第9話
「もう話は終わりだよね? じゃあ、殺すね?」
完全に思考を読み切られ、諦めたように項垂れた僕は、その声で後悔に浸っている場合ではないことを思い出した。
焼けつくような人類への憎悪。
それを晴らせることへの歓喜。
長々と面倒な会話をしていた僕への怒りすらも感じる、弾むような声だった。
激発寸前。
顔を見ずともそれが分かる、危険な声色だった。
「……待って、ジャンヌ。話はまだ終わってない」
「……」
制止に、ジャンヌは何も言わないことで不満を示しつつも従ってくれた。
安堵の息を吐いた僕に、リチャード卿は意外そうな一瞥を呉れる。
そんな彼に一言断って、僕は立ち上がって壁際の棚に向かった。暖炉から離れた位置に置かれた、母が趣味で集めた茶器なんかが飾られている棚だ。
引き出しを開け、透明な液体の入った小瓶を取り出す。
「それは?」
「腹痛を抑える薬です。使用人も居なくなって、ここ数日は自炊だったのと……これは恨み言ですが、半分くらいは貴方のせいじゃないかと」
冗談めかした言葉に、白騎士はにこりともせず肩を竦めた。
ちなみに嘘だ。
ジャンヌは料理人のような技巧は無くとも、美味しく食べるための調理技術は身に着けている。僕はこれまで料理をしたことが無かったが、台所を漁って使用人の書き記したレシピを見つけた時点で、化学実験のように指示を正確になぞる人形になるだけで良かった。
家族三人分、使用人たちの分、それから実験体の分と、グレードの異なる食料を大量かつ頻繁に買い入れる我が家には、大量の備蓄があった。
おかげで廃墟の群れとなった町の中でも、一週間は飢えることなく生活できた。僕一人だったら怪しかったが、ジャンヌは生活力に長けていた。
「ジャンヌも一応飲んでおいた方がいいよ。昨日の肉、ちょっと古かったでしょ」
僕が差し出した小瓶を、彼女はくすりと笑って受け取り、中身を一息に飲み干した。
それが胃薬なんかではないと──僕が腹痛に苛まれているわけではないと、彼女は当然理解していただろうに。
「うぇ、苦い……」
「……味に拘ってるほど暇じゃなかったんだろうね」
まあ僕の知っている胃薬も大概苦いけれど。
それから僕は小瓶を片付けるふりをして、引き出しから拳大のキャニスター瓶を取り出す。そして身体で隠しつつキャニスターの蓋を開け、棚の上に置いた。
「さて、それじゃあ……話の続きをしましょう」
振り返ると、リチャード卿はまた意外そうに眉を上げた。
彼に毒を盛るため、先んじて僕たちが何かを飲んで見せたと──「良ければどうぞ」なんて言われると思っていたのだろうけれど、それは違う。流石にそんな手に引っかかるほど間抜けではないだろう。
そしてそれ以上のことは、僕や、ごく一部の薬学者にしか想像できまい。
“気化毒”は、あまりの危険性から存在の公表もされておらず、製法に至っては門派ごとに完全に独立し秘匿されている。
「シャルル君。私を説得しようなどとは思わないことだ。私にできる最大限の譲歩は、君は魔女に魅了されており、その魂は無垢にして善良であると教皇聖下に申し開きをすることだけ。……君一人なら、私は庇い、助けられる」
「それはあまり、賢い行いとは思えません。僕なんかよりジャンヌの方が、余程価値がある」
再び向かい合ってソファに腰掛け、僕はリチャード卿の言葉に即答した。
「そうかな?」と背後で首を傾げた気配がしたが、ジャンヌはそれ以上口を挟まなかった。
「……というと?」
断固とした僕の言葉を単なる反抗ではなく、意味のある反論と受け取ったのだろう。
問い返すリチャード卿の表情は相変わらず涼し気だったが、僅かに好奇心も滲んでいた。
「ジャンヌの魔術があれば、今も南方で続いてる戦争を終わらせられます。もうお察しでしょうが、この町をジャンヌは一息で、数秒で焼き尽くしました。石が溶け落ち、人間が即死する極高温を以て。彼女の魔術は極めて強力であり、単なる戦力ではなく、敵方に再戦を躊躇わせる抑止効果さえ見込めるでしょう」
リチャード卿の言葉は、ごく自然で訛りのない僕たちの国の言語だ。
