第10話

 「シャルル君……」


 剣の先生は「相手の目を見れば、脅しか本気かは分かる」と言っていた。まあ「戦闘中に相手の目なんか見るな」とも言っていたけれど、それは今はいい。


 リチャード卿は当然、僕が本気であることを悟っただろう。

 そして目を合わせた僕も、彼の本気度を推し量ることが出来た。いや、彼に関しては目を見るまでも無かったかもしれない。


 彼は痛ましそうな目をして、剣の柄に手を掛けるだけ。

 そこに本気の殺意など微塵も無く──僕は彼我の力量差を、彼の態度から教わった。


 彼は僕が本気で斬りかかったとしても、本気の一片も出すことなく制圧できるのだ。

 あの優し気で同情に満ちた視線のまま、きっと僕に致命的な傷を負わせることも無く、素早く静かに。


 「……いいの? お姉さんとの思い出、沢山あるでしょ?」


 それを悟って小さく嘆息した僕に、ジャンヌは怪訝そうに問いかけた。

 その質問は、眼前敵との隔たりに比べるとあまりにも簡単だ。


 「思い出は僕と繋がってる。僕のいないこの場所は、ただ大きいだけの建物に過ぎないよ」


 色素欠乏で日光に弱かった姉は、殆ど外に出なかった。

 だから思い出も大半が彼女の部屋で、残りも殆どが屋敷の中だ。


 けれど、もしも死後に姉と再会できるのだとしたら、叱られるような選択はできない。

 姉さんとの思い出に拘って最適解を取り損ねました、なんて言ったら、呆れられてしまう。そんなのは嫌だ。


 「これは必要なことだ。ここには僕のひいおじいさんの代から蓄積された知識がある。白騎士──エドワード卿、貴方にはその重要性がお分かりのはずだ」

 「そうだね。しかし、それは脅しにはならない。私は図解や文字列より血と経験を重んじる。そしてその判断は間違っていないようだ」


 当てずっぽうの人質──モノ質作戦は、正解ではあったが有効ではなかった。

 彼は確かに知識や技術の蓄積に価値を感じているようだが、それよりもなお、知識を有し技術を身に付けた人間を重視する傾向にある。


 『僕を倒せば情報が焼けるぞ』という脅しを、彼は『君を確保すればいいだけのこと』と切り捨てたわけだ。

 本当に困った。彼はいよいよ激発寸前のジャンヌと僕を同時に相手取って、僕を殺さず制圧できるつもりでいる。


 そして恐らく、それは思い上がりではない。


 「ご両親は君を善くお育てになったようだ。まだ10歳くらいだろうに、私と同じ意見とは」


 彼はこの町を訪れてから初めて、柔らかな笑顔を浮かべた。

 しかし、その表情はすぐに引き締められ、剣の柄に掛かっていた手が動く。


 僅かな金属音と涼やかな鞘走りの音を立てて、白銀の刃が少しだけ覗いた。

 抜けばいい。抜いて、その腹で僕をぶん殴れば、簡単かつ即座に制圧できるだろう。


 しかし彼はまだ、刃を見せて脅すだけだった。


 「最終勧告だ、シャルル君。私は君の中にあるライヒハートの血を、ひいおじい様から受け継がれた技と知識を、彼の功績と名声を残したい。100年後も200年後も、ライヒハートの名は残るべきだろう?」


 彼の言葉は、正しい。爵位を持たないとはいえ名家の端くれとして、そういう思想教育は受けている。

 ライヒハート家の嫡子を説得する言葉としては、ああ、正しいとも。一般的な貴族なら、命惜しさもあって、その理屈に従うだろう。


 しかしながら遺憾なことに、僕は生まれつきの欠陥品だ。世間的な正しさより、普遍的正義より、自分の中にある正しさを重視する。それを捨て忘れ去り、社会の中に埋没するという最も簡単な処世術を、僕は体得できなかった。


 「ひいおじいさんが偉大な医者であることは知っています。父も、広範で深い知見を持った人でした。ですが──ライヒハートの名にそれほど重きを置いてはいなかったでしょう」


 僕は知らず、薄く微笑んでいた。

 ライヒハート家は確かに、名家の端くれではある。それに相応しい資産と人脈がある。


 しかし、僕たちが名家足らんと振舞うのは、「家格に恥じぬように」なんて高尚で思想的な理由ではない。

 僕たちは名家であるために──資産と人脈を保ち、継承し、利用し続けるために名家であるのだ。


 資料、器材、薬品、検体、文献翻訳の専門家の手配まで、研究には資金も人脈も呆れるほどに必要だ。それを確保する手段として、僕たちは名家であろうとしていた。


 「異端審問官も処刑人も、社会的には卑賤の職業です。神聖な医師の家系が持つには、まあ、相応しくないと言ってもいい」


 神聖な、と言うところで笑いそうになったが、どうにか堪える。

 そりゃあアスクレピオス大先生ほどの医師であれば“神聖”だが、家族の病すら満足に治せなかった僕たちなんかが、そんな自称をするのが可笑しかった。


 「……すまないが、話の意図が見えない。それが?」


 最後の言葉だと思ったのだろう、高潔な白騎士は聞き流すのではなく、しっかりと受け止めようとしてくれた。


 「人間を殺し、バラし、検分するのに最も適した二つの職。父がその全てを継ぎ、僕にも継がせようとした理由を、貴方は想像できますか? 僕の父が、名家を存続させるための教育を僕に施しながら、卑賤の技を教え、この両手を血で汚させた理由が、貴方に分かりますか?」


