾むような返事をするドロシーは、今日一番の笑顔だった。

 見ていると、こちらまで幸せな気分になるような、春の日差しを受けて蕾の開いた花を思わせる。

 

 そんな和やかで、少し気恥しくもある空間に、ドタドタと聞き汚い音が届いた。

 廊下を走る足音。伯爵家の使用人は高度に訓練されており、動作に殆ど音を立てない。足音を立てて歩くなんか論外だと思っていそうなプロたちだ。


 ジャンヌがアッパー期に入ったか、或いはウルスラか。

 どちらにしても僕の連れであることには変わりなく、たったいま告白された少女と向かい合っていることとは別種の恥ずかしさが込み上げてくる。


 足音は部屋の前で止まり、間髪入れずに扉が開く。


 「シャルル、いる!?」


 礼儀も作法も無視して飛び込んできたのは、旅装に着替えたウルスラだった。


 人の家の、それも伯爵邸の廊下を、無作法を通り越して危険な域の全力で走るとは何事か。その上ノックも無しに人の部屋に飛び込んでくるとは。


 「──伏せてっ!」

 「ウルスラ──、っ!?」


 そう眉根を寄せた直後、全く減速せず突っ込んできたウルスラに抱きしめられ、そのまま床に押し倒される。


 そして。


 何の前触れも無く、屋敷が崩壊した。

 

 崩落、と言った方が正確か。

 壁が裂け、床が割れ、天井が落ちてくる。


 僕が最後に見たのは、腹から大量の血を噴き出しながら倒れるドロシーが、崩落した天井の下敷きになるところだった。




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