だから教皇の騎士とはいえ同国人だろう、という甘い推測に基づいた言葉だったが、それは幸いにして正解だった。
「魔女を戦争に? 冗談だろう? そんなことをすれば、我が国は神敵に堕ちる。今の戦争に勝ったとて、次は複数の国が聖戦連合を組んで敵に回るだけだ。そしてそうなれば、疲弊した我が国は為す術もなく蹂躙される。神敵となった国の民に、その先はない。皆、虐殺されるだろう」
淡々とした言葉に、僕は反射的に口を突きそうになった反論を飲み込んだ。
僕は魔女の実例をジャンヌしか知らない。彼を含む白騎士がどれほどの知識と経験を有しているのか分からない以上、論理的な反論ではなく感情的反抗にしかならない。
僕は徹頭徹尾、感情的になってはならない。
激昂し、論理的思考を失えば、言葉を交わす価値のない愚昧と見做されるだろう。それはつまり、会話の終了を──“白騎士”の遂行を意味する。そうなれば終わりだ。
黙った僕に、リチャード卿はさらに続ける。
いや、話しかけた宛先は僕ではなく、その背後にいるジャンヌだった。
「それに、君は一つ勘違いをしている。そうだろう? 焚刑の魔女よ」
憎悪対象である他人に話しかけられて、ジャンヌは酷く不愉快そうだった。
それでも居間が業火に包まれないということは、少なくとも今は、僕の言葉を判断基準に含めてくれているようだ。
「魔女は人間とは違う。人間に対する愛着や帰属意識はない。たとえ戦場に駆り出したとしても、敵味方の区別なく皆殺しにしようとするだろう」
「そんなことは──」
ない、とは言い切れなかった。
僕が言い終える前にジャンヌが遮ったし、そうでなくても、僕はすぐにバレる嘘を避けて反射的に言葉を切っただろう。
「ううん、そうだよ、シャルル。
語り口調はいやに軽かった。
昨夜は雨だったから地面が濡れている、なんて日常的で安穏とした因果を語るように。
「で、でも、ジャンヌは僕を殺さなかったし、今も──」
言い募る僕に、彼女はソファの背凭れ越しに腕を回し、僕を後ろから抱きしめる。首に回された腕には、ほんの少しだけ不穏な力が籠っていた。
「殺そうと思ってたよ?」
「──、っ」
耳元で囁かれ、言葉を呑む。
静かな声だったのに、僕の身体は怒鳴り付けられたように硬直する。
そこには憤怒と呼ぶのも生温い、ブレのない殺意が宿っていた。恐怖が憎悪に、憎悪が復讐心に、そして復讐心から殺意へと転化した激情があった。
「爪を剥がれて、指を逆向きに巻かれて、魔女の証明だって焼き印を入れられて。いっぱい泣いて、いっぱい謝ったんだよ、私。何も分かんなくなって、何も分かんないまま火にかけられて、全部何もかも壊れちゃえって思いながら死んだの」
死んだ、と、彼女ははっきりと口にした。
幾度となく死を観察してきた僕だが、僕自身に臨死経験はない。
人間が死ぬときどんな気分なのか、僕は知らない。拷問がどれだけの苦痛を与えるのかも。
ただ、想像は容易かった。
容易く想像できるだけの経験が、僕にはあった。
「助けてって、ずっと思ってた。シャルルのお父さんなんだし、シャルルなら止められるって。でも私が拷問されてる間、シャルルはずっと寝てたんだよね」
夜だから当たり前だけど、とジャンヌは笑う。
その笑顔に屈託は無く、もう許されていることは分かったが、それでも喉元まで「ごめん」という言葉が突き上がってきた。吐き出さなかったのは根性だ。
きっとそれは、贖罪にならない。ただ僕が言いたいだけの言葉にしかならず、彼女の心を僅かなりとも慰めるものではない。
彼女の言う通り何も知らず暢気に眠っていた僕が、今更自己満足に浸れるわけがない。それをやったら、自己嫌悪で首を吊りそうだ。
そんな僕の内心を見透かしたように、彼女は柔らかに笑った。
「いいよ。言葉じゃなくて、その
柔和な笑顔と穏やかな言葉に、僕は赦された気分になった。最悪なことに。
そんなはずはなく、そんなことがあってはならないのに。
「それに、シャルルが私を助けようとしてくれたこと、ちゃんと分かったから」
「うん……」
なんとか絞り出した返事には、自分でも驚くほど覇気が無かった。