 リチャード卿は素直に、眉根を寄せて思考しているようだ。視線は僕とジャンヌを俯瞰するように広く向けられており、隙まではないけれど。


 そして意外なことに、背後のジャンヌまでもが僕の言葉に聞き入り、考えているようだ。

 今まで背後に感じていた波のような殺意の起伏が、今はかなり小さい。


 僕は答えが出るのを暫く待っていたが、露骨な時間稼ぎと思われるのを避けるため、自分から答えを開示した。


 「簡単なことです。長生きするためですよ」


 それは何の珍しさも無い、医師でなくても抱くような願いだ。

 ライヒハート家が隆盛する前から──きっと人類が死を知った時から、ずっと願っているだろう。

 

 僕たちの願いの源も、そう珍しいものではない。


 「僕の祖母は、父がまだ幼い頃に病死したそうです。今の僕にでも薬を作れるような病気は、当時は死病だったらしいですね。これは病気が弱くなったんじゃなく、僕に与えられた知識が、父が集積し検証した知識が優れている──その病気に勝っているからです。……知識は、死を遠ざける」


 父は母を、僕は姉を、姉は自らの自由と健康を。

 僕たちの家系は──いや、人類は、大切なものを死によって奪われ続けている。


 それは疫病ばかりが原因ではない。

 戦争も、飢餓も、あの狂った魔女狩りも、人々から多くの家族を、友人を、恋人を、大切な人を奪ってきた。


 ……一応言っておくと、僕たちは別に、死ぬこと自体は否定しない。


 「何も死を克服しようってわけじゃありません。僕も今すぐ死ぬのは御免ですが、姉に永劫再会出来ないのは辛い。再会を悲しまれない程度に長生きして、復活の日まで一緒に過ごします」


 人は死ぬ。

 アリストテレス大先生の時代には、もう大前提だったことだ。


 そして人は死ぬからこそ、死を避けるために繁栄してきた。

 飢餓を避けるため農耕技術を作り出し、環境変化に耐えるため家や町を作り上げ、戦争に勝つため武器と戦闘技術を研鑽し、遂には疫病のメカニズムや対処法までもを解き明かそうとしている。


 何より、人が増え続ければ食料が、土地が、いずれは空気すら無くなるだろう。その後に待ち受けるのは大絶滅だ。


 人が死なない生き物であれば、人類の繁栄は無かった。 

 死の重要性を僕たちは知っている。仮に死を克服する技術を発見したら、僕はそれを無効化し再び死を与える技術の発見に全力を費やすだろう。


 「それと……」


 僕が言葉を重ねようとした直後、何の前触れもなく、白騎士が床に膝を突いた。

 そしてそのまま、鎧の重厚そうな音を立てて横倒しに倒れる。


 「ふぅー……」


 漸くか、と、僕はフラフラとソファーに座り込んだ。


 「……なにが起こったの?」

 「……あのキャニスター瓶。中身は強烈な気化性のある麻酔薬なんだ。……つまり空気に溶ける眠り薬。さっき僕たちが飲んだのは胃薬じゃなくて、その解毒剤」


 元々は検体が脱走したときのために用意してあったもので、効き目は「激甚」の一言に尽きる。

 気化量と呼吸回数次第だが、常温環境下で普通に呼吸していれば一分以下で眠るはずだ。そしてそれは根性や気の持ちようで抵抗できるようなものではない。


 「……ホントに人間か、この人。解毒薬を飲んでる僕にもちょっと効いてきたっていうのに」


 僕はぼやきながら立ち上がり、キャニスター瓶を閉めて窓を開ける。

 たったそれだけの動作に、僕はかなりの精神力を要した。


 「この人も解毒薬を飲んでたとか?」

 「ひいおじいさんの作品だし、可能性はないでもないね。本当に秘匿すべき薬は一子相伝だけど、これはそこまでじゃないから。……とにかく、荷物を纏めてここを出よう。彼の語った白騎士という組織像が本当なら、一か所に留まるのは不味い。離れの、研究室も焼かないと……」