だが仕方ないだろう。僕は彼女を救ってなどいない。彼女の言った通り、“助けようとした”だけ。彼女は勝手に助かって、その後発生したかもしれない問題の全てを、彼女自身の能力によって解決しただけだ。
項垂れた僕は、背後でジャンヌがどんな顔をしているのか知る術を持たない。
僕の正面に座ったリチャード卿は、僕とジャンヌを交互に見たあと、何故か興味深そうに繰り返し頷いた。
「なるほど、再誕直後に心変わりさせたのか。珍しい例だが、前例がないわけでもない。謎は解けた。……けれど残念ながら、魔女にはそこが限界だ。世界を呪って生まれた化け物が、従順な軍人になどなりはしない」
それはそうだろうと、実際のところ僕も思う。
ジャンヌが騎士の一団に混じって国のために戦っているところよりは、戦場の全員を焼き殺して笑っているところの方が想像できる。
他に何か、ジャンヌの有用性を──彼女を殺してはならない理由を探し、可能な限りの速度で思考を回す。
しかしリチャード卿は、それを諦めさせるかのようにゆっくりと頭を振った。
「シャルル君。私を説得するのは不可能だ。どれほど合理的な意見でも、どれほどの利を提示しようとも、私が神に与えられた責務を放棄することはない」
「ねえ。私、シャルルのことは殺さないであげるけど、それはシャルルだからだよ。お話が終わったら、そいつも殺すから」
白騎士の言葉を補強するかのように──互いが相容れないことを強調するかのように、ジャンヌが囁く。
耳元に寄せられた唇から漏れる吐息は熱く、滾る憎悪と激発寸前の殺意を感じさせた。
「そうだろうな。魔女とは畢竟、そういう生き物……いや、そういう化け物だ。シャルル君、さっきソレを庇ったことは、私が墓まで持って行く。君は今すぐに屋敷を出て、私の部下に保護を求めたまえ。ライヒハート家の血は才能に溢れている。ここで絶やすべきではない」
リチャード卿の言葉は最後通牒だ。
彼が具体的に何か行動を起こしたわけではなく、表情や声色も涼し気なままだが、僕はそう確信できた。
──黙考する。
説得は失敗した。初めからその余地が無かった。
弄したはずの小細工も効果を発揮していない。こちらに関しては原因すら不明だ。
詰んでいる。
いや、元より詰んでいたのだろう。
白騎士とはきっと、そういう存在のはずだ。
僕はソファを立ち上がり、壁に飾られている剣を取った。
戦闘用の剣ではない。装飾用の、母方の祖父が先王に下賜されたという儀礼剣。卓越した処刑人であることを表彰する
切っ先が無いばかりか、装飾用としての手入れしか為されていない時間があまりにも長かったせいで、刃も酷く鈍っている。
そして何より、僕には実戦経験が無い。
剣術を教わってはいるし、模擬戦の経験はある。しかし打ち身以上の怪我をさせないよう注意を払ってくれる先生と、魔女を殺しに来た騎士は、並べて考えられるものではない。
戦闘になれば、僕は確実に死ぬ。
リチャード卿の痛ましそうな視線は、それを確信してのものだろう。
「……ジャンヌ」
「なあに?」
どこか楽しそうな声に、表情を確認したい衝動に駆られる。
しかし、僕はそれを意志の力で捻じ伏せた。
彼女の感情はこの際、どうでもいい。
彼女を守って戦う僕を、彼女が滑稽だと思っていても、そのまま死ねと思っていても、どうでもいい。そんなことは有り得ないと分かっているけれど。
けれど何にせよ、僕はいつも通りの僕であるだけだ。
世間の常識も親の愛情も捨て置き、自分の中にある判断基準を最優先する。僕は姉と同じ、先天的欠陥品なのだから。
だから僕は僕の判断に従い、この身を擲ってでも時間を稼ぐ。
「僕が負けたら屋敷を焼くんだ。病原サンプルも薬品も文献も記録も、全部、何もかも燃やし尽くせ」
僕はリチャード卿へ剣先を向け、構えた。
突端のない断頭剣では威圧感は半減だろうし、護身程度の剣技しか身に付けていない僕なんかが本職の騎士を威圧できるとは思えない。
だからそれは威嚇目的ではなく、本当に斬りかかるための構えだった。
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