 危険性検証がまだだが有用そうな、未発表の薬が幾つもあるのが惜しい。

 だが、ここにはそれを全部捨ててでも焼かなくてはならないものが、同じくらいの数、保管されている。


 ペストに並ぶ危険な病気を引き起こすサンプルもあるし、あまりにも致死性が高すぎて逆に感染が拡大しないという恐ろしい病気の病原サンプルもある。


 頭の中で行動計画を組み立てていると、僕と同じく窓のそばで外の空気を吸っていたジャンヌが、にっこり笑って振り返った。


 「それじゃ、取り敢えずこいつ殺すね?」


 約束通り許可を求めたジャンヌだったが、僕は即答できなかった。

 殺していいとも、殺すなとも言えなかった。


 「……やめてって言ったら、僕も殺す?」

 「ううん。シャルルは私よりも賢いし物知りだから、そっちの方がいいって思うならやめとく。でも、感情だったらヤダよ? 私の憎悪かんじょうの方が、ぜーったいに強いから」


 僕が嫌だから殺すな、では通じないと、彼女は訝るような目で釘を刺した。

 だが勿論、僕だってそんな甘い理由で躊躇っているわけではない。


 合理的に殺すべきか殺さないべきかを考えて、双方のメリットを考えた上で決めあぐねているのだ。


 数秒程悩んで、僕は漸く結論を出した。


 ──否だと。


 「殺さないで。彼を殺そうが生かそうが、絶対に追手は来る。そのとき、僕たちが無闇矢鱈に人を殺さない、話せる相手だって思われてた方が都合が良い。逃げるだけの隙が出来るはずだから」

 「逃げる? あは。どうして? 全員殺しちゃえばいいじゃない?」


 可笑しそうに表情を綻ばせたジャンヌに、思わず怯む。

 無邪気なのに酷薄な笑顔は、憎悪と殺意を隠すにはあまりにも不足だった。

 

 しかし、ここはビビって折れていい場面ではない。

 その怯懦一つで、状況は更に悪くなる。今でも大概「最悪」と言っていい状況なのに。


 「いや。聞く限り、魔女は君一人じゃなく何人もいる。過去にもね。口ぶりからして二、三人ってわけじゃなさそうだ」


 ジャンヌは顎に手を遣り、「そんなこと言ってた?」と首を傾げた。

 明言されたわけではないが、話の内容を考えればほぼ確実だ。しかし全部を説明するのも時間の無駄に思えて、端的に「言ってた」とだけ肯定して続ける。


 「その人たちが皆、君みたいな魔術ちからと、憎悪のろいを持っていたと考えよう。どうして僕はそれを知らない? 街一つを焼き滅ぼせる存在が聖典の中以外にいて、どうして天使や聖人として崇められていない? 歴史に名を残して然るべきだろう?」


 ジャンヌのような特異能力を持った“魔女”を、僕は御伽噺の中でしか見たことがなかったし、聞いたことも無かった。

 異端審問官であり、一般人よりは遥かに魔女に関する情報に詳しいはずの父も、僕もだ。


 「それは抗体組織……白騎士がそれだけ強いからだ。彼も、街一つを焼いたジャンヌを前にしてたった一人で、全く怯んでいなかった。魔女の無敵性について知らないわけでもないだろうに」


 彼らは間違いなく魔女を殺し、歴史の闇に葬り去っている。

 それも、極めて攻撃的で、高い攻撃性能も持ち、自らの死因以外では再び死ぬことが無いという半不死身の化け物をだ。


 歴史書に「魔女が暴れて大きな被害を出した」なんて一節を残させることが無い程度には完璧に。


 「彼らと殺し合うのは得策じゃない。個の強さか数の暴力かは分かんないけど、歴史を見るに、白騎士は魔女どころか自分たちの存在すら秘匿できるほど、完璧な勝利を収めていると考えられる」


 魔女が強いのは認めよう。

 彼女は確かに、傍若無人に、自らの憎悪と殺意に忠実に動くだけの力がある。


 しかし、白騎士はその魔女を殺す存在だ。決して軽率な対応をしていい相手ではない。


 勿論、だからこそ殺せるときに殺しておいた方がいいかもしれない。だが、殺してしまえばそこで終わりだ。後から悔いても取り返しがつかない。


 しかし生かしておけば、そこから繋がる可能性もある。具体的に何とは思っていないけれど、死体よりは有用なはずだ。

 それに、死んだ人間は生き返らないが、生きている人間は殺せる。迷った挙句に殺すよりは、「絶対に殺すべきだ」と思ったときに殺す方が、きっと色々と間違いがない。 


 僕の説得に、ジャンヌは納得を示すように頷いてくれた。

 憎悪の籠っていない、年下の子供に向けるべき柔らかな笑顔と共に。


 「……シャルル、ホントに賢いね」

 「ありがとう。推測と想像だし、正解かどうかは分かんないけどね」


 言って、僕は肩を竦めた。照れ隠しだ。


 「さぁ、荷造りをしよう。なるべく早く町を離れないと」


 そうして慌ただしく動き出した僕たちは、リチャード卿の意識を確認することも無く居間を出た。


 ──彼は身体こそ麻痺したものの、意識は鮮明だった。


 「シャルル・ライヒハート……。困ったな、憎悪に駆られた獣なんかより、彼の方が余程厄介だ」


 重苦しい嘆息を聞く者は、今や誰も居なかった。





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